『拾遺愚草全釈』参考資料集 歌合・定数歌・その他歌集

歌合 定数歌 その他歌集

歌合

以下の本文は主として新編国歌大観による。

後十五番歌合

『前十五番歌合』に続き、より新しい時代のと歌人の歌を結番した歌合形式の秀歌撰。撰者は藤原公任とされる。寛弘五、六年(一〇〇八、九)の成立かという。

●後十五番歌合・一三 七番 嘉言

夏の夜を待たれ待たれて時鳥ただ一声も鳴き渡るかな

【通釈】夏の夜をずっと待たれ待たれして、時鳥はたった一声だけでも鳴いて渡ることよ。

【関連歌】上0124

 

禖子内親王家歌合

治暦四年(一〇六八)十二月、禖子内親王家の女房たちによる五題各二番の庚申待の歌合。

●禖子内親王家歌合・一八 仏名

たのみみる三世の仏の名を聞けばつもれる罪もあらじとぞ思ふ

【通釈】頼みにしてみる三世の仏の名を唱える声を聞けば、積年の罪ももうあるまいと思う。

【付記】仏名会の功徳を詠む。作者の「式部」は不詳。

【関連歌】員外2988

 

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合

仁安二年(一一六七)八月、平経盛(忠盛の子)が主催した五題各十二番の歌合。判者は藤原清輔、出詠歌人は清輔・顕昭・源頼政・俊恵・小侍従など二十四名で、出家前の寂蓮(藤原定長)の名も見える。

●経盛家歌合・四六 鹿 心覚

夕まぐれ霧のまがきのさびしさにを鹿鳴くなり秋の山里

【通釈】夕暮、霧が垣のように景色を隠す寂しさに、秋の山里で鹿が啼いている。

【付記】仁安二年(一一六七)八月、平経盛が自邸で催した歌合に出詠された歌、十一番右勝。

【関連歌】上0035

 

嘉応二年住吉社歌合

嘉応二年(一一七〇)十月九日、藤原俊成を判者として住吉社に奉納された歌合。俊成ほか徳大寺実定・源頼政・俊恵・藤原清輔・小侍従ら、当時の代表的歌人が出詠している。

●嘉応二年住吉社歌合・三 社頭月 従二位行権大納言藤原朝臣実房

庭火たくあたりをぬるみ置く霜のとけぬや月の光なるらむ

【通釈】篝火を焚く庭のあたりは少し暖かいので、置いた霜の融けないと見えるのは、霜でなくて月の光なのだろう。

【付記】神社の社前に指す月を詠む。社前の庭火による気温の変化に着目して、霜と月光の紛らわしさという旧来の趣向に新味を与えた。俊成は「こころめづらしくことばいひしれりとみゆ」と評し、勝を付けた。

【関連歌】上0468

 

治承二年別雷社歌合

治承二年(一一七八)、賀茂重保が主催した歌合。当時十七歳であった定家も出詠した。(→詳細

●治承二年別雷社歌合・一七 九番 左持 永範

さほ姫の霞の衣おりてけりあそぶいとゆふたてぬきにして

【通釈】佐保姫がまとう霞の衣を織ったのだった。空に立ちのぼる糸遊を縦糸・横糸にして。

【付記】「いとゆふ」は陽炎であるが、「いと」の縁から、霞の衣の経緯(たてぬき)に見立てたのである。俊成の判は「『あそぶ糸ゆふたてぬきにして』といへる心、彼の『当天遊織碧羅綾』と云ふ句を思ひ出でられて、佐保ひめの句たくみならむ、思ひやられてをかしく侍り」。作者の藤原永範(一一〇〇~一一八〇)は千載集初出歌人。

【関連歌】上0916

 

●治承二年別雷社歌合・三四 十七番 右勝 平経正

吉野山消えあへぬ雪をこめつれば霞ぞ冬のへだてなりける

【通釈】吉野山の消えきらない雪を包み籠めたので、霞が冬(と春)の隔てなのだった。

【付記】題は「霞」。「こぞの冬ことしの春のしるしには山の霞ぞたちへだてける」(大中臣輔親『輔親集』)のように霞を季節の隔てと見る趣向は以前にもあるが、掲出歌は春の遅い吉野山の「消えあへぬ」雪を出して一節の風情がある。俊成の判詞に「霞のへだてなる心はつねなる事なれど心ありてもみゆ」とある。

【関連歌】上0002

 

●治承二年別雷社歌合・一〇二 廿一番 右 定家

桜花また立ちならぶ物ぞなき誰まがへけん峰のしら雲

【通釈】桜の花の美しさには、他に匹敵するものなどない。誰が見間違えたのだろう、峰の白雲と。

【付記】題は「花」。左は千載集に採られた公時の「年をへておなじ桜の花の色をそめます物は心なりけり」。俊成の判詞は「左、おなじ桜の花の色を染めます物はといへる心すがたいとをかしくも侍るかな。右、たれまがへけんみねの白雲といへる心もよろしきにやとみえ侍れど、左歌なほめづらしくもみえ侍れば左勝つべきにや侍らん」。

【関連歌】上0316

 

右大臣家歌合 治承三年

●右大臣家歌合・二九 十五番 雪 左持 皇太后宮大夫入道

たづぬべき友こそなけれ山陰や雪と月とをひとり見れども

【通釈】王子猷が戴安道を訪ねて行ったように、訪ねるべき友が私にはいないことよ。山陰で雪と月を独り見ているけれども。

【本説】「嘗居山陰 夜雪初霽 月色清朗 四望皓然…」(蒙求・子猷尋戴 移動

【付記】治承三年(一一七九)十月十八日の右大臣兼実主催の歌合。作者は俊成。続古今集入撰。

【関連歌】下2324

 

