学童疎開

 

疎開はもともと軍事用語で「分散して闘いをすすめる」という意味の言葉だったが、本土空襲の激化により

都市の防空体制を強化するため足手まといになる者を地方に送り出して防空態勢を強化する意味して使

われた。

学童疎開とは、空襲の惨禍から将来戦力となる若い生命を護り次代の戦力を培養することを目的として、

大都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住させた事をさし、学童の戦闘配置を示すもの

とされた。

国は当初、家族制度の崩壊と戦意の喪失をおそれ、人員疎開に消極的だったが、本土がB29の航続距

離圏に入るに及び、急遽実施する事となった。

学童疎開は個人的な縁故疎開を原則としたが、昭和19年 6月30日に閣議決定された「学童疎開促進要

綱」に基づき、縁故疎開が難しい国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開を

実施した。

昭和20年 3月には「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2

年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進する「根こそぎ疎開」を実施した。

学童疎開の対象都市は、東京・横浜・川崎・横須賀・名古屋・大阪・神戸・尼崎・門司・小倉・戸畑・若松・

八幡の13都市とされたが、昭和20年 4月には京都・舞鶴・広島・呉の4都市が追加指定された。

 

東京都の「戦時疎開学園」

昭和19年 3月10日、東京都は各区長宛に「学童疎開勧奨に関する件」を発し、養護学園等の施設を利用して

「戦時疎開学園」を設置し一部学童の疎開を実施する事とした。

昭和19年 4月 5日、東京都は「東京都国民学校戦時疎開学園設置要綱」を定め、師弟同行・行学一体の錬

成を目指し、勤労の重視・学年別自学自習・上級生下級生を包含する班を組織し共励切磋を旨とする生活訓練

を行う事とした。

 

大阪府の「集団避難」

昭和19年 4月22日、大阪市では「学童集団避難要綱」を定め、「空襲必至ノ情勢ニ対処シ状況緊迫ノ場合ハ

防空総本部長ノ命令ニ依リ大阪市ノ指定地域内国民学校児童ヲ安全ナル地域ニ集団避難セシムル」事とした。

指定地域の国民学校では5月1日および6月3日に避難訓練を行った上で、6月16日から19日にかけて10区

90校が2泊3日ないし3泊4日の集団避難を実施した。

収容先は寺院・教会・錬成所・旅館・クラブ等の集団宿泊、又は一般家庭に分宿とし、児童は応急食糧2日分(5合)

を携行する事とした。

国の「学童疎開促進要綱」を受けて大阪府が定めた「学童疎開並ニ避難要綱」には縁故疎開、集団疎開の「何レニ

モ依リ難キ学童ニ付テハ、必要ニ応ジ学童集団避難要綱ニ依リ集団避難ヲ実施スルモノトス」と第三の疎開方法を

定めているが、実際に集団避難を実施する事はなかった。

 

疎開船「対馬丸」の遭難

昭和19年 8月21日 18時35分、那覇港を出発し九州に向った学童疎開船「対馬丸」は、翌22日22時15分

悪石島沖合いにおいて米軍潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により撃沈された。

「対馬丸」には那覇市をはじめ県内各地の国民学校の学童826名、引率教師や一般疎開者835人、合計1,661

名が乗船していたが、一瞬にして1,476名が犠牲となり、 学童は767名が亡くなり、救助された学童は59名で

あった。



学童疎開船 対馬丸

 

疎開先の火事で亡くなった子供達@

昭和20年 1月29日 21時30分頃、真光寺(徳島県美馬郡貞光町)の本堂が漏電による失火により火事になった。

真光寺には南恩加島国民学校(大阪市大正区)の3年生の男子学童29名が集団疎開しており、子供達のうち13名は

助かったが16名が焼死した。

都市空襲を避けるために遠い四国の山間で集団で暮していた子ども達に襲いかかった悲劇だった。

戦後、貞光町の人々や徳島県全県の学校で募金により、真光寺の境内に被災学童を祀る十六地蔵が建立され、

昭和21年5月29日に開眼供養が行われている。

 

疎開先の火事で亡くなった子供達A

昭和20年 5月30日 午後11時50分、山田温泉の旅館「風景館」2階炊事場から出火し十数軒を焼いた火事で、

同温泉に疎開中の池袋第五国民学校の女子学童8名が亡くなった。

 

山田温泉 薬師堂

長野県上高井郡高山村

牛久保観音

碑文

昭和二十年五月三十日火災 疎開学童殉難物故者芳名

大塚 朋子  中田百合子  小林由利子  大橋 きぬ  大島緋佐子  露無 しほ

佐久間輿年子  反目 良子

昭和五十一年五月三十一日  牛久保観音奉賛会建立

 

  

牛久保観音

 

一時帰宅して東京大空襲に遭遇した子供達

千葉県は学童疎開で本所区(墨田区)の児童を受け入れることになり、8月に菊川国民学校6年の男子が東金

市の本漸寺に疎開した。

しかし、昭和20年3月1日に中等学校入学試験のため東京に戻る事となり、年が明けた2月末には5年生と

「お別れ会」をし3月1日に帰京した。そして3月10日未明の東京大空襲に遭い本所深川一帯が火の海と化し、

帰宅した児童の大半の若い命が絶たれた。

 

本漸寺/千葉県東金市

  

慰霊碑                                        本漸寺本堂

碑文

第二次世界大戦末期、東金へ疎開学童が受験のため帰郷中、昭和20年3月10日未明 本所深川大空襲

に依り戦災死した旧友の霊を悼み 此処ゆかりの地 本漸寺境内の碑を建立するもの也

昭和32年3月17日 菊川小学校20年度卒業生 東金市

 

都市空襲

更新日:2014/06/21