1792―95年イタリア ナポレオンの解説



イタリア方面軍の軍事作戦の要約。
1792、1793、1794及び1795年。


I.


 第一次対仏大同盟戦争は1792年に始まった。南方軍を指揮するモンテスキュー将軍はジュネーブからアンティーブまでの全国境の守備を委ねられた。戦役は9月に始まった。彼はセシウーの野営地からイゼールへ、そしてバロー要塞へ行軍した。そして数週間のうちにシャンベリーとサヴォワ全体を占拠した。ピエモンテ軍はアルプスの彼方へ退却した。1万人の師団を率いるアンセルム中将は、ダルジェンティエール峠近くのトゥルヌーの野営地からアンティーブまでのヴァール防衛を命じられた。トリュゲ提督は兵2000人を運ぶ戦艦9隻と伴にアンティーブとモナコの間を遊弋していた。ヴァールの防衛線は適当なものではなかった。フランス軍騎兵がその背後を脅かしていたため、トリノの宮廷はその軍に対してマリティーム・アルプスの背後、右翼をヴァール川とその支流に、中央をレントスカに、そして左翼をサオルジオ前面のロヤに置いた防衛線を敷くよう命じた。9月23日、フランス軍の提督からニース沖合に艦戦隊を投錨したところ敵がそこを撤収することを決断したことを、そしてピエモンテ軍が移動をはじめたことを知ったアンセルム将軍は、4000人の部隊の先頭に立ってヴァールを渡り、何の抵抗も受けることなくニース、モンタルバーノ要塞、そしてヴィラ=フランカを確保した。うち後二者は完全な防衛態勢にあり、素晴らしい大砲を備えていた。守備隊は捕虜となった。アンセルムはヴァールを渡渉した。翌日、水かさが増し、彼は軍の残りと引き離されたままニースに8日から10日とどまった。敵はこの状況を知らなかったか、あるいはそれをどう利用すればいいか分からなかった。アンセルムは前衛部隊をトリノ街道のラスカレーナまで押し出した。艦戦隊はサルディニア王に属しているオネリアの港へ前進した。提督は指揮官に降伏を要求したが、休戦の旗を持った者は処刑された。兵が上陸し、市を確保した。アンセルム将軍は彼らの行き過ぎた行為を妨げることができなかった。それどころか彼はニース市から混乱に加わったと告発されたほどだった。そしてそのために召還された。

 1793年の初頭、政府はアルプス方面軍をイタリア方面軍から分離し、1793年2月15日に後者の指揮をビロン将軍に委ねた。いくつかの戦闘がラスカレーナ、ソスペロ、レントスカの高地で行われ、両軍はそれらを交互に占拠した。しかし最後にソスペロはフランス軍の占領下にとどまった。前衛部隊はソスペロとブレリオ間にあるブルイに宿営した。4月11日、ビロンはレントスカ及びベルベデーレに至る高地を占拠し、多くの捕虜と数門の大砲を奪った。しばらく後に彼はラ=ヴァンデ軍の指揮を執るため呼ばれ、その後をブリュネ将軍が継いだ。増援を受けた軍はいまや実働兵力3万人に達した。プロヴァンスの守備隊、兵站拠点の兵、そして病人を合わせれば、各連隊が報告した数は6万8000人まで膨れ上がった。敵も自身の徴兵及び立派なオーストリア師団の増援を受けた。彼らは自身の拠点を数多の砲台及び陣地構築によって要塞化した。彼らの右翼はユテルの宿営地に拠り、中央の前衛はコル=デ=ラウスに、左翼はニースとトリノ間の道路と交差する防御拠点であるサオルジオにあった。

 ブリュネ将軍は正当にも、敵をコル=ディ=テンドの彼方まで追いやり、彼の軍をより強力な拠点でかつ守るうえで少ない数しか必要としないアルプスの山頂、河の水源に配置するために、マリティーム・アルプス全体を手に入れるのを望んでいた。この計画は極めて合理的であり、彼はそれを実行するのに十分な戦力を保有していた。しかし、彼はこれほど重要な作戦を指揮するのに必要な軍事的才能を有していなかった。1793年6月8日、彼は全戦線に渡って全面攻撃を仕掛けた。フランス兵はできる限りのことをした。彼らは奪うことが可能なあらゆる拠点を奪取したが、敵が占拠しているフルシュとラウスの宿営地は難攻不落だった。6月10日、ブリュネは頑として同じ努力を繰り返したが、ピエモンテ軍が栄光を獲得しフランス擲弾兵の精華が破壊されただけだった。今やピエモンテ軍の陣地は突破するには強固すぎると考えられ、しかも彼らはそこの要塞化を進めた。8月、トゥーロンの裏切りはイタリア方面軍にそこを包囲するための分遣隊を送る必要を生ぜしめた。しかし、弱体化しながらも軍は10月に行われたヴァール川を越えてプロヴァンスに侵入しようとするピエモンテ軍の試みを全て撃退した。4000人の戦力を持つ彼らの師団の一つは、デュゴミエの手によってジレットで敗北しほとんど壊滅に追いやられたため、彼らは元の拠点に戻った。不正にも裏切りの罪を問われ、またマルセイユの暴動に好意を示したため、ブリュネはパリの革命裁判所へ引き渡され、断頭台の露と消えた。

 トゥーロン奪回の後、ナポレオンは1794年の最初の2ヶ月を地中海沿岸の要塞化と武装に費やした。彼は3月にニースに到着し、それから砲兵の指揮を執った。軍の司令官はデュモルビオン将軍だった。かつて擲弾兵大尉だったこの将軍は、イタリア方面軍において1792年と1793年の戦役で准将と将軍の地位を得た。彼はあらゆる拠点について熟知しており、6月にブリュネの下で行われた攻撃の一つを指揮していた。60歳で、明快な理解力と個人的勇気を持ち、そして相当に情報通だったが、痛風に苦しんでおり常にベッドにいた。彼は何ヶ月も活動できないまま過ごすことがあった。ゴーティエ将軍が主計総監、デサンティエが検閲総監、アレルが会計と物資管理、ドゥジャル将軍が砲兵副総監、ガッセンディ大佐が軍用地監督、ヴィアル将軍が工兵指揮官、マッカール、ダルマーニュ、マセナらが様々な部隊の指揮官を務めていた。司令部は2年間ニースにあったが、そこは前線から10リューも離れており、戦火が及ぶことはなかった。

II.

