このテクストは2005年度にサントリー文化財団から助成を得て進められている研究プロジェクト「ヨーロッパにおけるアニメーション文化の独自の発展形態についての調査と研究」の成果として公開するものです。



チェコ・アート・アニメーションの世界
    ――対談:辻直之×赤塚若樹 パート1

2005年10月17日 UPLINK FACTORY

 注目の若手アニメーション作家・辻直之1と、本プロジェクトの研究代表者・赤塚若樹によるチェコ・アニメーションをめぐる対話。

 この対談は、渋谷のUPLINK FACTORYにおいて、コロムビアミュージックエンタテインメントからのチェコ・アニメーションのDVD-BOX発売を記念する上映イベント「チェコ・アート・アニメーションの世界」に際して二日間にわたって行われた。初日の10月17日の対談は、イジー・トルンカ、ヘルミーナ・ティールロヴァー、ブラジェスラフ・ポヤルといった1940年代から70年代にかけて活躍したチェコ・アニメーションの作家たちの作品の上映プログラム後に行われたものであり、対談の内容も、「チェコ・アニメーション」とか何か、という話からはじまって、前述のアニメーション作家たちにカレル・ゼマンも加えた、いわゆる「巨匠」たちの作品に関するものとなっている。(対談中に「新世代」と呼ばれている作家たちは1990年代以降に出てきた作家のことで、その作家たちの作品については、対談のパート2で詳しく言及されている。)なお、当日は辻直之作品の配給を手がける鈴木朋幸氏が司会を務めた。(2005.12.08)


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 <「チェコ・アニメーション」は存在するのか?>

赤塚:辻さんは、チェコ・アニメーションといわれているもの全体に対して、どういう印象をお持ちになるんでしょう。

辻:まずですね、一話完結で10分か20分くらいですべて語りつくすものが多い。まあ、そういうものだけではないんでしょうけれども、そういうものってなんか新鮮だったんですよね。

赤塚:それはチェコのもの、ということですか。

辻:そうですね。そういうものはヨーロッパの辺境にある、という固定観念ができちゃっていて……(笑)。

赤塚:すると、短篇アニメというのは、そういうチェコ・東欧のものをはじめにご覧になったという……。

辻:それまでいくつか観てはいたのでしょうが、あまりピンときていなかったというか……。今日のトルンカの作品なども、ちょっと暗かったりするじゃないですか。暗いだけじゃなくて、自分の理解できないもの、人の中にある闇とか、そういう変な部分というのを描く傾向があるのかな、と思って。それは結構嬉しいというか。短いアニメっていうと、明るいものとか、子供っぽいものを作らなきゃいけない長さなのかな、と思っていたので。

赤塚:それでは、東欧全般というか、チェコ・アニメーション全体の印象というのはありますか。

辻:今日のプログラムと「新世代」[註:40年代〜70年代に活躍した「巨匠」に対し、「新世代」は90年代以降の作家たち。「新世代」の作家たちにかんしては、パート2で詳しく触れられる]の方でだいぶ違ってまして、今日のものは「巨匠」の作品群と言えると思いますけど、「巨匠」たちの作品群と「新世代」たちの作品群は、違う世界といっていいくらいに離れているという感じがします。

赤塚:なぜこういった質問をするかといいますと、チェコ・アニメーションについて語っていただきたいというひとつのテーマがあるからなんです。そういったものが本当にあるのか、あるとしたらどういうものなのか。そういった点を実作者である辻さんに率直に語っていただきたいわけです。「巨匠」といわれる人びとと「新世代」と呼ばれる人びとにはやはり違いがあると思いますか。

辻:そうですね。私、今年の夏にクロアチアのザグレブで作られたアニメをたくさん観て、そこから選んで小さな上映会をやったのですけれども……。

赤塚:それは「新世代」と同じような年代のものですか。

辻:いえ、「巨匠」と同じような時代のものなんですけども、手法はまったく違うんですが、精神的な部分でつながっているような感じがして……。まあ、地域でくくるっていうのはなかなか難しい部分がありますよね。

