1793年―イタリア戦線



(ナポレオンによる1792―95年のイタリア戦役に関する解説はこちら


・サヴォワの戦闘

 1月からイタリア方面軍はサルディニア島へ遠征。2月18日にはピエモンテの支配するマダレーナ島への上陸作戦も始めた。パオリが躊躇ったため25日に作戦は失敗に終わり、フランス軍は撤収した。2月10日にはビロンがイタリア方面軍の指揮官となったが、5月にはヴァンデ方面へ転任し再びブリュネが指揮官となった。

 この年の夏、リヨンなど南部フランスで生じた反共和国暴動に対応するため、ケレルマン将軍率いるアルプス方面軍が前線から引き抜かれた。フランスの防衛線が薄くなったのに乗じ、ピエモンテ軍が8月に1万8000人の軍勢でフランス領サヴォワへ侵入。北方のプティ=サン=ベルナール峠からはモンフェラート公の部隊が、南方のモン=スニからはコルドン侯の部隊が前進してフランス軍をシャンベリーまで追い詰めた。

 これに対応するためケレルマンはリヨン包囲をドップに任せ1万2000人の兵を率いて8月31日にサヴォワ戦線に戻ってきた。彼はまず南方のアーク川沿いに展開していたコルドン侯の部隊を叩き9月16日にこれを追い返した。さらにケレルマンは北方で攻勢に転じ、モンフェラート公の部隊を10月3日にはプティ=サン=ベルナール峠の向こうに追い落とした。最後にケレルマンがアーク川沿いに残っていたコルドン侯の部隊に対して兵力を集めると、コルドン侯はサヴォワ駐留を諦めて10月8日にモン=スニへと退却した。だが、公安委員会は元貴族であったケレルマンを信用せず、彼は16日にはアルプス軍指揮官を辞した。11月6日にケレルマンは監獄に入れられる。

 一方、イタリア方面軍の指揮官ブリュネも南部フランスの反乱と関係しているとの疑いを持たれたために8月19日にその地位を追われ、11月14日に処刑された。彼の後任はデュマビオン将軍。9月にはイタリア方面でも連合軍の攻勢が始まった。これに対し11月にはセリュリエ将軍などが反撃を行い、戦線を安定させた。


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