 ナポレオンは3月の一時期を軍が占拠している陣地の訪問に費やし、1792年に行われた様々な戦闘に関する情報を集めた。彼は数日間、マッカール将軍が占拠しているブルイの宿営地にとどまり、敵陣の頑強さと、軍にとって破滅的であった6月8日及び12日の攻撃が軽率であったことを確信した。山岳部においては自然に極めて強固な陣地が数多く見つかるが、そこを攻撃しないよう気をつけねばならない。この種類の戦争における才能は、敵の側面または後方の宿営地を占拠し、敵に戦うことなく陣地を撤収するか、そこから出てきて攻撃をしかけさせるかの選択肢しか残さないようにすることを基礎としている。山岳部の戦争では攻撃側が常に不利だ。攻撃的な戦争においてすら、その技術は防御的戦闘のみを行い敵に攻撃を余儀なくさせることで構成されている。敵の陣地はよく連携が取れていた。右翼は頑強なやり方で支援されていたが、左翼はそれほどでもなかった。そちらの方は地形もより利用しやすかった。そこでナポレオンは、困難な戦闘に軍を投入することなくアルプスのより高い地域を確保し、敵に自らラウスとフルシュの手ごわい宿営地を放棄させることを余儀なくさせる作戦計画を思いついた。この計画はロヤ、ネルヴィア、及びタッジャを通って敵の左翼を迂回し、タナルド山、ロッカ=バルベナ、及びタナレロを占拠し、そしてサオルジオ街道を遮断することでマルタの丘の背後にある敵の連絡線も断ち切るものだった。

 多くの私掠船がオネリアにとどまり、そこからニースとジェノヴァの連絡を妨害していた。それは軍を困らせ、プロヴァンスへの食糧供給を大いに妨げて、食料不足をもたらしていた。上記の作戦はこの悪事を改善するのにも使える。軍がモンテ=グランデに布陣すれば、それはタナロ川の水源とオネリア渓谷全てを確保することになる。この町[オネリア]は、オルメア、ガレッシオ、及びロアーノと同様、その勢力下に入る。かくしてこの戦役計画は3つの大きな結果をもたらす。第1に、ニース伯領の防衛線をその自然な陣地となるアルプスの稜線に置く。第2に、山がそれほど高くない地域に右翼を配置することは大いなる利点をもたらす。第3にリヴィエラ=ディ=ジェノヴァの一部を占め、商業の中心地ジェノヴァと、軍及びマルセイユとの連絡を妨げている私掠船のたまり場を破壊する。フランス軍が攻勢に出るために右翼へ派出する分遣隊に対し、敵が効果的に対応できると恐れる理由はない。山がちな地域におけるそうした移動は時間に比例して骨が折れるものとなり、決定的な一撃を与える機会を失う。というのも、もし兵が敵より数日先行すれば、彼らは敵の側面に到着し、かくして敵が攻勢を取るには既に遅すぎることになるからだ。山岳部における戦争では、敵に陣地を離れて自らを攻撃させることを強いるのは、既に述べたように、この種の戦争を実行する要であり真のやり方だ。事実、ベオレ、ブルイ、及びペリュ峠の陣地は、おそらくピエモンテ軍の陣地ほど強力ではないものの、にもかからわず極めて頑強であった。彼らの数的優位もこれらの地域では無意味だっただろう。そしてさらに、たとえこれらの地域が奪われたとしても、コル=ド=ブラウ、カスティリオーネ、及びリュツェラムの陣地で足止めされるであろう敵は、タナルド山及びタナレロがフランス軍に占拠されるのを見るや否やそれらの陣地に対する攻撃計画を採択しなければならない。だがこれらの陣地はそれ自体が優れており、そして我々はまた山岳部の戦争に関する同じ原則に立ち戻ることになる。この場合も敵に攻撃を強いるべきなのだ。加えて、ブルイの宿営地に残っているフランス兵は、ロヤとジョヴ山を越えて彼らの支援に急ぐべきである。最後に、タナロ及びオルメアの水源における作戦はそれ自体が陽動となり、敵を山岳部における困難で危険な戦闘から遠ざけ続け、首都を守るため彼らの軍を平野部に戻すよう仕向けることが期待できる。

 この計画は、2人の派遣議員、軍の兵站担当、デュモルビオン将軍、砲兵司令官、マセナ将軍、ヴィアル工兵将軍、リュスカ准将、地元の山岳地帯で生まれで特に地域を熟知している軽歩兵士官が参加した会議に提示された。提案者の評判は長時間の議論を省いた。トゥーロンに関する彼の予想はなお記憶にあり、そして彼の計画は採択された。

 一つ政治的異論があった。ジェノヴァ共和国の領土を「借りる」必要があったのだ。だが連合軍自身も6ヶ月前に借りており、その際にはピエモンテ軍2000人がジェノヴァ領を通過してトゥーロンへ向かうためオネリアで乗船した。彼らは単に武装を解除した少ない分遣隊として進むこともできたが、実際にはまとまった数で、武装し、ドラムを鳴らしながら行軍した。モデスト号の惨事も思い出された。このフリゲート艦はジェノヴァ湾に碇を下ろし埠頭に停泊していた。1793年10月15日、英国船3隻とフリゲート艦2隻が湾内に碇を下ろした。1隻の74門戦列艦はモデスト号の傍に停泊した。船長は丁重に、英国船の操船経路上にあるボートを移動してほしいとフリゲート艦の船尾甲板にいる士官に要望し、フランス側はすぐに応じた。半時間後、英国艦長は三色旗とは何なのか知らないと言い(連合軍はこの時トゥーロンを支配していた)、モデスト号の指揮官に白旗を掲げるよう要求した。フランス士官は、これは名誉に対する侮辱だと返答した。しかし英国は既に3つの渡し板を用意しており、それをフリゲート艦に渡して乗り込んできた。同時にマストの上と甲板から活発なマスケット銃の射撃を始めた。モデスト号の乗員は攻撃に対して全く準備していなかった。一部は海に身を投じた。英国人はボートで逃げ出した者を追い、彼らを殺し負傷させた。ジェノヴァ住民は怒りを爆発させた。英国の代理人であるドレークは叫び、脅し、いささかの危険を冒した。だが元首はドリアであり、元老院は言い訳をし、結局フリゲート艦は戻ってこなかった。マルセイユの派遣議員はジェノヴァ船に出入港禁止を言い渡した。彼らは国民公会が宣戦布告するものと予想した。だがフランスは、特に南部は飢饉のため荒廃していた。食料をプロヴァンスに供給するためジェノヴァ船は必要だった。そこで国民公会は本心を隠し、出来事は全てジェノヴァの弱さの結果であると宣言し、両国の通常の関係は変わらずに継続されるべきだとした。にもかかわらず、この共和国の独立と中立が侵害されたのは本当だ。

