1793年―西部フランス



・ヴァンデ反乱

 3月11日、ヴァンデ地方で農民の反乱が起きた。直接の原因となったのは30万人の動員の布告であり、戦争に狩り出されるのを嫌がった農民がカトリックの僧侶や地元の貴族たちをリーダーに担いで抵抗した。兵力不足の共和国軍に対して当初は反乱部隊が優位に立った。カトリック王党軍と名乗るヴァンデ反乱軍は5月5日にトゥアルを占領。5月25日にはフォントネ=ル=コントで3万5000人のカトリック王党軍が1万4000人の共和国軍を破り、4000人もの損害を与えるのに成功した。そして6月7日(9日の説もある)にはソーミュールを占領した。

 一方、共和国軍はこの地域を大きく二つに分けて反乱鎮圧に当たった。4月にはロワール河北岸はカンクロー将軍が、南岸はビロン将軍が指揮官となってニオールに司令部を置いた。南岸のラ=ロシェル沿岸軍に派遣された議員たちはソーミュールにおり、そこにはサンテール将軍らの率いる部隊がいたが、彼らの大半は訓練不十分でカトリック王党軍の攻撃を支えられなかった。だが、共和国軍は勝利を得たカトリック王党軍が引き揚げた後ですぐにソーミュールを奪回した。派遣議員たちはソーミュールから出撃して反乱軍を海に追い詰める作戦を立案。これに反対していたビロンは辞任した。

 6月12日、カトリック王党軍はカトリノーを指揮官に選んだ。しかし、彼らの逆境はそれから始まる。6月28−29日に3万8000人のカトリック王党軍はカンクロー麾下の共和国ブレスト沿岸軍1万2000人が守るナントを攻撃。街中まで攻め込むが狙撃兵にカトリノーが撃たれたところで戦況は一転し、退却を強いられた。カトリック王党軍は5000人の損害を出し、重傷を負ったカトリノーは7月4日に死去した。

 7月5日にはロシュジャクラン麾下の2万人のカトリック王党軍がウェステルマンの共和国軍2万人をシャティヨン=シュール=セーヴルで打ち破ったものの、反乱軍の一方的な攻勢の時期はすでに終わっていた。一方、共和国軍側ではソーミュールのサンテールらがヴァンデ中心部へ進撃したが、7月18日にヴィイエールで反撃にあった。7月から9月にかけて内乱は一進一退が続いた。

・穏健派の反乱

 一方、6月2日にジロンド派議員が国民公会から追放されたのを機に、地方の穏健派の中にもパリの山岳派に対して抵抗姿勢を示すところが出てきた。ノルマンディーとブルターニュの各県は志願兵を集め、ウァンプファン将軍を指揮官として進撃を開始。しかし、7月13日にパリからやって来た部隊とブレクールで出会った反乱軍は、僅かな戦闘を交えただけですぐに敗走した。7月下旬には共和国軍が反乱の中心都市だったカーンを占領。フランス西部における穏健派の反乱は鎮圧された。

・ショレの戦い(1793年10月17日)

 ヴァンデ反乱軍に対してはライン方面で戦闘していたマインツ軍が差し向けられることになった。マインツを守備していたフランス軍が連合軍に降伏したのは7月23日。1年間は連合軍と戦わないことを条件にマインツからフランスへ戻ったこの部隊は、ヴァンデへ投入されることになった。ヴァンデではビロンの後にロンサン将軍に支持されたロシニョールがラ=ロシェル沿岸軍指揮官となっていたが、すぐに能力不足を露呈。そのため新たにやって来たマインツ軍の所属はカンクロー将軍率いるブレスト沿岸軍に決まった。