六百番歌合

建久三年(一一九二)に九条良経が企画した百首歌をもとに、翌四年秋、歌合として披講・評定された。その後藤原俊成による判が付けられた。

●六百番歌合・秋・四一九 広沢池眺望 三十番 左勝 女房

心には見ぬ昔こそうかびぬれ月にながむる広沢の池

【通釈】心には、見たことのない昔が面影に浮かんだ。月のもとで眺める広沢の池よ。

【語釈】◇見ぬ昔 自分の見ない昔。◇うかびぬれ 「うかぶ」は「池」の縁語。

【参考】「いにしへの人は(みぎは)に影たえて月のみすめる広沢の池」(頼政集二四四 移動

【付記】良経の歌。

【関連歌】員外3344

 

●六百番歌合・冬・四九二 落葉 六番 右 寂蓮

しぐれゆく松のみどりは空はれて嵐にくもる峰のもみぢ葉

【通釈】松林は時雨に曇るかと見えるが、空は晴れていて、嵐によって峰の紅葉が散り、松の緑を曇らせているのだ。

【付記】嵐に散る紅葉が松林を曇らせている景。それを松風の音によって時雨かと錯覚したというのだろう。

【関連歌】中1822

 

●六百番歌合・冬・五五二 冬朝 六番 右 寂蓮

ながめやる衣手さむし有明の月よりのこる峰の白雪

【通釈】山を眺めやる私の袖は寒々としている。見れば、有明の月が沈んだあとにも、峰には白雪が月光のように冴え冴えと積もっている。

【付記】左は良経の「雲ふかき峰の朝けのいかならん槙の戸しらむ雪のひかりに」。俊成の判は「左歌、『雲ふかき』とおけるより、『槙の戸しらむ』といひ、右歌、『在明の月よりのこる』などいへる、心詞ともによろしくこそ侍るめれ。冬朝はかくこそと見え侍り。仍いづれまさると申しがたし。持に侍るべし」。

【関連歌】上0966

 

石清水若宮歌合 正治二年

正治二年(一二〇〇)に催された、五題三十三番の歌合。判者は源通親。石清水社の祠官を中心に、六条家・御子左家などの歌人が参加し、定家も出詠している。

●石清水若宮歌合 卅三番 左勝 讃岐

石清水秋の最中(もなか)をさだめてぞ月もさやけき影をそへける

【通釈】石清水の放生会は、秋のちょうど真ん中を定めて行われ、月もさやかな光を添えているのだった。

【付記】題は「月」。

【関連歌】上1192

 

老若五十首歌合

「後鳥羽院主催により、建仁元年(一二〇一)二月十六・十八両日に行われた歌合。作者は左方老・右方若とに分けたまったく新しい試みによる。左、忠良・慈円・定家・家隆・寂蓮、右、女房(院)・良経・宮内卿・越前・雅経の十名。歌題は春・夏・秋・冬・雑各十首。都合の二百五十番の歌合で、勝負は付されるが判詞はない。新古今和歌集に三十三首入集」(新編国歌大観解題)。

●老若五十首歌合・二九四 百四十七番 右 女房

たづねみよいかなる関の関守かつれなく暮るる秋をとどむる

【通釈】探して見るがよい。どこの関の番人が、無情にも暮れてゆく秋を留め得ようか。

【付記】秋、百四十七番右持。作者は後鳥羽院。

【関連歌】上1247

 

●老若五十首歌合・四八九 二百四十五番 左 寂蓮

あしたづも年へぬるこそあはれなれ我が世ふけゐの浦に鳴くなり

【通釈】蘆鶴も年を経たことが哀れである。自分の人生が老ける、吹飯の浦で啼いている。

【関連歌】上1289

 

千五百番歌合

建仁元年(一二〇一)に後鳥羽院が主催した三度目の百首歌を、翌年歌合に結番することが決まり、建仁二年十月~翌年初頭頃に判が進献された。史上最大の規模の歌合である。

●千五百番歌合・秋三・一三五四 六百七十八番 左勝 前権僧正

わたつうみの秋なき波の花になほ霜おくものは夜はの月影

【通釈】海原の秋と無縁の波の花に、それでも霜を置くものは夜の月影である。

【本歌】「草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける」(古今集、文屋康秀)

【関連歌】下2203

 

撰歌合 建仁元年八月十五日

建仁元年(一二〇一)八月十五日夜、御所内和歌所で催された、後鳥羽院主催の撰歌合。月四字題の十題五十番。出詠者は院のほか良経・俊成・俊成卿女・宮内卿・有家・寂蓮・秀能・慈円・小侍従・讃岐・定家など、老若の歌人が顔を揃えている。判者は俊成。

●撰歌合・一五 八番 月前松風 左勝 釈阿

月の影しきつの浦の松風にむすぶ氷をよする浪かな

【通釈】月の光を敷いたような敷津の浦に松風が吹き、凍りついた波が寄せていることよ。

【付記】白々とした月光を氷になぞらえる。俊成の判詞によれば、俊成は左を負としたが、「左歌ことによろしくきこゆ、可勝」の由を左右方人共に申したので勝としたという。新後撰集に撰入。

【関連歌】上1134

 

水無瀬恋十五首歌合 建仁元年九月十三日

●水無瀬恋十五首歌合・八二 故郷恋

末までと契りてとはぬ古里に昔がたりの松風ぞふく

【通釈】「将来いつまでも」と約束しておいて、私のいる里に、あの人は来てくれない。荒れ果てたこの里には、(期待して待った)昔の思い出を話して聞かせるような、松風が吹くばかりだ。