 4月6日、5個旅団から成る1万4000人の師団がロヤを通過し、ヴェンティミリアの城を手に入れた。マセナが指揮する1個旅団はタナルド山へ行軍し、そこに陣を敷いた。第2の旅団はタッジアを経てモンテ=グランデに陣を敷いた。ナポレオン直率の残る3個旅団はオネリアに前進し、サン=アガタの高地に布陣したオーストリア師団を打ち破った。この戦闘でフランスのブリュレ准将が戦死した。翌日、軍はオネリアに入城し、そこで12門の大砲を手に入れた。町と谷の住民は全て逃げ出していた。コル=サン=シルヴェストル近くでさらに12門の大砲を奪った。ピエモンテ軍はそれをオルメアへ運ぼうとしていたが、コル=メザルナから押し出してきた第2旅団の手に落ちた。軍はポンテ=ディ=ナヴェへ行軍した。オーストリア師団の残りはそこに布陣していた。彼らは攻撃され、敗れ、アリオル山の高地からタナロ川へ大急ぎで逃げた。同日、オルメア砦も400人の守備隊、数千のマスケット銃がある武器庫、そして20門の大砲と伴に降伏した。倉庫がいっぱいに詰まった衣類工場は、兵たちに衣服を着せるのに役立った。翌18日、軍はガレッシオを確保し、サン=ベルナルド山、ロッカ=バルベナを経て、サルディニア王に属する海岸沿いのもう一つの小さな町ロアーノへの連絡を確立した。

 ピエモンテ中に警報が鳴り響いた。敵は予想通り、急いでアルプスのあらゆる場所から撤収したが、にもかかわらず彼らの行動は遅すぎ、砲兵を運ぶことはできなかった。マセナはタナレロからサオルジオの背後に進出し、街道と敵のマルタの丘背後への退路を遮断した。サオルジオは4月29日に降伏した。この砦はかなりの量の食料と武器弾薬を持っており、もっと長期間持ちこたえるはずだった。マセナはコル=アルデンテを経てコル=ディ=テンデへ進み、その間にマッカール将軍が正面から攻撃した。攻撃は成功した。軍は今やマリティーヌ=アルプスの最も高い稜線全てを保持していた。オルメア前面に置かれたその右翼はコル=デ=テルミニを経てコル=ディ=テンデと連絡しており、そしてコル=ディ=テンデからアルプス方面軍の最初の拠点があるコル=ダルジャンティエールまでアルプスの稜線を占拠していた。この計画の実行に伴い、3000から4000人の捕虜、60から70門の大砲、2つの砦、そしてアペニン山脈の最初の丘に至るまでのあらゆる高アルプスが手に入った。かくして軍はリヴィエラ=ディ=ポネンテ上方の半分を覆い、右翼側に15リュー戦線を延ばしたものの、それによってその陣地は強化され、少ない兵で守れるようになった。今や何ものもジェノヴァとプロヴァンスの沿岸交易を妨げることはできなくなった。

 軍の損害は極めて少なかった。あまりに多くの計画が立案され、あまりに多くの血が流されてきたサオルジオとこれら全ての重要な陣地の陥落は、軍内でのナポレオンの評判を高めた。世論は既に彼を司令官にするよう求めていた。

 山岳砲兵の輸送は完了した。熟練した士官である軍用地副責任者のフォルトリエ中佐が、その細部に携わった。ニースの武器庫、オルメアやサオルジオ、あるいは敵が放棄した宿営地などで発見されたピエモンテの3ポンド砲は、ラバの背中に乗せて運べるほど軽かった。だがこの口径はどのような場合でも威力が不十分だった。1768年のコルシカ戦争で作られた橇とてこ棒があり、縦隊に随伴する4ポンド砲の運搬に使用された。この方法は8ポンドと12ポンド砲、及び6インチ榴弾砲にも採用された。ラバの背中で持ち運びできる山間部用の炉も考案された。オネリア、オルメア、及びサオルジオへの遠征では山間部のあらゆる作戦で24門の砲兵輸送隊が軍に随伴し、特に兵と敵の士気に与える影響という点で極めて役立った。

 しかし平地とアルプス山麓の丘に宿営したピエモンテ軍は、物資の豊富さを享受していた。彼らは疲労から回復し、損失を埋め合わせた。そして日々、新たなオーストリア大隊の到着によって増援されていた。一方、モン=ブランからタナロ川の水源まで長さ60リューの半円形に延びたアルプスの稜線上に宿営していたフランス軍は、物資の欠乏と病気で滅しつつあった。あらゆる連絡は多大な困難を伴い、物資は不十分かつ極めて高価で、馬匹は損耗し、軍のあらゆる装備は損傷した。これら高地の硬水は多くの病気をもたらした。3ヶ月ごとに軍が病院で受けた損失は、大会戦の損害に匹敵するほどだった。これらの防衛的作戦は、攻撃的戦役よりも我々の財政にとって耐え難い負担となり、兵にとって危険だった。アルプスでの防衛的作戦は、これらの不利な点に加えて、地域の地形から生じる他の問題にも注意する必要があった。3つの山頂に宿営しているそれぞれの部隊は互いに支援することができない。彼らは孤立している。右翼から左翼へ進むのには20日必要だったが、一方でピエモンテを守っている軍は素晴らしい平野におり、直径部分を占拠し、数日のうちに攻撃を企図する場所に戦力を集めることができる。公安委員会は軍が攻勢を担うべきだと望んでいた。ナポレオンはこの件についてアルプス方面軍の士官たちとコルマールで会議を開いたが、意見の相違に圧倒された。まず何よりこの2つの軍を1人の司令官の下に置くことが必要だった。

III.

