関東に住んでいる私が伊勢をお参りするときは、いつも新幹線を名古屋で降りて近鉄に乗り換える。近鉄特急はたちまち木曾川を渡って三重県に入り、すぐまた揖斐川の鉄橋を越えると、もうそこは伊勢平野である。それは伊勢湾に沿って弓なりに長く長く続く平野である。車窓は単調な眺めが続くが、大神宮が近づくと、ようやく青い山々が視界に入る。伊勢神宮の背後を取り巻く山々である。内宮(ないくう)南方の山々は、神路山と呼ばれ、古くから神宮の社殿の用材を伐り出す山として神聖視されてきた。
奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。
治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。
深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)
神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)
神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)
西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。
ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])
照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)
神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
神路山に親しんだ歌人としては、伊勢松坂の人、本居宣長の名も逸することはできまい。
物いはば神路の山の神杉に過ぎし神代のことぞ問はまし
神路山の杉の木にてつくれるしをりに
神路山すぎぬるほどのしをりあればこれより奥は明日もふみ見ん
深くとも奥も踏みみむ神路山杉のしづ枝をしをりにはして
かみぢ山おく深くとも杉が枝のしをりしあらば踏みはまよはじ
いくら深くとも、踏み入って奥を見よう、神路山の杉の下枝を枝折にして。それさえあれば、道を踏み迷うことはあるまい…。
このように詠んだ決意は、古事記の訓釈に生涯を賭した宣長の学問人生をおのずから象徴しているように思われる。
国のすがたは かはるとも
大義にかはり あらめやも
桜わかばに ひかりみち
けふ梅雨霽れの 神路山(西条八十「桜わかば」)
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