【語釈】◇昔がたりの松風 昔話をする松風。松に待つを響かせる。

【付記】良経の作。松が風にあたって立てる響きを、松の語る思い出話に喩えている。建仁元年(一二〇一)九月十三日の水無瀬恋十五首歌合、四十一番右負。

【関連歌】中1949

 

後京極殿御自歌合

藤原良経の百番の自歌合。判者俊成。建久九年(一一九八)五月成立。

●後京極殿自歌合・八 四番 右 春の歌あまたよみける中に

寝ぬる夜の程なき夢ぞしられける春の枕に残る灯

【通釈】夜眠りに落ちて夢を見たが、程なく覚めたことは知られるのだった。春の枕に残っている灯火によって。

【関連歌】中1951

 

定数歌(百首歌・五十首歌など)

以下の本文は主として新編国歌大観による。

堀河百首

源俊頼が企画し堀河天皇の応制によって長治二、三年(一一〇五、六)頃詠進されたと推測される題詠百首。「堀河太郎百首」「堀河初度百首」とも呼ばれる。作者は十六名(一名乃至二名を欠く伝本もある)、藤原公実・大江匡房・源国信・源俊頼・藤原基俊・肥後・紀伊・河内ほか。「院政期歌壇の金字塔ともいうべき作品で、最初の多人数百首、組題百首であり、百首歌が初めて公の場の歌となり、中世和歌の採るべき基本的性格を決定的にした和歌史上記念すべき作品である」(新編国歌大観解題)。定家も特に初期の百首歌では決定的な影響を受けている。

 

堀河百首題

春二十首(立春 子日 霞 鶯 若菜 残雪 梅 柳 早蕨 桜 春雨 春駒 帰雁 喚子鳥 苗代 菫菜 杜若 藤 款冬 三月尽)

夏十五首(更衣 卯花 葵 郭公 菖蒲 早苗 照射 五月雨 蘆橘 蛍 蚊遣火 蓮 氷室 泉 荒和祓)

秋二十首(立秋 七夕 萩 女郎花 薄 刈萱 蘭 荻 雁 鹿 露 霧 槿 駒迎 月 擣衣 虫 菊 紅葉 九月尽)

冬十五首(初冬 時雨 霜 霰 雪 寒蘆 千鳥 氷 水鳥 網代 神楽 鷹狩 炭竈 炉火 除夜)

恋十首(初恋 不被知人恋 不遇恋 初逢恋 後朝恋 会不逢恋 旅恋 思 片思 恨)

雑廿首(暁 松 竹 苔 鶴 山 川 野 関 橋 海路 旅別 山家 田家 懐旧 夢 無常 述懐 祝詞)

 

   

●堀河百首・春・六五 残雪 藤原公実

野べに出でて春日(はるひ)つめどもたまらぬはまだうらわかき若菜なりけり

【通釈】野辺に出て、春の長い一日、摘むけれども溜まらないものは、まだ萌え出たばかりの若菜なのであった。

【関連歌】員外2795

 

●堀河百首・春・八四 残雪 源師頼

春山の木の下陰にむらぎゆる雪こそ冬の形見なりけれ

【通釈】春の山の木の下陰にむらむら消え残っている雪が、冬の残した形見なのだった。

【関連歌】員外3466

 

●堀河百首・春・一〇三 梅花 藤原仲実

くれなゐに八重咲く梅にふる雪は花のうはぎと見ゆるなりけり

【通釈】八重に咲いている紅梅に降り積もる雪は、花が紅に白を重ねた表着(うわぎ)を着ているように見えるのだった。

【語釈】◇うはぎ 表着。(うちき)に重ねて着た衣服。

【付記】紅梅に雪が積もったさまを、紅の袿に白い表着を重ねて着た様に見立てた。

【関連歌】上0546

 

●堀河百首・春・一五二 桜 源俊頼

桜花咲きぬる時はみ吉野の山のかひより波ぞこえける

【通釈】吉野山に桜の花が咲いた時には、山峡から白波が押し寄せてくるのだなあ。

【関連歌】上1313

 

●堀河百首・春・一七四 春雨 肥後

つくづくとながめてぞふる春雨のをやまぬ空の軒の玉水

【通釈】ぼんやりと物思いに沈み、眺めているうちに時が経つ。春雨がお止みなく降る空の下、玉となって落ちる軒の雫を。

【語釈】◇ながめ 「眺め(詠め)」に長雨の意が掛かる。◇ふる 経る・降るの掛詞。

【付記】「ながめ」には「長雨」の意が掛かる。「ふる」は「経る」「降る」の掛詞。

【関連歌】上1327

 

●堀河百首・春・二四一 菫菜 藤原公実

むかし見し(いも)が垣根は荒れにけり茅花(つばな)まじりの菫のみして

【通釈】昔かよっていた妻の家に、久しぶりに来てみると、垣根はすっかり荒れているのだった。チガヤの花にまじってスミレが咲いているばかりで…。

【関連歌】上0310・員外3477

 

●堀河百首・夏・三二八 更衣 俊頼

夏衣たちきる今日のしらがさね知らじな人にうらもなしとは

【通釈】夏衣を裁って着る今日の白襲(しらがさね)のように、私の心に表も裏もないとは、あの人は知るまいな。

【語釈】◇しらがさね 表裏共に白い(かさね)。四月朔の更衣の日に着る。同音から「知らじ」を言い起こすはたらきもする。◇うらもなし 心に包み隠すこともない。「うら」には「裏」の意が掛かり「衣」の縁語。

【付記】表も裏も同じ白襲に寄せて真心を訴える。

【関連歌】員外2812

 