赤塚:「チェコ・アニメ」について考えてみても、チェコだけみていてもわかりませんよね。日本らしさっていうのは日本にいてもあまりよくわからないわけで。僕自身の個人的な考えなんですが、チェコ・アニメーションというくくりに無理に特徴をみいだしても仕方ないのではないかという思いがあります。たとえばブラックユーモアが特徴だとか、日常的なものがアニメーションになって動いていく、そういったことが特徴だという人もいますが、どうもどこかの本の受け売りっぽくきこえてしまう。そういうことを思うと、無理してチェコ・アニメーションとくくる必要があるのか、ということがあります。

 チェコでアニメーションがどうして盛んになったかですが、人形劇の伝統があるという人がいる。ですが、ヨーロッパ全体にも人形劇の伝統はあります。日本も同じで、たとえば人形浄瑠璃の伝統がある。チェコは小さい国ですし、ソ連の支配下にあった。その前はドイツ語圏の人ひとに支配されていました。そういう支配者たちはどうするかというと、ゲルマン化しろ、というわけです。たとえば学校での言葉とかは、ドイツ語が優先順位として高くなる。ところが当時、人形劇だけはそういう制約がなくて、昔ながらのチェコの伝統的なものを上演してもよかった。そういったところから、チェコでは人形文化の伝統が根付いた、というわけです。ですが、そういったことと人形アニメーションが簡単に結び付くのか……。

  一方で、トルンカやティールロヴァーの作品がどうして有名になったのかというと、背景には当時、社会主義体制だったということがあります。社会主義とは、非常に簡単にいえば、政府のいうことをきけばお金は出してあげるよ、ということです。トルンカなどが50年代に数々の作品を発表して、それが世界各地の映画祭ですごく高く評価される。ディズニーなんかよりすごいんじゃないか、という評価もされてしまう。そうすると政府は、トルンカにお金を出せばチェコの宣伝になるぞ、と考えるわけです。トルンカだけじゃなく、チェコのアニメーション全体にもお金を出して、人形アニメーションをつくらせる。それが世界中の映画祭で評価されることによって、自分たちの国の宣伝となる。そういったことが、ずっと背景にあったわけです。

 <物語がわからない>

赤塚:さしあたって「新世代」はべつとしまして、トルンカであり、ティールロヴァーであったり、そういった人たちに、チェコらしさというものを辻さんは感じますでしょうか。

辻:そうですね、観ていて、一瞬、今何が起こっているのかっていうのがわからなくなったりするのですけども……。

赤塚:情景がですか。

辻:情景がですね。ちょっと、自分が知っている展開の運び方の法則と違うんですよね。

赤塚:それはストーリーが違うということですか。

辻:そうですね。注意してないと、頻繁にストーリーがわからないということが起こるんですね。で、それは不親切なつくりだからなのか、それとも自分が西側にいて、何十年か前の東の文化の作品を観ているからわからないのか、それはわからないですけど。とにかく、全体の流れのなかで、次どうなるかというのが読みにくい。

赤塚:辻さんの作品も読みにくいと思いますよ(笑)。その辻さんがおっしゃるということは、それはよっぽど読みにくいということなんでしょうね。

辻:私の場合はそれは全然理由が違うというか(笑)。例えばですね、イジー・トルンカの『電子頭脳おばあさん』(1962)ですけど、最後に、おばあさんがイスに座って、子供を抱っこする場面があるじゃないですか、それが、なんでイスに座るのか。抱っこして、それから暗くなるじゃないですか。これは一体、ハッピーエンドなのかそうじゃないのか。ポヤルでしたら、いいことが起こったのか悪いことが起こったのかが、観おわってもさっぱりわからない。

赤塚:それは「新世代」以前の作品に共通するものであると感じられるものですか。

辻:そうですね、全体的にみての話ですね。カレル・ゼマンも、ふとすると何が起こっているのかわからなくなるということがありますね。

赤塚:では、ストーリーではなく、映像的な部分ではどうですか。「巨匠」たちに共通するもの、チェコらしさというか。

辻:それはちょっとどうなんでしょうかね、バリエーションがありますから。例えば、シュヴァンクマイエルのアニメとトルンカのアニメーションでは、人間の動きのリアリティーでいっても、目指してる方向性がまったく違うということがあって、だから、その辺についてはちょっとわからないですね。

