---えどめぇるまがじん--- 

TOKIO江戸めぐりの旅・バックナンバー
その1
池袋〜巣鴨駅付近   
その2
巣鴨駅前〜白山上
その3
白山上〜団子坂下付近   
その4
団子坂下〜千束
  
  
 
      

路線バスジフ

TOKIO江戸めぐりの旅
 都バス 草63系 ― その2

<取材・文:福島 朋子>


 さて、前回は、巣鴨地蔵通り近辺をウロウロしましたが、今回はその続きとして「巣鴨駅前」から出発。あちこち寄り道しながら「白山上」までのんびりと廻ってきました。やっと春めいてきた今日この頃、皆さまも休日の昼下がり、ぶらりと都バスで江戸めぐりをされてはいかがでしょうか。 バス地図ミニ 今回のバスルート
クリックすると拡大図が見られます
四季折々の風景が見られる六義園(りくぎえん)
「巣鴨駅前」からバスに乗ること二駅。「本駒込六丁目」で下車して徒歩10分のところに、六義園があります。この六義園は、川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702年)に築園した日本庭園で、明治に入ってからは三菱の創業者岩崎弥太郎の別邸としても利用されていたとか。本郷通りという大通りに面しているのに、中は深緑が喧噪を吸い取ってくれるのか、驚くほど静か。パンフレットによれば、ここ六義園は、四季折々の移り変わる景色を楽しむ繊細な日本庭園なのだそうですが、残念ながら、取材に出かけた時は春を代表する桜の季節にちょっと早かったよう。見所の一つである高さ約13メートル、幅約17メートルの「しだれ桜」のつぼみも堅くその絶景を見ることはできませんでした。まだ開花していないというのに、枝のしなだれ具合がすでに妖艶なこの桜、本当に花が咲き乱れたら、さぞや見事なことでしょう。
今年の見頃は3月最週末の予定。このメルマガを見て、すぐに駆けつければもしかしたら間に合うかも!
 さてさて、紅葉でもなく、桜もまだで、もちろん雪景色もない時期の六義園ですが、なかなかどうして、内門から園内の中心にかけて広がる景観を望むだけで、なんだか気分はすっかり時代劇? ところどころにある茅葺き屋根の休憩所で木漏れ日を楽しみながらあたりを見渡せば、知りもしないのにワビサビを体感した気になれます。そして、何よりもここ六義園の素晴らしさは、ある位置から庭園を見渡すと、いっさいビルのない空が見上げられること。視界すべてが緑と池にあふれ、思わず言葉を失う清々しさです。江戸の頃とこの一場面はもしかしたら同じ風景なのかもしれない……とちょっと贅沢な想像ができたひとときでした。
 
六義園1 六義園:江戸大名が作った庭園の中でも代表的な日本庭園で、昭和28年には国の特別名勝にも指定されています。園内にはウグイス、メジロ、マガモ、オシドリなどさまざまな野鳥も訪れ、来訪者の目を楽しませてくれます。

六義園2-2 「しだれ桜」は戦後に植栽され、現在50年以上が経過しています。取材時には残念ながら開花していませんでしたが、最も見頃には、こんなに美しくなります。

 六義園3
ここが、まったくビルが視界に入らずに園内を見渡せるスポット。千年坂を越えた先で、ちょうど中の島の方向より少し右を見るとこの風景になります。

 六義園4
休憩所も茅葺き屋根で、ひなびた気分に浸れます。
富士のミニチュア!? 駒込のお富士さん
 六義園に来たついでに、と次に足をのばしたのが本駒込5丁目にある「富士神社」。六義園のすぐ脇にある本郷通りを後楽園方面に徒歩約5分強ほど歩くと左手に「富士神社前」という標識が見えてきます。
 この神社、建てられたのは天正元年(1573年)と江戸期よりさらに前なのですが、江戸市民に流行した「富士講(ふじこう)」により、当時「駒込のお富士さん」と呼ばれ、信仰を集めた場所なのです。
 さて、ここで今月も江戸の信仰について学習しましょう。「富士講」とは、江戸時代から昭和初期にかけて組織された「富士山」を信仰する結社であり、旧暦の5月末になると、6月1日の登拝の祈祷をするために、代表者は本家・富士山を目指し、他の人々は「江戸の富士」にお参りに出かけたというものです。
 この「江戸の富士」なるものが、富士塚と呼ばれるもので、富士山に気軽に登れなかった時代に、誰もが気軽に富士山に登れるようにと神社の境内などに作られたミニチュアの富士山のことでした。現在都区内に現存している富士塚は58山とされ、この駒込の「富士神社」もその一つだそうです。
 だからでしょうか、この神社の石段の勾配といったらすごい。子供やお年寄りを一人で上らせるには抵抗があります。きっと賽銭箱が石段を上りきった本堂の前でなく、石段の手前に置かれているのも登らずしてお参りできるためなのでしょう。
 