 9月、オーストリアの1個師団がボルミダ河畔に集結し、デゴに倉庫を設置した。英国の1個師団がヴァドに上陸し、合流した両軍はサヴォナを占拠し、海と陸のあらゆる連絡路を奪われたジェノヴァ共和国にフランスへ宣戦布告することを強いた。ヴァドへの道はオネリア街道と続いており、ジェノヴァとマルセイユの交易を遮断している英国の巡洋艦と私掠船の拠点だった。砲兵司令官はサン=ジャック、モンテノッテ、及びヴァドを占領し、そうすることで軍の右翼をジェノヴァの門に置くことを提案した。デュモルビオン将軍は自ら3個師団、1万8000人と山岳砲兵輸送隊20門の先頭に立って出発した。ナポレオンは軍を導き、軍はコル=デ=バルディネットから出てボルミダ川に沿った道を経てモンフェラートまで浸透した。10月4日にはビエストロの高地に宿営し、5日には平野部に下った。オーストリア軍の背後に襲い掛かることを期待していたが、彼らはその意図を見抜き、カイロからデゴへの退却を実行した。セルヴォニ将軍は彼が指揮する前衛部隊の先頭に立って敵を激しく追撃した。砲撃は5日午後いっぱい続き、夜10時までやむことはなかった。オーストリアは1000人を失い、倉庫と捕虜を捨ててアクイへ後退した。

 デュモルビオン将軍はイタリアへ入る命令を受けていなかったしその意思もなかった。彼の騎兵は食料欠乏を理由にローヌ河にいた。敵を追撃する際に彼は失敗をしでかし、オーストリアとサルディニア全軍を自らに引きつけてしまった。そこで彼はこの偵察に満足し、モンテノッテとサヴォナに後退し、ヴァドの高地に陣を敷いてサヴォナ峡谷に拠点を維持した。砲兵はこれらの街道からフランス艦隊を守ることができるようなやり方で、海岸部を武装した。工兵はヴァドの高地に強力な堡塁を建設した。そこはサン=ジャック、メローニョ、セッテパニ、バルディネット、及びサン=ベルナルドを経てタナロの高地に置いた宿営地と連絡していた。こうした軍の右翼の延伸はその陣地を弱体化させたが、多くの利点も生み出した。第1に、リヴィエラ=ディ=ポネンテ全体と海岸全ての支配を軍に与え、オーストリア=サルディニア軍が英国艦隊と連絡を取り連携して行動するのを妨げた。第2にジェノヴァからマルセイユへの通行を確保した。なぜなら軍が海岸沿いのあらゆる港を支配することで沿岸交易船を守る砲兵陣地を建設することができたからだ。第3に、この陣にいることで軍はジェノヴァ内のフランス支持者を支援し、そして敵がおそらく意図していたようにこの町の城壁を越えようとした時にはそれを予期できる機会を得た。敵の計画を挫いてジェノヴァの中立を確保するこの作戦は、すぐイタリア全体に知れ渡り、大いに警戒を呼び起こした。かくして軍の前哨線はジェノヴァから10リュー以内に存在し、偵察隊や伝令は時にそこから3リュー以内に接近した。

 ナポレオンは秋の残りを、ジェノヴァからニースへの通行を守るためヴァドからヴァールへ至る突出部を優れた沿岸砲兵によって要塞化するのに費やした。1月、彼はある夜にコル=ディ=テンデを通過し、そこから日の出と伴に既に彼の企ての対象となっている素晴らしい平野を見渡した。イタリア! イタリア!(Italiam! Italiam!)

IV.

 フランス艦隊は1792年と1793年の間、地中海を意のままにしていた。オネリア奪取後、トリュゲ提督はジェノヴァ港に停泊し、そこに長期間とどまる一方、そこからラトゥーシュ・トレヴィユ准将を12隻の戦列艦と伴にナポリへ送り出した。[ナポリの]海軍基地司令官はこの艦隊と面会し、6隻の艦の入港を許可する案を提示した。彼は中立を破ることなくそれ以上の数を受け入れることは[ナポリ]国王にはできないと宣言した。准将はこれに気をとめずに宮廷の窓の前で碇を下ろし、1792年12月16日に市民ベルヴィユを上陸させた。国民衛兵の制服を着た彼はアクトン卿によって国王の前に連れてこられた。彼は提督からの手紙を持ってきた、そこでは第1に国王が中立を宣言すること、そして第2にオスマン政府にフランス大使セモンヴィユの迎え入れを拒否するよう説得するためかの国[フランス]を侮辱する考えをほしいままにしている駐コンスタンティノープル大使の覚書を否定することを要求していた。彼は要求したもの全てを得た。そしてナポリ宮廷は、これほど不愉快な訪問をこれほど手軽に排除できたのは極めて幸運だと考えた。1793年1月、トリュゲ提督はジェノヴァを出帆し、コルシカ島のアジャクシオ港に停泊した。そこで彼は、第23軍管区を指揮しているパオリが自由に使えるよう提供した戦列歩兵2000人を乗船させた。これらの兵と伴に彼はサン=ピエトロ島へ足しげく向かい、そこを占拠して砦に守備隊を配置し、2月12日にはサルディニアの首都カリアリの沿岸に停泊した。同時に1隻のコルベット艦に護衛されたボニファチオから来たセザール・コロンヌ大佐麾下の800人がサルディニア北方で逆襲を行った。サルディニア遠征は6ヶ月も前から公表されており、サルディニア軍はそれに備えていた。彼らは提督がカリアリに要求して送った休戦の旗を撃った。砲撃が始まった間に、とうとうニースから送られてきた有名なマルセイユ・ファランクスの一部、兵力約3200人の陸上部隊を運ぶ輸送艦隊が提督と合流した。上陸はすぐに行われた。その間、ラトゥーシュ・トレヴィユ准将が10隻の艦船と伴に艦隊に合流した。全て完全な成功だと宣言されたが、何者もマルセイユ・ファランクスの壊走を止めることはできなかった。彼らはまず町を見下ろす重要な場所を奪うため日中に攻撃を行うことを拒否した。夜になると部隊は互いに撃ちあった。混乱は極まり、あらゆる場所から裏切られたとの叫びが聞こえた。カサビアンカ将軍は提督に兵の再乗船を懇願した。提督は譲歩を余儀なくされた。艦隊は砲撃によっていくらかの重要な優位を得たが、砲兵隊に接近しすぎたレオパール号は座礁して失われた。かくして遠征は失敗し、提督は彼に委ねられた様々な兵をイタリアに送り返し、そしてかなりの戦力でサン=ピエトロ島の重要な港湾を占拠することで満足した。英国とスペインへ宣戦が布告されたため、彼はトゥーロンへ帰還するよう命じられ、かくして彼の遠征の第2目標、即ちコンスタンティノープル前面に現れてオスマン政府にフランスとの同盟を確認させ、ロシア軍を威圧することは放棄された。マルセイユの兵は大急ぎで徴収され、[ジャコバン]クラブによって指図されていた。彼らは友好国であれ中立国であれ、あらゆる場所で貴族と僧侶を探し、血と犯罪を渇望して、上陸した全ての国に恐怖をもたらした。艦隊の乗員は完璧で、経験豊かな船員たちから成っていた。しかしかれらは常に大衆向けのクラブに集められ、請願書の執筆と署名に従事していたため、あらゆる艦船で恐ろしい無秩序の光景が繰り広げられた。上陸を指揮したカサビアンカ将軍は極めて勇敢な人物だった。彼はサヴォワの征服で名を馳せた。しかし彼は指揮官としての仕事に慣れていなかった。加えて彼は麾下に劣悪な兵を抱え、幕僚はいなかった。彼はおそらく成功しようがなかった。彼は後に元老院議員となった。