●堀河百首・夏・三三五 更衣 紀伊

身にしみて花色衣をしければひとへに今日はぬぎぞかへたる

【通釈】花色染めの衣が身に沁み付いたように惜しいので、今日は一意専心(ひとえ)物に脱ぎ替えたのだ。

【語釈】◇花色衣 桜色に染めた衣。春の衣。◇ひとへに 「単に」「偏に」の掛詞。(ひとえ)は夏の衣。

【付記】夏衣の「ひとへ」に寄せて、春の名残惜しさを振り切って衣更えする心を詠んだ。作者の「紀伊」は祐子内親王家紀伊とも。

【関連歌】上0421、員外3482

 

●堀河百首・夏・三五〇 卯花 肥後

卯の花のさける垣根は冬ごもり友まつ雪の心ちこそすれ

【通釈】卯の花が真っ白に咲いている垣根は、冬の間家に籠って友を待ちながら見る雪のような心地がする。

【語釈】◇友まつ雪 友人の来訪を待つところの雪。「白雪の色わきがたき梅が枝に友まつ雪ぞ消えのこりたる」(家持集)などと遣われた語で、「友」には「同類」の意が掛かる。

【付記】「友まつ雪」は友人の来訪を待つところの雪。「白雪の色わきがたき梅が枝に友まつ雪ぞ消えのこりたる」(家持集)などと遣われた語で、「友」には「同類」の意が掛かる。

【関連歌】員外2813

 

●堀河百首・夏・三五七 葵 源顕仲

昔より今日のみあれにあふひ草かけてぞたのむ神のしるしを

【通釈】昔から、今日は御阿礼(みあれ)の神事に逢う日、そのたびに葵草を掛けて神の霊験を頼みにして来たのです。

【語釈】◇みあれ 御阿礼。葵祭(下鴨神社・上賀茂神社の例祭)に先立って行われる、神を降臨させる神事。また、賀茂社・葵祭の称。◇あふひ草 葵草。祭の際、車や衣裳に掛けた。「逢ふ日」と掛詞。

【付記】毎年陰暦四月に行われた賀茂社の葵祭において祈願する心を詠む。

【関連歌】上0423

 

●堀河百首・夏・四一四 早苗 肥後

田子のとる早苗を見れば老いにけりもろ手にいそげ(むろ)の早わせ

【通釈】農夫が取っている早苗を見ると、もう成熟し過ぎているのだった。両手で急いで取りなさい、室の早稲を。

【関連歌】上0526

 

●堀河百首・夏・四三二 照射 河内

夜をならべ木の下露に濡るるかな照射(ともし)の鹿の目をも合はせで

【通釈】幾夜も続けて、木の下露に濡れることよ。照射の篝火でおびき寄せる鹿は目を合せないまま――そして私は瞼を閉じないまま。

【語釈】◇照射 鹿狩りのための篝火。暗夜、鹿の通り路のそばに篝火を焚き、鹿の目がその炎に反射する瞬間を狙って矢を放った。◇目をもあはせで 「鹿が照射に目を合わせず」「私が瞼を閉じず(眠らず)」の両義。

【付記】木陰に臥して鹿を待つ猟師の身になっての詠。「目をもあはせで」は「鹿が照射に目を合わせず」「私が瞼を閉じず(眠らず)」の両義。

【関連歌】上0427

 

●堀河百首・夏・四七七 蛍 隆源

ながれゆく河辺にすだく蛍をばいさごにまじる黄金とぞ見る

【通釈】流れてゆく川のほとりに大勢集まっている蛍を、砂に交じっている黄金と見る。

【関連歌】上0222

 

●堀河百首・夏・四八六 蚊遣火 源顕仲

蚊遣火のけぶりのみこそ山がつの伏屋(ふせや)たづぬるしるべなりけれ

【通釈】蚊遣火の煙ばかりが、山人の伏屋をたずねる道しるべなのであった。

【語釈】◇伏屋 地に伏しているように見える、屋根の低い家。

【付記】山里を旅する人の立場で詠んだ歌。同百首同題の師頼の歌には「蚊遣火のけぶりうるさき夏の夜はしづの伏屋に旅寝をばせじ」とある。

【関連歌】上0431

 

●堀河百首・夏・四九一 蚊遣火 藤原基俊

さらぬだに夏はふせ屋の住みうきに蚊火(かび)(けぶり)の所せきかな

【通釈】ただでさえ夏は伏屋が住みづらいのに、蚊遣火の煙が籠って窮屈な思いがすることよ。

【付記】『基俊集』『中古六歌仙』にも採録。

【関連歌】員外3492

 

●堀河百首・夏・五〇一 蓮 源顕季

つとめては先づぞながむる蓮葉はつひの我が身のやどりと思へば

【通釈】早朝には真っ先に蓮の葉を眺めるのだ。臨終の時に我が身が宿るところだと思うので。

【語釈】◇つとめて 「勤めて(努めて)」の意を掛けるか。

【付記】極楽往生した者は蓮華座にすわるとされたので、毎朝蓮の葉に向かって浄土を念ずるというのである。

【関連歌】上0532

 

●堀河百首・夏・五一一 蓮 紀伊

水清み池のはちすの花ざかりこの世のものと見えずもあるかな

【通釈】水が清いので池の蓮は花盛りである。極楽浄土に咲く花だけあって、この世のものとも見えないことよ。

【付記】「清み」に浄土を暗示し、初句があってこそ下句の感嘆が生きている。

【関連歌】上0432

 