   三井寺へ行う

 
富士1 富士神社:江戸期には「駒込のお富士さん」と親しまれました。延文年間(1356〜1361年)にはすでに現在の場所は富士塚と呼ばれ、大きな塚があったとされているそうです。一説によると、この塚は前方後円の古墳だとか。

富士2.JPG 見てください、見事に急なこの石段。神社向かって右側にスロープがあるので、上るときはともかく、降りる場合はこちらを利用した方がよいかもしれません。

住宅街に忽然と現る「駒込名主屋敷」
 さらに、富士神社の数100メートル先の住宅街には、享保2年(1717年)に築造されたといわれる名主屋敷が現存しています。ここは現在も住宅として使用されているため、中を見ることはできませんが、通りから重厚感ある倉を眺めることができます。しかも、実はこの屋敷、そもそもは宝永年間(1704〜1711年)に建てられているらしいのですが、火災に遭い前出の享保2年に再建されたとか。表門のみは当初のものと伝えられています(ともに明確に立証するのは難しいとされているようです)。
 さて、ずいぶん寄り道をしてしまいましたが、そろそろバスの旅に戻りましょう。駒込名主屋敷からは「駒込富士前」バス停が近いのですが、残念ながらこの路線は東京駅に向かってしまいます。そこで、本郷通りを突っ切り、千石を目指します。約10分ほど歩き、草63系のバス停「本駒込2丁目」でふたたび乗車、「白山五丁目」、「東洋大学前」と過ぎたら「白山上」で今度は下車します。しばらく坂道を下ること約10分。今度は歌舞伎や演劇などで有名な「八百屋お七」のお墓がある「円乗寺」に到着しました。
 屋敷1.JPG
名主屋敷:こちらの門が、宝永年間に築造されたとされる表門。現役の住居ゆえ、自家用車が停まっているのはご愛嬌ということで……。

 屋敷2
こちらが、通りから見える年代ものの「倉」。う〜ん、江戸というよりは、横溝正史の世界を連想してしまうでしょうか?
「八百屋お七」が眠る円乗寺
 あまりにも有名な「八百屋お七」の物語。井原西鶴の『好色五人女』などさまざまな脚色がありますが、主なストーリーをご紹介しましょう。
 江戸時代もようやく爛熟期を迎えた天和2年(1682年)、江戸の町では天和の大火が起こり、八百屋の娘、お七の一家は菩提寺の円乗寺に避難することになります。そこで、お七は寺の小姓佐兵衛(吉三郎とする説もある)と恋に落ち、「もう一度火事が起きたら佐兵衛に会えるかもしれない」との想いから火つけをしてしまうのです。江戸の当時、放火は大罪、天和3年3月29日、哀れお七は鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処されてしまうのです。これが恋のために命をかけた情熱の女性「八百屋お七」の逸話です。いくら放火は重罪とはいえ、戦乱時以外で女性の火刑が行われたのは、お七ただ一人とされています。放火という大罪を犯したものの、恋のために命をかけたお七に人々からは同情の声が集まり、北は蝦夷・松前、西は京・大坂、南は薩摩・琉球と全国津々浦々で瓦版が出たといわれています。
 現在、円乗寺には3つの墓が祀られていますが、中央は寺の住職が供養のため建立したもの。右側は寛政年間(1789〜1801)に歌舞伎役者の岩井半四郎がお七を演じて好評だったことから建てられました。そして左側の墓石は近隣の有志が集って、270回忌の供養で建立したものです。
 また、円乗寺には、お七が恋人の夢枕に現れて、西方極楽浄土に往生したと告げた折に、残していったといわれる地蔵尊が祀られています。この「八百屋於七地蔵尊」は「良縁成就」「家内安全」「開運招福」「厄除け」などに御利益があるとされ多くの人々が今も参詣しています。  恋に生きた女性が祀られているお寺ですから、もちろん「良縁成就」をお願いした私ですが、なぜか誤って地蔵尊ではなく墓石にお願いをしてしまいました。あはは〜。どうなんでしょう、御利益はあるのか? 皆さまは、墓前で手を合わせたあと、きちんと地蔵尊の方にもお参りしてくださいませ。

 さて、またしても遅々として進まぬぶらり江戸めぐりでしたが、次回は史跡以外にもおもしろそうな「江戸もの」を探してみたいと思います。よろしければまた、おつきあいください。

 
お七1円乗寺:割合こぢんまりとしたお寺なのですが、お寺の前に「八百屋お七墓所」と書かれた石碑もあるのですぐわかります。

お七2お彼岸だったせいか、お墓の前には綺麗な花がたくさん供えられていました。

もどる│えどまが │すすむ

HOME