赤塚:まあ、無理にまとめる必要はないですけどね。先日、ミッシェル・オスロが来日しまして、そのとき、川本喜八郎さんと高畑勲さんとのトークがありました。そのなかでスタイルが話題になったんですが、そのときにオスロ監督と川本監督が、自分たちはそれぞれ、一方はフランス文化、もう一方は日本文化が背景にあって、それをどういうふうに表現していくかがひとつの関心対象となっていて、その点でお互いに評価しあっている、というような話があった。

 川本さんが先日チェコに行って、ポヤルのスタジオを訪れたそうです。ポヤルのスタジオでは、いろんな監督たちが短篇の映画をつくっていて、それを並べてひとつの長篇をつくるというプロジェクトをやっていたそうなんです。その断片を観たとき、「これは日本ではつくれない」と川本さんは思ったそうなんですね。それは資金的な問題ではなくて、チェコのスタイル、ポヤルのスタイルというものが非常に強く出ていて、それは日本にはないものだ、と。その話が印象に残っているんですが、この話をきいてどうですか。

辻:いま、ポヤルのスタジオが、という話になりましたが、工房単位といいますか、トルンカにもスタジオ単位のスタイルというものがあって、そしてもちろん、国の雰囲気、文化的な雰囲気というものもあって……。私は特に、東欧の60年代の空気を嗅げた気にさせてくれる作品が好きなんですが……。

赤塚:僕もひとつの枠組にはめたいというのではなくて、チェコ・アニメーションということをいったときに、どんなことがいえて、また、いえないか、そういうことを考えられればと思っているのですが、確かにそうですよね、あるひとつの場所でやっていれば、場の空気、雰囲気というものは作品に宿りますよね。だからポヤルのスタジオであればポヤルの雰囲気になる。その雰囲気というものがチェコまで広げて存在するといっていいかどうかはわかりませんが、たとえば『冬の日』(2003)という、芭蕉の句を世界各国のアニメーターが連作していくという作品では、ポヤルの部分というのは一瞬でポヤルとわかるんですよ。それはやはりトルンカの流れにあるもので、空気と、人形のかたちと、雰囲気にそういうものがあった。そうすると、トルンカからポヤルに移っていく伝統というものは確かにある。けれども、それはチェコ全体にいえるのか、あるいは「新世代」は違うのか。

辻:そういえば、80年代の作品っていうのはあまり上映されていないので、それがどういうものかはよくわかりませんけれども、アニメをつくりたい、絵を描きたい、っていうのところでは、「巨匠」と「新世代」はつながってるところもあると思うんです。けれども、やはり、人のありかた、世界のあり方がトルンカたちと「新世代」の人たちでは全然違うということがあって、その中で、当時みたいなもの、今では感じないようなことが、今の世界に生きる人たちは何も感じないようなものが「巨匠」の作品群には入っているのかなと。そういうことを考えてみてしまうんですけども。

 <チェコ・アニメーションの技術力>

赤塚:人形のつくりかたですか、そういう点では受け継がれているものがあるように思えます。確かに巨匠たちの作品を観て、新世代の人たちの作品を観ると、人形の作り方ですとか、そういった技術が高い。人形の動かし方なんかもそうですけども。作品が好きかどうかというのとはべつの部分で、技術のクオリティというのは高いと思います。ですから、そういった技術の部分でみてみると、チェコ・アニメーションというつながりはあるのかなと思うのですけど。

辻:昔、どこかの本でみたんですけども、それには、関節とかがよく動きそうな人形の骨組みが載っていて……。

赤塚:それはチェコのものですか。

辻:そうだと思うんですけども、その骨組みがある世界とない世界とでは、できあがってくる人形アニメーションの作品のレベルが明らかに違うだろうというものがあったんですよ。