●堀河百首・夏・五三〇 泉 匡房

八重葎しげみが下にむすぶてふおぼろの清水夏もしられず

【通釈】八重葎が繁る下で掬うという(おぼろ)の清水は冷たくて夏であることも分からない。

【語釈】◇おぼろの清水 山城国大原の里の歌枕。

【関連歌】中1794

 

●堀河百首・夏・五五二 荒和祓 源俊頼

沢べなる浅茅をかりに人なしていとひし身をもなづる今日かな

【通釈】沢辺に生える浅茅を刈り、仮に人形(ひとがた)になして、けがれを厭っていた我身を撫でて御祓いする今日であるよ。

【語釈】◇浅茅をかりに 「浅茅を刈り」「仮に」の掛詞。◇なづる 浅茅で造った人形で身を撫で、けがれを移す。

【付記】「浅茅をかりに」は「浅茅を刈り」「仮に」と掛けて言う。「なづる」とは、浅茅で造った人形で身を撫で、けがれを移すこと。

【関連歌】上0535

 

●堀河百首・解題・一九 荒和祓 大江匡房

夕かけて波のしめゆふ川やしろ秋よりさきに涼しかりけり

【通釈】夕方近くなって風が強まり、川社を標結(しめゆ)うように波が立っている。秋が来る前にもう涼しいのだった。

【語釈】◇川やしろ 川の神を祭るため川岸に作る棚。

【付記】異伝歌として新編国歌大観の堀河百首解題に載る。続後撰集には詞書「夏のくれの歌」とある。

【関連歌】上0435

 

●堀河百首・秋・六二一 女郎花 隆源

折りつれば袂にかかる白露にぬれ衣きする女郎花かな

【通釈】花を折ってしまうと、白露が袂にかかり、女と逢って別れてきたわけでもないのに、情事の濡衣を着せる女郎花であるよ。

【付記】女郎花の露を女の涙になぞらえて興じた趣向。

【関連歌】上0539

 

●堀河百首・秋・六二九 薄 藤原顕季

風吹けば花野のすすき穂にいでて露うちはらふ袖かとぞ見る

【通釈】風が吹くと、花咲く野の薄は穂が出ていて、露を払う袖かと思うのだ。

【付記】穂の出た薄を袖に見立てるのは常套的な趣向。同百首同題で源顕仲も「しほ風に浪よる浦の花薄しづくをのごふ袖かとぞ見る」とやはり花薄を袖に擬えている。

【関連歌】上1142

 

●堀河百首・秋・六四四 刈萱 源師頼

秋くれば思ひみだるるかるかやの下葉や人の心なるらん

【通釈】秋が来ると思い乱れる刈萱の下葉―これが人の心なのだろうか。

【付記】刈萱の下葉は風に乱れやすいため、これを秋に思い乱れる人の心の象徴と見た。

【関連歌】員外2947

 

●堀河百首・秋・七四六 霧 藤原顕仲

夕霧に道やまどへる宮木ひく杣山人も友よばふなり

【通釈】夕霧のため道に惑っているのか。宮木を挽く木樵りも、連れを大声で呼んでいる。

【語釈】◇玉びこの 不詳。露の枕詞として用いたか。よく似た枕詞「玉ぼこの」があるが、これは道の枕詞である。

【関連歌】中1536

 

●堀河百首・秋・七六三 槿 藤原基俊

玉びこの露もさながら折りてみん今朝うれしげに咲ける槿(あさがほ)

【通釈】露をそっくり付けたまま折ってみよう。今朝、いかにも喜ばしく咲いている朝顔の花を。

【付記】「玉びこの」は「露」の枕詞として用いたかと思われるが、不詳。よく似た枕詞「玉ぼこの」があるが、これは「道」の枕詞である。

【関連歌】上0448

 

●堀河百首・秋・七九一 月 藤原仲実

もろともに見る人なしにゆきかへる月に棹さす舟路なりけり

【通釈】往きも還りも一緒に見る人なく、月に棹さしてゆく舟路なのであった。

【参考】「蒙求・子猷尋戴」(移動

【関連歌】員外2882

 

●堀河百首・秋・八三三 菊 藤原公実

しめのうちに八重咲く菊の朝ごとに露こそ花のうはぎなりけれ

【通釈】標識を立てた内に咲いている八重の菊が朝ごとにまとう露、この露こそが花の表着(うわぎ)なのであった。

【語釈】◇花のうはぎ 花に付いた露を表着に見立てた。表着は(うちき)に重ねて着た衣服。

【付記】花に付いた露を表着に見立てた。

【関連歌】上0546

 

●堀河百首・冬・九七四 寒蘆 肥後

難波がた蘆の穂ずゑに風吹けば立ちよる浪の花かとぞ見る

【通釈】難波潟の蘆の穂末に風が吹くと、打ち寄せる波の花かと見るのだ。

【付記】冬なお白い花穂を残している蘆が風になびく様を、打ち寄せる白波になぞらえた。

【関連歌】上0561、員外3109

 

●堀河百首・冬・一〇一七 鴨 源師時

川風のここらさゆればうき寝する鴨の青羽に霜やおくらん

【通釈】川風がこれほどひどく冴えるので、辛い浮寝をする鴨の青羽に霜が置いているだろうか。

【関連歌】員外3620

 

●堀河百首・冬・一〇三九 網代 紀伊

網代木に浪のよるよる宿りしてあやしく日をもくらしつるかな

【通釈】網代木に波が何度も寄せるのを見つつ夜々宿り、氷魚のかかるのを待ち続けて、尋常でない日々を過ごしたことよ。

【語釈】◇あやしく 常と異なり。◇日を 氷魚(ひお)を掛ける。

【付記】網代守の身になって詠む。「よる」は「寄る」「夜」の掛詞。「日を」には氷魚(ひお)を掛ける。

【関連歌】中2017

 

