1795年―イタリア戦線



(ナポレオンによる1792―95年のイタリア戦役に関する解説はこちら


・ロアーノ

 イタリアでは5月になってボナパルトが砲兵指揮官の地位を去り、イタリア方面軍指揮官だったシェレールは東部ピレネー軍へ転任となりケレルマンがその後任となった。彼の参謀長はベルティエだった。6月29日(24日の説もある)からド=ウィン率いるオーストリア軍が攻勢を始め、3万人のフランス軍をリヴィエラ海岸からロアーノの西方へ追いやった。ケレルマンは7月5日に退却を終了。彼は増援が得られない限りフランスまで引き揚げると宣言した。

 戦争大臣カルノーはボナパルトと協力し、ヴァドとセヴァへ攻撃を仕掛けるという彼の計画を採用。攻勢を行うため、シェレールが命令を持ってケレルマンの後任として派遣された。9月末に彼に指揮権を譲ったケレルマンはアルプス方面軍に向かった。さらにラインとピレネーの戦線から1万6000人の兵がニースへ送られた。シェレールの兵力は4万2000人に達したが、彼らが攻撃開始位置についたのは11月中旬だった。連合軍4万人は夏の間に海岸沿いにロアーノへ前進していたが、ピエモンテ軍のコッリ将軍とオーストリア軍指揮官ド=ウィンの対立で、さらなる攻撃は延び延びになっていた。フランス軍が(激しい雪のために一週間開始を遅らせた)攻撃を始めた11月23日(22日の説もある)に、ド=ウィンはヴァリス将軍に交代させられた。

 パリからの命令に従いシェレールは部隊を3つに分けた。オージュローとマセナは海岸と内陸部をそれぞれセヴァに向かって攻撃を先導し、セリュリエは左翼を指揮して山岳部に布陣しているコッリを牽制した。フランス軍はまずマセナが11月22日にサン=ベルナルド南方で攻撃開始。年末のこの時期に攻撃があると予想していなかったヴァリスは23日午後中ごろにロアーノをオージュローに明け渡し、さらにマセナがアルジェントー麾下の連合軍中央を北のボルミダへ押しやったと聞いてフィナーレへと退却した。フランス軍2万5000人、連合軍1万8000人が参加し、フランス軍が3000人、連合軍が7000人の損害を蒙った。翌日、マセナはピエモンテ軍を罠にかけるために山中を前進。コッリと戦っていたセリュリエも、11月25日に海岸部から5000人の増援を得て状況が楽になった。コッリは3日後にセヴァへ後退し、ヴァリスも11月29日にはサヴォナの補給物資を捨ててアクイへ退却した。天候の悪化もあってフランスの前進はサヴォナ付近で止まり、両軍は冬営に入った。


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