赤塚:骨組みが精巧にできている、ということですか。

辻:そうですね。それは人形アニメーションをやる人が多いからなのかあるのか、それとも特殊な人が、例えばトルンカなんかが発注したからあるのかはわからないですけども。今もそういうものが残っていると思うんですよね。逆に日本ではそういうものを使っている人はいないと思うんですけど。その人形には驚きました。

 私も人形アニメを作ったことがあるのですが、トルンカの『真夏の夜の夢』(1959)にバレエを踊るシーンがあって、私の作った人形ではバレエなんかは踊れないんですね。途中で倒れちゃったりとか。バレエを踊らせようなどという発想がでてくるような、完全に動くものは作れないというか。で、バレエを踊れるためには、完全な信頼を置けるような骨組みをもった人形が必要なはずなんですけどね。私なんかは、そのバレエのシーンをみて、もう人形アニメはやりたくない、という気持ちになったわけですけども。

赤塚:今回、トークをするにあたってどんな話をすればいいかなと考えていて、辻さんともメールのやりとりをしたわけですが、そのなかで辻さんが「トルンカをみて人形アニメをやりたくなくなってしまった」とおっしゃっていた。どうしてなのかなと思っていたわけですが、そのシーンだったんですね。

 実作者でない人間からみると、そういうことがわからないわけですよ。確かに表面だけでみてもすごいとは思いますけれども。その物理的なすごさというか、プロフェッショナルな観点からみた場合の可能性の広がりとか、こちらとしてはわからないわけですが……。

辻:バレエのシーンをもし作ろうと思ったら、自分の身体でバレエを踊れないとしても、頭の中で、ほとんどバレエが踊れてると思うんですよね、アニメーターは。それで、なおかつ、重力の問題とかあるわけですけども……。

赤塚:人形にかんしてですか。

辻:人形でやる場合です。人間の動きの重さのバランスと違うものをやらなければいけないわけですよ。しかも、大きさも違いますし。やはり、バレエを踊るっていうのを人形アニメーションでやるっていうのは、私にとっては神業なわけです。とりあえずショックでした。

赤塚:ストップモーション・アニメーションとか、コマ撮りとか、いろいろ言い方はあるわけですけども、立体のものを動かすアニメーション映画がある。まあ、人形アニメーションとしておきましょうか。その人形アニメーションでトルンカはやはりあるレベルを超えてしまっているわけですか。

辻:そうですね。動きにかんしては、立体のアニメーションで、私が知ってるかぎりでは別格ですね。

赤塚:どれが一番とか二番とかいうことは重要ではないですけれども、トルンカというのは人形アニメーションをつくった最初の一人なわけです。その最初の一人が、ほぼ完璧の域に達してしまったと。

辻:例えば、『真夏の夜の夢』のバレエのシーンというのは、別にバレエのシーンがなくてもいいわけですよね。それはつまり、誰もついてこれないだろう、と言ってるようなものなんですよ。立体アニメーションでバレエをやるっていうのは。それは自分でも分かってると思うんですよ。

赤塚:それは誇りたいっていうことですか。

辻:誇りたいというか、自分が一番だと言っているのと同じようなものだと思うんですよね。ほんとにきれいなんですよ。そういえば、カレル・ゼマンにガラスのアニメーションが……。

赤塚:『水玉の幻想』(1948)かな。

辻:はい。例えば、どこかから雫が落ちてくるシーンがあるんですが、それが別のものに変わったりするんです。そのあいだの形のガラスがあったりとかして。それは大きさを変えて職人さんが実際にガラスを作っているわけですよね。だいたい、ガラスの立体アニメーションなんてタブーの領域ですよね。動かせないし。

 <技術と物語の合致>

辻:ちょっと話は変わるかもしれませんけども、『電子頭脳おばあさん』ですか、すごくいろんな技法が駆使されていますよね。次から次へと技術のオンパレードみたいなところがあるわけです。で、展開もはやいですから、話を追っていくうちに考えてる暇もない。