●堀河百首・冬・一〇六四 鷹狩 俊頼

日影さす豊の明りの御狩すと交野の小野に今日もくらしつ

【通釈】日陰蔓(ひかげのかずら)を挿頭す豊明(とよのあかり)の節会の贄を献る鷹狩をするというので、交野の野で今日も一日を暮らした。

【関連歌】上1254

 

●堀河百首・冬・一〇九六 炉火 俊頼

いかにせん灰の下なる埋み火のうづもれてのみ消えぬべき身を

【通釈】どうしよう。灰の下にある埋み火のように、世に埋れてばかりで消えてしまう我が身を。

【関連歌】上0469

 

永久百首

「堀河天皇並びに堀河天皇の中宮篤子内親王にゆかりの深かった藤原仲実・源顕仲ら七人によって詠出された私的追善百首である。(中略)藤原仲実の企画・勧進により、永久四年(一一一六)十二月二十日成立または披講された。堀河百首に対して、堀河次郎百首または堀河後度百首として併称され、秀歌の乏しい百首の割には歌題を重視する等後世の歌人から尊重された百首である」(新編国歌大観解題)。

 

永久百首題

春十八首(元日 余寒 春日 春曙 遊糸 賭弓 春日祭 石清水臨時祭 志賀山越 稲荷詣 未発花 紅梅 桃 落花 躑躅 雉 残鶯 蛙)

夏十二首(賀茂祭 夏衣 夏草 瞿麦 扇 樹陰 避暑 夏虫 鵜川 夏猟 蟬)

秋十八首(残暑 晩立 秋風 七夕後朝 八月十五夜 九月九日 秋夜 暁月 嵐 稲妻 稂田 草香 蔦 柞 秋山 松虫 鈴虫 蛬)

冬十二首(霙 初雪 野行幸 落葉 五節 椎柴 薪 衾 鴛鴦 貢調 仏名 旧年立春)

恋十首(忍恋 隔一夜恋 経月恋 経年恋 隔遠路恋 不見書恋 且見恋 寝覚恋 待人恋 別恋)

雑三十首(雲 星 出湯 石 水海 原 滝 池 故郷 寺 社 榊 桂 小篠 萍 元服 賀 七夜 仙宮 唐人 王昭君 妓女 老人 泉郎 船 隣 笛 箏 蜘蛛 猿)

●永久百首・春・一〇九 雉 忠房

きぎす鳴く野べを霞はつつめどもほほろともれて声ぞきこゆる

【通釈】雉が鳴く野辺を霞は包んでいるけれども、「ほほろ」と漏れて声が聞える。

【付記】春は雉の求愛の季節。雉の鳴き声は「ほほろ」「ほろろ」「ほろほろ」などの擬音語で表わされた。

【関連歌】員外2996

 

●永久百首・夏・一七四 避暑 常陸

おりたちて清水の里にすみつれば夏をばよそに聞きわたるかな

【通釈】清水の湧く里に下って滞在しているので、夏を他人事のように聞き流して過ごすことよ。

【語釈】◇すみ 「澄み」の意が掛かり、清水の縁語。◇よそに聞きわたる 「よそに聞く」は他人事として聞き過ごす意の慣用句。

【付記】「すみ」には「澄み」の意が掛かり「清水」の縁語。

【関連歌】中1645、員外2816

 

●永久百首・夏・二一八 晩立 顕仲

夕立や雲のさわぎに風はやみ露をとどむる草の葉ぞなき

【通釈】夕立の雲がただならぬ動きを見せて風が強まり、降ったばかりの雨の露を留める草葉もありはしない。

【付記】作者は源顕仲。夕立の雨に先立って吹く強風を詠む。

【関連歌】上1334

 

●永久百首・秋・二七五 稲妻 仲実

秋の夜のいなばの露に稲妻のひかりをやどす程は我が身か

【通釈】秋の夜、稲葉の露に稲妻が光を宿す――その一瞬の間は、我が身のはかなさと同じなのか。

【付記】作者は藤原仲実。無常の身を露に宿る稲妻の光になぞらえる。

【関連歌】上0828

 

●永久百首・冬・四一〇 仏名 忠房

そこばくの仏の御名をみなきけばのこれる罪もあらじとぞ思ふ

【通釈】嵐が吹きつける川岸の柳が稲筵のように乱れるのを、しきりに寄せ返す波のなすがままにして眺めるのだ。

【語釈】◇いなむしろ 稲筵。稲の藁で編んだ莚。万葉集では「敷く」の枕詞として用いられているが、崇徳院は乱れる柳の枝の喩えに用いているらしい。◇をりしく 折り頻く。波がしきりと寄せ返す。「しく」は「敷く」の意を兼ねて稲筵の縁語。

【付記】作者は源忠房。「そこばくの」は「そんなに多くの」ほどの意。仏名会では三世の諸仏の名を皆唱えたので、このように言う。

【関連歌】員外2988

久安百首

崇徳院が主催した第二度百首。康治年間(1142,3頃)に給題し、久安六年(一一五〇)に詠進が終了した。作者は十四名、崇徳院・藤原顕輔・藤原俊成(当時の名は顕広)・藤原清輔・堀河・安藝など。俊成による部類本もある。千載集において重要な資料となり、同集入集歌の一割近くを占める。

 

