1793年



 1793年が始まった時点でフランス軍にとって状況はそれほど不利には見えなかった。ベルギーとライン河中流域はフランス側の支配下にあり、イタリア方面でもサヴォワとニースを押さえていたからだ。この年、フランスが欧州諸列強に次々と宣戦布告していった背景の一つに、前年中の軍事的成功があると考えられる。スペインに宣戦布告した時、バレールは「フランスの敵がひとつ増えれば自由の勝利がまたひとつ増える」と叫んだほどだ。

 だが、軍を巡る状況は決して楽観視できるものではなかった。前年中は志願兵中心に兵力動員をかけて連合軍を追い払うのに成功したが、1792年末から1791年に応募した志願兵の帰休、除隊の問題が起こり、兵力は次第に減少していった。1793年初頭、フランス軍の書類上の戦力は27万人となっていたが経済の混乱などでその実戦力は表面上の数字より小さかった。一方、英国などが加わった連合軍の兵力は全体で35万人に達していたのだった。

 兵力不足は覿面に効いた。フランス軍は春から各地で後退を続け、祖国はまたしても危機に陥った。この状況を修正するには、再び兵力を増やすのが最も手っ取り早い方法だ。かくして革命政府は2月に「30万人の動員の布告」を出し、それでも足りないとなると8月には総動員法をつくった。国内での反発を招きながらも、史上初の「国家総動員」は恐ろしいほどの力を発揮した。フランスはこの年の間に100万人を超える空前の兵力動員に成功し、連合軍の侵攻も国内の反乱も、年末にはその動きを押さえ込まれた。


・1793年/戦線

[フランドル戦線] [ライン戦線] [イタリア戦線] [ピレネー戦線] [南部フランス] [西部フランス] [植民地戦争]


・1793年/年表

1月21日ルイ・カペー処刑
1月31日ニース伯領のフランスへの併合議決
2月1日イギリス国王とオランダ州総督に宣戦布告
2月14日モナコ公国のフランスへの併合議決
2月21日アマルガム法
2月24日30万人の動員を布告
3月7日スペイン国王に宣戦布告
3月22日ポラントリュイ地区のフランスへの併合議決
4月6日公安委員会発足
6月2日国民公会がジロンド派議員29人の逮捕を議決
8月23日総動員法
10月5日共和暦採用
10月31日ジロンド派処刑



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