赤塚:技術的な面でいうと、たとえばどういった点に注目すればおもしろさがわかるのでしょう。

辻:例えば、立体のものが宙に浮いているときにどういう動きをしているかというのがあって、直線的に動いているだけだったら、引っ張ったりだとか、ある程度作り方を決められると思うんです。でも、もしそれが横に動いていたり、きれいにいろんな方向に動いていたりすると、忍耐力や計算、チームワークがいる作業になってくるわけです。そういったことをいろいろ試していて、うまく作品のなかにはめこんでいる気がしたのですけども。

赤塚:それは技術を見せるためにということでしょうか。

辻:でもそれがうまく物語とシンクロしていて。技術的にどういうことが起きているのかわからないなかで、主人公がわけのわからない世界に入っていく。内容の不思議さと技術的な不思議さが合致していて、自分がどこに入っていくのかわからない気持ちっていうのが、技術的にも知らないものと出会うところと一緒に進行していくわけですね。

 一個思い出したんですけども、イスが女の子を探すときに、何かが映写されるわけじゃないですか、イスが見ているものとは別のものが見えちゃう。それは単純なアニメーションの技法ではないわけですよね。イスの目からライトのようなものが出ていて、そのライトはおそらく映写機で、景色かなんかを映写している。本当はサーチライトであるはずのものが。それが変なんですよ。

赤塚:それはアニメーションとして、というわけではなく……。

辻:アニメーションとしてではなく変なんですけど。そういう、変わった技術を組み立てていくことによって変なところにいく、というか。

赤塚:となると、アニメーション云々という話ではなくて、トルンカの映画技法という話になってきますね。

辻:そうですね。アニメーション技法にかんして、例えば今の日本のテレビアニメだったら、私、結構観るんですけども、ストーリーが面白ければ結構観れる。技術的に新しい冒険は無くても。でも、ポヤルとかはそういう技術的なところが盛んなんですよ。割と細かくいろんなことをやってくるわけですね。シュヴァンクマイエルなんかもけっこうそうで、今までみたこともないようなものを作るときに、話の筋立てとかではなくて、技法的なものも同時に入れていく。

赤塚:どちらかが突出していても仕方ないことでしょうから、融合しているというところが素晴らしい、と。

辻:そうですね。このシーンにこういうテクニックをぶつけたら面白い、というのがわりと自然にあるわけです。だから、技術的に変なことをやっているな、というのが一瞬わからないわけです。

赤塚:引き出しがいっぱいある、ということでしょうか。こちらが予期しないようなものが、引き出しから自然に出されている、という……。

 <アニメーション作家は神様?>

赤塚:辻さんと僕が知り合ったのはちょうど一ヶ月くらい前なんです。渋谷のBunkamuraで『Thinking and Drawing』(ダゲレオ出版)という、辻さんなどの若手のアニメーターの作品を集めたDVDのイベントがあって、トークショーがありました。そのなかで、作家さんたちが自分の作品や制作の態度について話していた。そのとき、アニメーション作りにたいするモチベーションは何かという質問に辻さんが何をいったかというと、情念や怨念、といったのです。もちろん言葉のあやとしていっているわけですけれども、非常に強い言葉ですよね。僕はそれを聞いたときに、おもしろいなと思いました。そういうことを非常にストレートにいうことが。そして、アニメーション作りとは何かというと、それは堕落であると。これはある種の覚悟の言葉で、堕ちるところまで堕ちれば、という(笑)。ここで、情念とか怨念とかいう言葉をキーワードにして考えてみたら、トルンカはそれが非常に強いといえるんでしょうね。

辻:そう思いますね。なぜなのかというのはあまりよくわからないですけども、とことんやりきろうというところや、ちょっとほの暗い世界がなどが。

赤塚:メールのやりとりをしているなかで、辻さんは「生きていない人形を命あるように見せることについて、トルンカには怖いくらいの執念深さがあったのではないか」とお書きになっていた。それは情念があったり、ものすごく強いモチベーションがあったりということだと思うんです。生きていない人形に命を吹き込むということは、要するにアニメーションということですよね。アニマっていうのは「息」とか「生命」という意味の言葉で、そのアニマ、つまり「生命」を吹き込むということからアニメーションという言葉ができているわけです。意識していたかどうかはわかりませんが、そういうことにかんしてトルンカは非常に強いものを持っていたといえるのでしょうね。シュヴァンクマエイルが紹介されるときに「魔術的」という言葉がよく使われますが、まさにそうですよ。だって、生きていない人形に、えいっ! と魔法をかけて、動かす。それと同じことをしているわけですよね、アニメーションというのは。ですから、ただちょっと動けばいい、というのと、バレエを踊らせたい、というのは、やっぱり魔法のかけかたが違うわけですよね。