春二十首 夏十首 秋二十首 冬十首 恋二十首 神祇二首 慶賀二首 尺教五首 無常二首 離別一首 羈旅五首 物名二首 短歌一首

●久安百首・春・六 崇徳院御製

嵐吹く岸の柳のいなむしろをりしく波にまかせてぞ見る

【通釈】嵐が吹きつける川岸の柳が稲筵のように乱れるのを、しきりに寄せ返す波のなすがままにして眺めるのだ。

【語釈】◇いなむしろ 稲筵。稲の藁で編んだ莚。万葉集では「敷く」の枕詞として用いられているが、崇徳院は乱れる柳の枝の喩えに用いているらしい。◇をりしく 折り頻く。波がしきりと寄せ返す。「しく」は「敷く」の意を兼ねて「稲筵」の縁語。

【付記】岸の青柳の枝が、激しい波を受けて稲筵のように靡くさま。

【関連歌】上0008

 

●久安百首・春・一六 崇徳院御製

くらぶ山木の下かげの岩つつじただこれのみや光なるらむ

【通釈】くらぶ山の下陰に咲く岩躑躅よ。ただこれだけが、あたりで光を放っているのだろうか。

【語釈】◇くらぶ山 京都市左京区の鞍馬山の古名かという。「くら」に「暗」の意を掛けて詠まれることが多い。

【関連歌】員外3477

 

●久安百首・夏・二七 崇徳院御製

五月(さつき)弓末(ゆずゑ)ふりたてともす火に鹿やあやなく目をあはすらむ

【通釈】五月山で、猟師が弓末を振りたて、燃やす篝火――その炎に鹿は浅はかにも目を合わせてしまうのだろうか。

【語釈】◇五月山 諸説あるが、『歌枕名寄』などは摂津国の歌枕とする。大阪府池田市に同名の山がある。照射・時鳥の名所とされた。普通名詞とする説もある。◇弓末 弓の上部。普段、弓末は下に向けられているが、獲物を狙う時はこれを振り起こす。◇ともす火 照射のこと。暗夜、鹿の通り路のそばに篝火を焚き、鹿の目がその炎に反射する瞬間を狙って矢を放つ。

【付記】炎に目を合わせた瞬間、射られてしまう運命を知らない鹿への哀憐の情。新拾遺集に採られ、第四句「鹿やはかなく」。

【関連歌】上0932

 

●久安百首・羇旅・九四 崇徳院御製

岩が根のこりしく山をこえくればわが黒駒は黄になりにけり

【通釈】大岩が一面に敷いている山を越えて来ると、私の黒馬の毛色が黄になってしまった。

【本説】「陟彼高岡 我馬玄黄」(詩経・巻耳 移動

【関連歌】中1624

 

●久安百首・夏・一二二 中納言右衛門督公能

千早ぶる今日のみあれのあふひ草心にかけて年ぞへにける

【通釈】今日の賀茂祭の葵草を心にかけて待っては、何年も経ったのだった。

【語釈】◇千早ぶる 神などの枕詞に用いられた語であるが、ここでは「今日のみあれ」に掛かる。◇心にかけて 「かけ」は葵草の縁語。

【付記】毎年の賀茂祭を心待ちにする思いを、葵草に掛けて詠んだ。

【関連歌】上0731

 

●久安百首・冬・一五九 中納言右衛門督公能

いかばかりふかき契りを鴛鴦(をし)鳥のさゆるうき寝に羽かはすらむ

【通釈】どれ程に深い契りを交わして、鴛鴦の夫婦は冷え込む夜の浮寝に羽を交わしているのだろう。

【語釈】◇うき寝 「うき」は「憂き」「浮き」の掛詞。◇羽かはすらむ 「かはす」は「契り」の縁語。

【関連歌】上0464

 

●久安百首・春・二〇四 参議左中将教長卿

言はねども霞たなびく雲井にて空にぞしるき春のけしきは

【通釈】口に出して知らせずとも、春になった徴候は霞がたなびく空にはっきりとしている。

【関連歌】上0208

 

●久安百首・秋・二四二 参議左中将教長卿

かねてより昼とみゆれば秋の夜の明くるもしらぬ有明の月

【通釈】前から昼のように見えたので、秋の夜が明けたのも気づかない有明の月の明るさよ。

【関連歌】下2160

 

●久安百首・恋・二七〇 参議左中将教長卿

唐衣かさぬる夜はも明けぬれば恋路にかへる袖ぞつゆけき

【通釈】衣を重ねて共寝する夜も明けてしまったので、恋心に苦しむ道に帰ってゆく私の袖は露っぽい。

【関連歌】上0261

 

●久安百首・秋・七四〇 右馬権頭実清

妻恋ふる涙なりけりさを鹿のしがらむ萩における白露

【通釈】妻を恋い慕う涙なのだった。牡鹿が絡みつけて臥す萩に置いた白露は。

【付記】「さを鹿の妻にしがらむ秋萩における白露我もけぬべし」(貫之集)など類想の歌は多い。

【関連歌】上1346

 

●久安百首・恋・七七〇 右馬権頭実清

荒熊の棲むといふなる深山にも妹だにあると聞かば入りなん

【通釈】荒熊が棲むという深山にも、愛しい人がいると聞けば、私も世を捨てて入ろう。

【本歌】「荒熊の棲むといふ山のしはせ山せめて問ふとも汝が名は告げじ」(万葉集、作者未詳)

【関連歌】上0767

 

●久安百首・春・八〇二 丹後守顕広

霞たち雪もきえぬや御芳野のみかきが原に若菜摘みてむ

【通釈】霞が立ち、雪も消えたか。吉野の御垣が原で若菜を摘んでしまおう。

【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。

【関連歌】中1680、員外2896

 