 カンクローは9月5日に行われたカトリック王党軍によるナント攻撃を撃退し、マインツ軍と合流した。彼はラ=ロシェル沿岸軍と協力して攻撃を行ったが、ロシニョールが勝手に部隊を引き揚げたため孤立。19日にクレベール麾下のマインツ軍2000人がトゥールフでカトリック王党軍4万人と衝突した際には、反乱軍リーダーの一人ボンシャンの活躍とクレベールの負傷もあってカトリック王党軍が勝利を得た。さらにブレスト沿岸軍の右翼部隊がモンテージュで奇襲を受けたこともあり、カンクローはいったんナントへ撤退した。だが、彼はすぐに部隊を再編し、25日には再び前進を始めた。

 次第に包囲の環を狭めていた共和国軍だったが、10月になって全軍の指揮を取っていたカンクローが元貴族という理由で指揮官の地位を解任された。これに合わせて共和国軍の指揮系統が変更。マインツ軍は西方軍と名を変えた旧ラ=ロシェル沿岸軍に所属を変えた。ラ=ロシェル沿岸軍指揮官だったロシニョールは主力部隊を失ったブレスト軍の指揮官に転任し、10月8日に西方軍の指揮官としてレシェル将軍が着任した。だが、彼は無能なうえに臆病な人物であった。部隊の事実上の指揮権はマインツ軍のクレベールが握ることになった。

 追い詰められたカトリック王党軍はショレに集結した共和国軍3万2000人(2万5000人の説もある)に対して3万5000人(4万人の説もある)で決戦をしかけることにした。10月17日、ショレ北方に前線を敷いた共和国軍に対してカトリック王党軍が激しい攻撃をしかけた。敵に押された共和国軍はショレの街中へ後退し、激しい市街戦が繰り広げられる。だが、共和国軍中央を任せられたマルソー率いるリューソン縦隊が抵抗を続け、アクソの部隊が左翼から反撃に出たところで状況は変わった。カトリック王党軍では指揮官のボンシャンやデルベが重傷を負い、浮き足立った反乱軍は北のロワール河へと退却した。損害は共和国軍4000人、カトリック王党軍8000人。この戦いに派遣議員として参加し真っ先に逃げ出したのが、後にナントで虐殺を行ったカリエだった。クレベールはこの戦闘について「反乱軍は虎のように戦い、我が兵は獅子の如く奮闘した」と言った。

・彷徨

 ロワール河を北へ渡ったカトリック王党軍の期待は、イギリス軍の増援だった。彼らは故郷を離れて海岸へ向かい、グランヴィルの港を11月14−15日に攻撃した。だが、攻め寄せる2万5000人の反乱軍を相手に5000人の共和国守備隊は健闘し、カトリック王党軍は港の攻略を諦めてラヴァルへと退却した。一方、彼らを追撃する西方軍ではレシェルが病気を理由に辞任し、クレベールの推挙でマルソー将軍が臨時の指揮官に就任していた。彼らもまたロワール河を北へ渡り、カトリック王党軍を追い詰めようとしていた。

 行き先を失った逃亡の部隊はロワール河南岸の故郷へ戻ろうと南下したが、12月3日にはアンジェで反撃を受けてロワール渡河に失敗。12月12−13日にはマルソーの西方軍2万5000人にル=マンで攻撃を受け、2万5000人の部隊のうち1万5000人を失うという大敗を喫した。もはやカトリック王党軍は軍隊ではなく、逃げ惑う群集に過ぎなかった。12月23日、マルソーとクレベール率いる共和国軍2万人の攻撃を受けたヴァンデ軍の残骸7000人はサヴネーで全滅した。

 実はイギリス軍とエミグレ軍は12月2日に1万2000人の部隊でブルターニュの海岸に到着していた。だが、その時点でヴァンデ軍はすでにロワールへ帰還するべく南下を始めており、彼らの姿を海岸に見つけられなかったイギリス軍は空しく引き上げた。この後、ヴァンデとその隣接地であるブルターニュでの反共和国活動はゲリラ戦が中心となる。

 12月30日、西方軍に正式な指揮官であるテュローが着任。31日、かつてラ=ロシェル沿岸軍を指揮していたビロンが処刑された。


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