辻:作品の、すごくきれいなんですけどもモヤッとしたところと、やらざるをえないという追求の姿勢……。トルンカは自分が満足する感覚というのが、すごく遠いところにあるのかな、と。私は非常にいい加減なところで妥協するので(笑)。トルンカってどこまで行っても満足しない。

赤塚:アニメーションというのはある種の魔法を使っているわけですよね。人形を生きているように動かす。やってることというのは神様ですよ。で、今回のプログラムにはトルンカの『手』(1965)という作品が入っていました。『手』というのはまさにそういうことを描いているのではないかと思うんですけど、どうでしょう。作り手がなんでもできちゃうというのがわかりきってしまったら、そのときに人形の立場というのがどうなってしまうのか。そういうことに考えがいってしまったのではないかと思うんです。だからトルンカにとってこれが最後の作品になってしまったというか……。トルンカ自身が、自分のやっていることをある種醒めたかたちでみてしまったようなところがあるのではと思ってしまいました。

 この作品については、ときどき政治体制のことに結びつけて、あの手は、社会主義、共産主義の抑圧する「手」であるといわれます。実際にそういう面もあったんでしょう。それは否定しません。でもそれだけだったらつまらない物語ですよ。アルルカンがいろんなことをしようとしても、「手」の支配のもとから逃れられない。そして最後には死んでしまう。まさにピエロです。するとトルンカのやっていること、つまり神様のやっていることというのは、手と同じことであるわけですよね。辻さんも自分のアニメーションのなかでいろいろなものを動かしているわけですが、そういったものを生かすも殺すも辻さんの思うところひとつということですよね。トルンカはそのことを知ってしまった。そのことにたどり着いてしまった結果、最後の作品になってしまったのかなあ、という気がしているんです。だからちょっと怖いなと思ったんですよ。

辻:あれを作って、もうアニメーションを作れなくなってしまったんですか。

赤塚:あれをつくって三、四年経って亡くなってるんです。もちろんこれは偶然なのでしょうが、あれが最後の作品であるとなると、つくれなくなったという言い方もできるのかなってちょっと思っているんですよ。

辻:私、まったくそういう意識を持って観てなかったですね。

赤塚:辻さんはどういうふうに観られましたか。僕なんかは、実際につくれないわけですから、いろいろ理屈こねてるだけなんですよ(笑)。

辻:私にかんしては、あの作品は観終わったあと何も考えられなかったという(笑)。

パート2に続く


(発言採録・構成:土居伸彰)


[1]辻直之(アーティスト/映画監督)
 1972年静岡県生まれ。1995年東京造形大学卒業後、インスタレーションや平面、アニメーション映画を通じ、アンダーグラウンドな活動に没頭。2002年岩崎ミュージアムにて個展。以後、バンコク、ソウル、ロンドンなどの映画祭に出品。2003年より非営利映画の上映会「ぺぺ馬場キネマ劇場」主催。木炭画による短編アニメーション作品が高く評価され、2004年には『闇を見つめる羽根』、2005年には『3つの雲』と、2年連続で《カンヌ国際映画祭》「監督週間」に招待されている。
 この11月に初のアニメーション作品集DVD『3つの雲――ダークサイド・アニメーション』(COBM-5372)がコロンビアミュージックエンタテインメントよりリリース。いまもっとも注目されるアニメーション作家のひとりである。


協力:コロムビアミュージックエンタテインメントUplink FactoryTomo Suzuki Japan


Text Copyright (C) 2005 Naoyuki Tsuji, Wakagi Akatsuka


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