 1793年3月、スペインがフランスに宣戦布告し、英国とスペインの連合艦隊が地中海を意のままにして、ジェノヴァとプロヴァンスの沿岸を巡航した。トゥーロンの裏切りは地中海のフランス艦隊を全滅させた。しかし、この町を取り返した際に、18隻の艦船と備蓄の一部は取り戻せた。英国に不満を抱いたスペイン艦隊は港へ戻った。マルタン准将は1794年、10隻の艦船と伴にトゥーロンを出帆し海上に出た。戦力に勝る英国艦隊に追われ、彼はジュアン湾に停泊し、そこで砲兵指揮官は彼を守るためいくつかの大きな砲列を敷いた。少し後、彼は強風を使ってトゥーロンに再び入港した。この艦隊は秋の間、トゥーロンの兵器庫から送り出された軍備によって引き続き強化された。

 1795年初頭、ホッタム提督は5隻の3層甲板船、2隻のナポリ艦を含む15隻の戦艦と伴にコルシカとイタリアの間を巡航していた。マルタン提督は16隻の戦艦と1万人の兵が乗船している100隻の輸送艦から成る艦隊と伴にトゥーロンで準備をしていた。この軍備の目的地に関しては様々な意見があったが、ラ=マンシュの国民公会議員ルトゥルヌールが桁外れの権力を持って到着した時に、日々行われている侮辱とバスヴィユの血に復讐するためローマを占拠するのが公安委員会の意図であることが知られた。フランスの代理人として教皇の下に送られたバスヴィユは、ローマの学校の芸術家が学内に座っている時、3色の花形帽章を誇示した。この首都にいた多くのフランス亡命貴族は大衆の興奮を煽り立てた。1793年1月3日、暴徒たちがバスヴィユの馬車を石で襲撃した。御者は引き返し彼の家へ向かった。門は壊されバスヴィユは腹部に銃剣の突きを受けた。はらわたを手に掴んでいた彼は、シャツをつかまれ道へ引き出され、とうとう守衛小屋の野外用小型ベッドに放置され、そこで翌日息を引き取った。

 フランスの芸術家を守るため介入したスペイン大使アザーラも危険に晒された。この暴力はフランスで全面的な憤りを巻き起こした。今や復讐の時が到来した。部隊はテヴェレ川の河口に上陸し、数多くの味方が存在するローマを占拠する。この計画実行を検討するためトゥーロンで軍事会議が開かれた。ナポレオンはこの遠征がイタリア方面軍を危険に晒し、遠征自体も破滅的結果に終わるとの意見だった。にもかかわらず、もし遠征が試みられるなら、同時にアルジェンターレ山とオルビテロ、及びチヴィタ=ヴェッキア要塞を奇襲し、軍をそこに上陸させることが必要だった。そうした奇襲を試みるには1万人の戦力は少なすぎると彼は考えた。また騎兵なしでの実行は不可能であった。少なくとも軽竜騎兵あるいはユサール1500騎を乗船させる実用があるが、砲兵と幕僚用の馬匹500頭まで含めるならそれは輸送部隊にとってかなりの追加となった。軍が上陸すると間もなく彼らは5000騎の優れた騎兵を含む2万5000人から3万人のナポリ兵と交戦しなければならなくなる。またロンバルディアからオーストリア師団がやって来ることも予想しなければならない。この作戦は長期間続くものと想定されていないため、ローマのフランス支持派も当てにはできない。そして、バスヴィユ殺害に復讐し、街に寄付を課した後は、再び乗船して去ることを考えるのが適当だ。我々が制海権を握っているとしても、たった1万人でこの作戦を実行するのは危険だった。制海権がないのであれば、この作戦は部隊を確実な破滅へのみ導くものだった。従ってフランス艦隊は単独で出航し、英国艦隊を打ち破って彼らを地中海から追い払うべきであった。それから輸送部隊は出帆し、兵を上陸させた後で艦隊と輸送部隊はナポリの宮廷を警戒状態に陥れその戦力を自らの防衛のため取り置くことを余儀なくさせるため、ナポリへ向かうべきだ。議員は彼の計画が砲兵指揮官から公式の不同意をひきだしたことに不満を抱き、全将官がそれに賛同したことで一層不機嫌になった。海軍士官は敵艦隊がこれらの海上を航行している時に輸送部隊が出帆したら、自国艦隊が危険にさらされると宣言した。マルタン提督は戦闘艦隊のみで出航し、英国軍を追撃することが決定された。

 彼は3月1日に出帆した。サン=フィオレンツォ近くに到着したところで、彼は航路から外れた英国の74門艦バーウィック号を拿捕した。8日にフランスと英国艦隊はリヴォルノ海峡で遭遇した。敵を見るやルトゥルヌールの勇気は挫けた。彼は退却を命じ、今度は英国艦隊が追撃する番だった。13日、両艦隊はリヴィエラ=ド=ジェノヴァのノリ岬沖にあった。74門艦メルキュール号と3層甲板船サン=キュロット号は、夜の間に艦隊から離れてしまった。翌朝夜明け、ヴィクトワール号ともつれてマストが倒れた74門艦サ=イラ号が風下に流された。サンスール号がそれを牽引した。両艦隊は数は同じだったが戦力は違った。フランス艦隊の15隻は13隻に減少し、その中には3層甲板船がなかった。英国艦隊13隻の中には3層甲板船4隻が含まれていた。フランス艦隊は退却を続けたが、2回の交戦を避けることができなかった。サンスール号とサ=イラ号は英国の3層甲板船1隻及び74門艦2隻と戦った。トナン、デュケーヌ、ヴィクトワール号は終日交戦した。のこるフランスの戦列艦は戦闘に参加しなかった。サンスール号とサ=イラ号は勇敢な抵抗の後に拿捕された。艦隊はイエール諸島に停泊し、サン=キュロット号とメルキュール号がそこで合流した。サ=イラ号はスペツィア航路で沈没した。英国の3層甲板船イラストリアス号もまた、戦闘の結果沈没して失われた。かくして双方の損害は艦船2隻だった。この交戦は、当該戦争における両国の間で初めて地中海で行われたものだった。もしフランス艦隊が戦列を組んでリヴォルノ海峡で戦っていれば、彼らはおそらくその旗の名誉を支えることができただろう。

