大分空襲

 

昭和20年 3月18日

大分県は初めて本格的な米軍の空襲を受けた。この日の空襲は、九州にある軍事施設、特に航空基地

及び航空機の撃滅を目的としたもので、大分県では航空隊を持つ大分佐伯宇佐が攻撃目標となった。

 

昭和20年 4月21日

21機のB29が大分駅や市街地を爆撃、昼過ぎには偵察を兼ねたB29の爆撃により航空廠の勤労動員

学徒18人を含む70余人が死亡。

 

昭和20年 5月 8日

市街地がB29による絨毯爆撃を受け、民間人多数が死亡。

 

昭和20年 7月16日

夜半に1機のB29が照明弾を投下、後続の30機が17日未明にかけて約6,000発の焼夷弾を市中心部に投下

市の中心部2,358戸が焼失するという大被害を受け、すっかり焼き尽くされた。

 

昭和20年 8月10日

白昼、市の西部地区を中心に焼夷弾攻撃を受けた。

 

被害総数

.                 攻撃回数        約85回

.                 攻撃機数     約3,000機

.                 投下爆弾数    約1,650発

.                 焼夷弾      約9,500発

 

.                 死者          485人

.                 負傷者         718人

.                 家屋全焼      5,398戸

.                 家屋半焼        373戸

.                 家屋全壊        361戸

.                 家屋半壊        372戸

 

大分縣護國神社

大分県大分市

第十二海軍航空廠 高城発動機工場 防音壁

説明版

昭和二十年三月十八日の初空襲以来、大分市 は終戦までの五ヶ月間爆撃にさらされますが、高城発動機工場も

何回も襲撃を受け、鉄扉には米軍艦載機の機銃掃射による弾痕が無数にあります。

 

  

第十二海軍航空廠 高城発動機工場 防音壁

 

霜凝神社

大分県大分市

  

平和の礎

碑文

わが国は 昭和六年満州事変に始まり日支事変 そして昭和十六年十二月八日には太平洋戦争へと突入した 

戦争は次第に激化し下郡地区からも百五十余名の若者が当霜凝神社から 皆に送られて戦場へと赴いた

当時下郡は戸数僅か二百五十余戸 その中から五十余名の若者が 祖国の安泰と郷土の繁栄を念じつつ貴い

命を捧げ帰らぬ人となった また米軍機の空襲によって下郡地区にも爆弾・焼夷弾が投下され 無残にも直劇弾

を受けて爆死した方も出る等多くの被害を受けた

昭和二十年八月終戦を迎えたが 戦後五十年を経過した今日 戦争を知らない世代の増加と 経済発展のもた

らす豊な生活は この悲惨な戦争体験を忘却させようとしている

我々が今日享受する自由で平和な日々は これら戦没者の貴い犠牲によることを決して忘れてはならない

この平和の礎となられた方々を後世に伝えることは 残された者の責務と考える

戦後五十年の節目に当り犠牲者の遺徳を偲び 恒久の平和を希求する証として 犠牲者の名前を刻した記念碑

を霜凝神社境内に建立することとした

願わくは この「平和の礎」が永遠の平和と繁栄に役立つことを念願する次第である

 

都市空襲

更新日:2008/12/17