対馬丸事件

 

陸軍徴用船・対馬丸

 

事件の経過

昭和19年 7月 7日、サイパンが陥落し「次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島・徳之島・

沖縄諸島の老幼婦女子を対象に、日本本土へ8万人・台湾に2万人の計10万人の疎開命令を出した。

しかし県民には沖縄が本当に戦場になるかどうかの判断がつかず、未知の土地への移動に難色を示す者もいて疎

開希望者はなかなか集まらなかった。児童の親等から疎開輸送に軍艦の投入を要請する声もあったが、日本海軍

には既にこれに充てる余裕は無かった。

多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させる事が急務だっ

た為、最終的には軍が隣組長や国民学校長を通じて、疎開割当者を半ば強制的に確保する命令を出し、県は「沖

縄県学童集団疎開準備要項」を発令して学校単位で疎開事務を進めた。

昭和19年 8月21日夕方、対馬丸は疎開学童・引率教員・一般疎開者・船員・砲兵隊員1,788名を乗せ

疎開者を乗せた和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航した。

翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を

受け、殆どの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ者も台風の高波にのまれた。

生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、軍の連絡を受けた漁船に救出された。対馬丸の小関一等運

転士は10名程の児童が乗ったイカダにつかまり、漂流している児童を見つけてはイカダに乗せ、23日になっ

て漁船2隻に救助された(児童・一般人83名、兵7名、乗組員21名)。

最終的に乗員・乗客合わせて1,476名が死亡、対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が船と運命をともにし

犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いた。生き残った疎開学童は僅かに59名だった。

 

事件後

対馬丸が撃沈された事件には箝口令が布かれ事実を話すことを禁じられたが、疎開先からの手紙が来ない事など

から関係者の知るところとなった。しかし犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、更に10月10日の

那覇大空襲(十・十空襲)や翌年の県民の4人に1人が犠牲になった地上戦で戦禍を被ったため、戦後になるま

で沖縄に残された家族に正しい情報が伝わる事は無かった。

 

戦後

昭和25年10月、対馬丸遭難者遺族会が発足。

昭和28年、波之上護国寺に慰霊碑「小桜之塔」建立。

平成 9年12月12日、遺族会の要請で行われた悪石島沖海底捜索にて対馬丸の船体が発見された。遺族会は

国会に引き揚げを要求するが、政府は対馬丸船体引揚げ可能性調査検討専門家会議の結論を受け引上困難として

行わない意向を表明。代替案として「記念館」の建設が持ち上がり「対馬丸記念館」が全額国庫補助で建設され

る事が決定した。対馬丸遭難者遺族会は財団法人対馬丸記念会へ改組し記念館建設のための独自運営を始めた。

 

対馬丸遭難者遺族会「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」

 

旭ヶ丘公園

沖縄県那覇市

 

小桜の塔

碑文

昭和十九年八月二十二日夜半 学童疎開船対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受けて 悪石島沖で轟沈し いたい

けな学童と付き添いの人・一四八四人の尊い生命が ひと時に奪われてしまいました これらのみたまを弔い慰

め 世界の恒久平和を念ずるために 多くの人々の善意で 小桜の塔 は建立されました

 

小桜の塔建立について

愛知県丹陽村の「すずしろ子供会」会長河合桂氏は戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え

昭和二十八年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河合氏を始め関係者

は愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年五月五日小桜の塔

が建立された。

 

海鳴りの像

碑文

第二次世界大戦(太平洋戦争)で沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍・民併せて二十万余の尊い命が犠牲

になりました。戦後六十二年経った今日なお、戦争で犠牲になった人々の遺骨がいまだに山野に残されたままに

なっています。他方沖縄県は、離島県であるが故に、海で犠牲になった県民は三四〇五人(沖縄県調査)にのぼ

ります。学童疎開船「対馬丸」を初め、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために乗船し

た者・召集令状を受け、郷里から出征しようと本土から沖縄に向かったもの・満州開拓団から帰郷した者・南洋

方面から軍命によって強制送還された者などです。

沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は二六隻です。海なりの像には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲

になられた県民一九二七人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び

悲惨な戦争は起こしてはならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から追悼の誠を捧げます。戦時遭難船舶

遺族会は、一九八七年六月二十三日「海鳴りの像」を建立しました。二〇〇七年六月二十三日、赤城丸(四〇六

人)・嘉義丸(三六八人)・開城丸(十人)・湘南丸(五七七人)・台中丸(一八六人)など五隻の犠牲者(一

五四七人)の「刻銘板」を建立しました。

戦時遭難船舶遺族会

 

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更新日:2014/06/22