 しかしこの出来事は共和国にとっては極めて幸運だった。もし作戦が成功し英国艦がジブラルタルへ退却していれば、輸送部隊は出帆していただろう。そしてこの誤った計画に基づく合理的目的に欠けた遠征は、最も破滅的な形で終わらないことはできなかっただろう。結局兵は上陸し、彼らが極めて役に立つニースへと2ヶ月後に行軍し、その国境をオーストリアの将軍デヴィンズの攻撃から守った。この軍事行動には数百万の経費がかかったが、大きな利点を生み出すのに失敗しなかった。トスカナ大公は共和国を承認し、カーレッティ伯を大使としてパリに送った。国民公会は1795年3月14日に彼を受け入れた。対仏大同盟への参加を拒否しフランスの代理人を受け入れていたヴェネツィアはフランス艦隊の武装に刺激され、ヴェネツィアの貴族キリーニを大使として送った。彼の任命は3月14日だった。ジェノヴァは中立の決断を改めて確認した。ナポリ王は英国とスペイン艦隊が地中海を意のままにしている時に対仏大同盟へ参加し、トゥーロン防衛に効果的に貢献した。しかしこの君主は、ローマ、サルディニア王、モデナ及びパルマ公と伴に、1796年戦役で共和国の支配力に譲歩することを運命づけられていた。

V.

 熱月9日(1794年7月27日)以降、フランス南部は激しく混乱した。マルセイユの革命裁判所は町の主な商人全員を断頭台に送っていた。大衆的なクラブを構成するジャコバン派はまだ優勢だった。彼らは山岳派の破滅を残念に思い、その後広まった穏健な法に激怒した。また、セクションの党派は、亡命やあらゆる種類の損失によってかなり弱体化していたものの、復讐への強烈な渇望から混乱を煽っていた。トゥーロンの住民、あらゆる軍需工場に勤める熟練工、及び艦隊の乗員は前者の党派を支持しており、議員のマリエットとカンボンに敵意を持って彼らを後退主義者の一派だと糾弾した。この状況下において1隻のフランス私掠船がスペインからの略奪品をトゥーロンに持ち込んだ。船上には約20人の亡命者がおり、その大半はシャブリラン一族の者だった。騒然とした群集が軍需工場と街中に集まり、これらの不運な人々を虐殺すべく監獄へ進んだ。議員たちは工場へ向かい、県の役人を前に役所で熱弁を振るった後に、工場内の人々に呼びかけ、亡命者を特別な委員会へ引き渡して24時間以内に裁判にかけると約束した。しかし、彼ら自身も疑われており、彼らは世論に何の影響力も持っていなかった。彼らの発言は誤解され、声が響いた。「亡命貴族の擁護者を街灯に[吊るせ]!」既に日は遅く、ランプに明かりが灯り始めていた。騒ぎは恐ろしいものとなり、群集は怒り狂い、警備兵が来たが追い返された。この危機においてナポレオンは、主な暴徒の中にトゥーロンで彼の下に仕えた何人かの砲兵がいるのに気づいた。彼は演台に登り、砲兵たちは将軍に対する敬意を払うことを強いられ、沈黙した。彼の行動は幸運にも効果をもたらした。議員たちは無事に工場を出たが、街頭の騒ぎは引き続き大きかった。監獄の門では警備兵たちの抵抗が緩み始めた。彼はそちらを訪れた。亡命者は翌朝に引き渡され判決を下されるという彼の約束により、群集は暴力の行使をこらえた。完全に明白なこと、即ちこれらの亡命者たちは自発的に戻ってきたのではないため法を犯してはいない点について群衆を説き伏せるのは並大抵ではなかった。夜の間に彼は彼ら[亡命者]をいくつかの砲兵用車両に乗せ、弾薬輸送隊として町の外へ運び出した。イエール街道で1艘のボートが彼らを待っており、そこで彼らは乗船しかくして救われた。トゥーロンの混乱は増し、ついに5月30日に人々は武器を手に取った。反乱状態にあると宣言した群集は、町にいる全議員を逮捕するか逃亡させた。しかし議員たちはマルセイユで支配力を獲得し、トゥーロンに対して進軍した。キュージェの高地で戦闘が行われた。勝利がトゥーロン人民の側に傾いていた時、パクトー将軍が戦列歩兵の一団と伴に到着した。数日でトゥーロンは制圧された。ナポレオンはこの戦闘の1ヶ月前にプロヴァンスを離れた。

 政府の委員会は1795年戦役で軍務につく将官のリストを示した。1792年末から1794年末まで雇われなかった数多くの士官たちが今や軍務につくよう命じられたが、一方で多くの砲兵将軍が雇われなかった。25歳だったナポレオンはその全ての中で最も若かった。彼は歩兵将軍のリストに入れられ、欠員があった時には砲兵として雇われることとなった。彼はケレルマンが指揮権を握ったばかりのイタリア方面軍を離れた。彼はこの将軍とマルセイユで話し合い、彼の欲する情報全てを与えてパリへ出発した。シャティヨン=シュール=セーヌで副官マルモンの父親を訪ねた彼は、そこで牧草月1日の事件に関するニュースを聞き、首都が安定を取り戻すまで数日そこにとどまることにした。パリに到着した彼は、軍務に関する報告を作成した公安委員会メンバーのオーブリーを待った。そして彼に、自分がトゥーロン攻囲とイタリア方面軍で2年間砲兵を指揮したこと、地中海沿岸の要塞化に取り組んだこと、そして少年時代から奉職してきた兵科から去ることはつらいとの意見を述べた。議員は、砲兵将軍は数が多く、その中で彼が最年少であると反論し、そして欠員が発生すれば彼が雇われるであろうと話した。しかしオーブリー自身は6ヶ月前まで砲兵大尉に過ぎなかった。彼は革命以来、戦場で軍務についたことはなかったが、なお自身を将軍(general de division)及び砲兵総監のリストに入れていた。数日後、公安委員会はナポレオンに対し、ラ・ヴァンデへ向かって歩兵旅団の指揮を執るよう命令を発した。それに対し彼は辞職を願い出た。その間、オーブリーの報告書は多くの不満を呼び起こした。解雇された士官たちは群れを成してパリへ赴いた。勇名を馳せた士官たちも多くいたが、大半は不相応な地位にあり、その昇進に際してクラブに借りがあった。しかしながらその全員がナポレオンを汚点のない評判を持つ人物と見て、覚書や請願書の中で報告書の不公平さや不当さの例として彼に言及した。

VI.

 ナポレオンが辞表を出した8日後、彼が公安委員会の返答を待っている間、ケレルマンは敗北してサン=ジャックの陣を失い、そして素早く増援を得られない限りニースからの撤収すら余儀なくされると書いてよこした。これは大いに警戒感を呼び起こした。公安委員会は情報を得るため、かつてイタリア方面軍にいたあらゆる代議士を集めた。代議士たちは一致して、軍が占めている陣地を最も熟知しており、採用するのに適当な方策を指摘できる人物としてナポレオンの名を上げた。彼は委員会に出席するようにとの要請を受け、シエイエス、ドゥルセ、ポンテクーラン、ルトゥルヌール、及びジャン=ド=ブリーといくつかの会議をもった。彼は命令を作成し、委員会がそれを採用した。そして彼は特別な布告によって砲兵准将に任命され、新たな命令が下るまで軍事作戦の監督業務に特別に任じられた。この状態で彼はヴァンデミエール13日の前の2、3ヶ月をすごした。

 ケレルマンが1795年5月19日にイタリア方面軍の指揮権を握った時、軍は前年10月のカイロの戦闘後にナポレオンが配置したのと同じ陣地にいた。これらの配置は以下の通り。左翼の5000人はコル=ダルジャンティエールとコル=ド=サビオン間。マッカール将軍麾下の中央はコル=ド=サビオン、コル=ディ=テンド、モンテ=ベルトランド、及びタナレルを占拠しており、戦力は8000人。右翼はコル=ド=テルミニ、オルメア高地、コル=サン=ベルナルド、バルディネット、セッテパニ、メローニョ、サン=ジャック、ラ=マドンナ、及びヴァド。この部隊は2万5000人からなり、セリュリエ、ラアルプ、マセナ将軍が指揮していた。

 ウィーンの宮廷はカイロの戦闘の結果とフランス軍が1794年末に占めた陣地に深刻な脅威を覚えた。この布陣はジェノヴァを脅かし、その地の喪失はミラノへの道を開く。オーストリアの最高戦争会議はそこでデヴィンズ将軍麾下のオーストリア軍3万人を1795年戦役のために集め、ピエモンテ軍と連携して行動させようとした。英国艦隊はオーストリアの将軍による作戦を支援するためサヴォナとヴァドの沖合いを航行した。デヴィンズ将軍は司令部を相次いでアクイからデゴへ移し、そこからサヴォナの高地に対して機動して23日にそこを手に入れた。かくして彼は英国艦隊との連絡を確立した。

 デヴィンズ将軍は軍を3つの軍団に分け、6月23日に前進した。5つの縦隊に分かれた右翼はコル=ド=テルミニからオルメア高地にかけてフランス軍の左翼を攻撃した。中央は3つの縦隊で行軍し、さらに多くの部隊に分割され、バルディネットからサン=ジャック間の全陣地を攻撃した。左翼はヴァドにある右翼の陣地を攻撃した。25日と26日には全面的な血腥い闘争があった。フランス軍はメローニョ堡塁、コル=ディ=スピナルド、及びサン=ジャックの稜線を除いて陣地を保持した。メローニョ堡塁の奪取により、敵は軍の中央を脅かした。この陣は海岸にあるフィナーレからたった2リーグしか離れていなかった。27日、ケレルマンはこの陣地を取り戻すことが重要だと確信して攻撃を命じたが、成功しなかった。28日、彼は退却し、サン=ジャック、ヴァド、及びフィナーレから撤収して一時的な陣地を敷いた。ついに7月7日に、彼からの24、25、26、27、及び28日の報告に対して回答した公安委員会からの命令を受け取った。彼はボルゲットーの陣に軍を配置した。

 ケレルマンは勇敢な兵士であり、極めて活動的で数多くのよき性質を備えていた。だが彼は軍の司令官に必要な才能が完全に欠けていた。この戦争における行為のいたるところで、彼は絶え間なく失敗を犯した。委員会は彼に意見を述べた。「軍は1794年にその戦線をタナロ高地の彼方まで延ばし、その右翼をバルディネット、メローニョ、及びサン=ジャックを通って延長していた。オーストリア軍が英国艦隊と連携して行動するのを防ぎ、敵がジェノヴァを海側から、あるいはコル=ド=ラ=ボーチェッタから攻撃した場合にこの街の救出に急がなければならない状況に備えるためだけにそうしていたのだ。ヴァドを占拠していたのは防御のためでなく、敵が自らリヴィエラに現れた時にそれに向かって前進できるような攻撃的拠点としてである。オーストリア軍がサヴォナに前進するや否や、彼らがその町を奪取してジェノヴァとの連絡線を断つのを妨げるため、軍は彼らと戦うべく行軍すべきだった。もしそうできなかった際には、まず第1に軍はサン=ジャックの右翼を支援するためヴァドから撤収すべきであり、第2に25日の戦闘の結果として敵がメローニョとサン=ジャックの稜線を奪取した際に、ラアルプ将軍が右翼で得た優位を生かして夜の間にヴァドから撤収し、ラアルプの兵を使ってサン=ジャックとメローニョへの攻撃を増強すべきだった。そうすれば完全な成功の栄誉が与えられただろう。第3に、27日にメローニョを攻撃すると決断した時に右翼を連れてくる時間はまだあったのだから、右翼が26日に敵左翼に対して得た新たな成功を利して右翼をこの攻撃に参加させていれば、この機動もまた勝利を決定づけていただろう」。これらの権威的な形式で書かれた文書は幕僚士官の間にかなりの驚きを生ぜしめた。だが彼らはすぐに誰がこれを口述したのか推測できた。

 リヴィエラ=ディ=ポネンテにはニース伯領を守り川を塞ぐ3つの防衛線があった。右翼は海に、左翼は山岳部の稜線によって支援されていた。防衛線の第1はボルゲットーで、第2はモンテ=グランデ、第3はタッジャだった。ナポレオンはずっと前にこの3つの防衛線を参謀副官サン=ティレールと伴に偵察していた。彼は勇敢で優れた士官であり、後に数多くの会戦で最高の名声を獲得し、そしてエスリングの戦場で将軍として戦死した。ボルゲットーの防衛線では海が右翼の拠る場所であり、ロアーノから1リーグの場所にあるボルゲットー村は丘の上にあり、ロアーノの平原全体を見下ろしていた。そして巨大な孤立した岩が左翼を構成していた。この岩の上にマセナが堡塁を築いており、トゥーロンのマルグレーヴ要塞にちなんで軍はそれを小ジブラルタルと名づけた。その向かいにはプリースト平地があった。そこからは険しい岩山を越えてオルメア、ロアーノ、及びロッカ=バルベナを見下ろす高地へと連絡が取れた。モンテ=サン=ベルナルドとガレッシオはこの防衛線から外れており、当然敵に属していた。しかしオルメアは守られていた。この防衛線は極めて強力だった。その広がりはかなりのもので、5から6リーグに達していたが、そのほぼ全ての場所で難攻不落だった。防衛線はスカレロ街道を経由してのみ攻撃が可能だったが、そこには同名の城があり、防衛の準備が整っていた。戦闘においてここは素晴らしい陣地になった。7、8、9月にかけてデヴィンズは何度かこの防衛線への攻撃を計画したが、決して敢えて本気でそれを実行しようとはしなかった。スカレロからアロソイアの小川の背後を通ってアルベンガで終わる防衛線があり、スカレロからボルゲットーの間で防衛線が抜かれた場合にはよい陣地となった。

 コル=ディ=ピッツォとコル=ディ=メッツァ=ルナに隣接し、サン=ロレンツォの背後で海に拠るモンテ=グランデの陣地はより劣った防衛線だが、にもかかわらず極めて強力だった。その右翼をタッジャ川の河口に、中央をモンテ=チッポに、そして左翼をモンテ=タナルドとコル=アルデンテへ、そしてそっからコル=ディ=テンデへ連絡している防衛線は、ボルゲットーほど強力ではなかったが、モンテ=グランデよりは強力だった。第1の防衛線はオネリアと、オネリアからボルゲットーまでのリヴィエラにある全陣地を守っていた。第2はオネリアとオルメア、そしてタナロ川からの全ての出口を守っていない。第3はオネリアからサン=レモ間のリヴィエラ=ディ=ポネンテ全体を守っていなかった。最後の防衛線は、サン=レモを守ることができ、そこから追い払われた場合にも何ら戦線の崩壊をもたらすことなくその町を撤収しそことボルデゲーラ間にあるオスピタレットに拠ることができるという、独特の利点を持っていた。敵はタナロ渓谷から押し出し、アリオル山の陣を奪い、それからモンテ=グランデとオネリアへ向かうよう脅かすことで、第1の防衛線を迂回できた。しかしオルメアとアリオル山は防衛線にとても近く、予備部隊がこれらの陣地の防衛を務めることが可能だった。彼らはまたコル=ディ=テンデを経て迂回することもできたが、これは戦場を変えることになる。我々に知られることなくこれだけの大きな動きをすることはできなかったし、敵の兵が行軍を始めた時は、彼らがボルゲットー防衛線の前に残した部隊を攻撃し粉砕する時を我々の見張りに教えてくれることになっただろう。第2の防衛線と、何より第3は、それより前方にあるタナロ渓谷を経由した迂回をされやすくなく、コル=アルデンテと、即ちコル=ディ=テンデまでは連絡しているという利点があった。そしてコル=アルデンテとタナルダはコル=ディ=テンデの防衛に貢献しているだけでなく、たとえコル=ディ=テンデが突破されても後方にあるニースへ通じる道を通ってサオルジオの隘路に先に到達することもできた。従って、ニース伯領の防衛だけを考えるなら、全兵力が集結して手近でコル=ディ=テンデを防衛することができるタッジャの防衛線が最良であった。

 政府はイタリア方面軍の指揮はケレルマンの能力を超えていると考えて9月に彼をアルプス方面軍の司令官とし、スペインとの講和で不要になった東部ピレネー軍を指揮していたシェレール将軍にイタリア方面軍を委ねた。シェレールは優秀な兵から成る2個師団の増援をイタリアに連れてきた。オーストリア軍も同様に増援された。1795年戦役で彼らは宮廷の希望を叶えてはいなかったが、なお重要な成功を収めていた。彼らはサン=ジャックとヴァドの陣を奪い、ジェノヴァとの連絡を絶ち、英国艦隊との連携を確立した。

 11月初頭、フランス軍は引き続き5個師団でボルゲットーの防衛線を占めていた。セリュリエ将軍麾下の左翼師団はオルメアに、マセナ将軍とラアルプ将軍麾下の2個師団はスカレロとカステル=ヴェッキオに、そしてオージュロー将軍とソレ将軍麾下の2個師団はボルゲットーの向かいに位置し、全体で実働戦力は3万5000人から3万6000人の間に達した。

 オーストリア軍の司令部はフィナーレにあり、ピエモンテ軍から成る右翼はガレッシオにあった。アルジャントー麾下の中央はロッカ=バルベナに、オーストリア軍のみで構成される左翼はロアーノ前面にあって、平野部を守るため数多くの堡塁を構築していた。彼らの戦力は4万5000人だった。秋に発生した病気はピエモンテ軍同様、彼らにもかなりの損害をもたらした。フランス軍もそこで生き延びるのがとても困難な状態となり、季節の進展に伴い兵は冬営に入ることを切望するようになった。シェレールは彼の冬営の安全を確保し、ジェノヴァとの連絡線を回復するため、敵に山の向こう側で冬をすごすことを余儀なくさせるべく戦闘の危険を冒すことを決断した。

VII.

 11月21日、マセナは自らの師団及びラアルプ師団と伴に[前日]夕方から前進し、夜明けにロッカ=バルベナに布陣した敵中央を攻撃し、彼らを打ち破り、勢いよく追撃し、彼らをボルミダ川へ追い込んでメローニョを奪取し、前衛部隊がサン=ジャックの高地で宿営する格好でその日を終えた。22日、彼は夜明けと伴に敵右翼と小競り合いを始め、ピエモンテ軍全部を牽制し続けた。ボルゲットーから進出したオージュローは、敵左翼を攻撃し、全陣地を奪った。敵は大慌てでフィナーレへ退却し、そこからサヴォナへの後退を続けたが、サン=ジャックの高地にいるマセナに先手を打たれたのに気づいた。巧妙な機動によって何ら実質的な損害を受けることなく自らの倍に達する敵兵を牽制し続けたセリュリエは、23日のうちに2個旅団の増援を受けた。24日、今度は彼が厳しい攻撃を仕掛け、ピエモンテ軍をチェヴァの防御を固めた宿営地へ追いやった。オーストリア軍とサルディニア軍はかなりの損害を蒙り、砲兵、荷物、弾薬の大半を失い、4000人の捕虜を取られた。フランス兵はこの日、不朽の栄誉を得た。オーストリア軍はジェノヴァ領リヴィエラ全土を放棄し、アペニン山脈の彼方へと冬営のため引き上げた。両軍とも冬営に入った。フランス軍の連絡線は今や妨げられなくなった。彼らの司令部は再びニースへ移り、かくして1795年は終わった。

Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III p17-62


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