●久安百首・春・八〇四 丹後守顕広

わが苑を宿とはしめよ鶯の古巣は春の雲につけてき

【通釈】鶯よ、私の家の庭を宿とせよ。古巣は春の雲に委ねてきたのだから。

【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。風雅集に採られている。

【関連歌】中1575

 

●久安百首・冬・八五二 丹後守顕広

まばらなる槙の板屋に音はして漏らぬ時雨は木の葉なりけり

【通釈】隙間が多い槙の板葺き屋根に音はして、雨は漏ってこない――時雨と思ったのは木の葉なのだろうか。

【語釈】◇まばらなる 「隙間が多い(屋根)」「(音が)まばらである」意の掛詞。

【付記】作者名「顕広」は定家の父俊成の改名以前の名。千載集には詞書「崇徳院に百首の歌奉りける時、落葉の歌とてよめる」、下句「もらぬ時雨や木の葉なるらん」。

【関連歌】上0054

 

●久安百首・冬・一〇五八 待賢門院堀川

槙の戸の(ひま)しらむとてあけたれば夜ぶかくつもる雪にぞありける

【通釈】槙の戸の隙間が白んだというので明けてみると、夜の間に深く積もった雪なのであった。

【付記】「あけたれば」は「開けたれば」「明けたれば」の掛詞。「夜ぶかくつもる雪」は「夜深く」「深くつもる雪」と掛けて言う。

【関連歌】上0248

 

●久安百首・恋・一〇六三 待賢門院堀川

たてながら数のみつもる錦木のともに我が名も朽ちぬべきかな

【通釈】立てかけつつ、数ばかり増えてゆく錦木と共に、私の名も朽ちてしまうことだろうよ。

【語釈】◇錦木 五色に彩った木。奥州の恋の古俗で、男がめあての女の門に錦木を立てかけ、女がその木を取り入れてくれれば承諾の合図、取り入れてくれなければ男は千束まで木を加えることを許された、という。◇我が名も朽ちぬべきかな 私の名(評判)もきっと損なわれるであろうよ。「朽ち」は「木」の縁語。

【付記】奥州のエキゾチックな古俗に寄せて、恋のために世間に悪評を立てられることを憂えた歌。『中古六歌仙』にも見える。

【関連歌】上0070

 

●久安百首・秋・一三四五 小大進

天つ風ふけゆくままに空冴えて夜すがらすめる有明の月

【通釈】夜が更けて空の風が強まるにつれ、空は寒々として、一晩中澄み輝く有明の月よ。

【語釈】◇ふけゆく 夜が更け、それにつれて風が吹き増さってゆく。

【関連歌】上0056

 

為忠家初度百首

鳥羽院近臣丹後守藤原為忠が近親者や知友を集めて主催した両度の百首歌のうちの初度百首で、長承三年(一一三四)頃の成立と推測される。若き日の藤原俊成や源頼政が加わり、後度百首と共に素材・表現両面で和歌史上注目される百首歌である。定家に与えた影響も小さからぬものがある。

●為忠家初度百首・春・七〇 閑中春雨 源仲正

雨ふれば垣根のしとどそぼぬれてさへづり暮らす春の山里

【通釈】雨が降るので垣根の巫鳥(しとど)はしょぼしょぼと濡れながら日が暮れるまで囀っている、春の山里よ。

【付記】巫鳥(ホオジロなど目のまわりに輪があるように見える鳥の類)を詠んだ珍しい作。「しとど」の名に「しとどに濡れる」と言うときの「しとど」を掛けたのだろう。

【関連歌】上0759

 

●為忠家初度百首・夏・二〇六 暁更照射 源仲正

照射する火串の松も燃えつきてかへるにまどふ下つ闇かな

【通釈】照射する火串の松明も燃え尽きて、家路を帰るのにも迷う、月の出ていない闇であるよ。

【語釈】◇下つ闇 陰暦の月の下旬の夜闇。

【付記】夜明け前の頃の照射を詠む。千載集に入集(第四句「かへるにまよふ」)。

【関連歌】員外3488

 

為忠家後度百首

保延元年(一一三五)頃の成立と推測される、鳥羽院近臣丹後守藤原為忠が近親者や知友を集めて主催した百首歌。初度百首参照。

●為忠家語度百首・春・八二 滝上桜 勘解由次官親隆

水上に花咲きぬれば布引の滝の白糸かさまさるらし

【通釈】上流で桜の花が咲いたので、布引の滝の白糸は水嵩(みずかさ)が増しているらしい。

【語釈】◇布引の滝 摂津国の歌枕。いまの神戸市中央区。生田川の上流。◇白糸 滝の白く見える落水を白糸に喩えて言う。

【付記】咲いて散った山桜の花が滝に散り込み、普段よりも滝の水嵩が増していると見た。

【関連歌】上0018

 

●為忠家語度百首・春・七三 浦路桜 木工権頭為忠

波よする霞の浦にちる花を桜貝とや人は見るらん

【通釈】波が寄せる霞の浦に散る花を、桜貝と人は見るのだろうか。

【語釈】◇霞の浦 霞ヶ浦。常陸国の歌枕。

【関連歌】員外2805

 

●為忠家語度百首・夏・一六八 首夏郭公 散位源頼政

いつのまに花を忘れて時鳥まつに心のうつるなるらん

【通釈】いつのまに桜の花を忘れて、時鳥を待つことに心が移るというのだろうか。

【関連歌】上1021

 

●為忠家後度百首・夏・二六七 林頂蟬 為忠朝臣

並み立てる木々の梢に葉隠れて耳のまもなし蝉の声々

【通釈】並んで立っている木々の梢の葉に隠れて、休むひまもなく聞こえる蝉の声よ。

【関連歌】0129

 

●為忠家語度百首・秋・三六八 露上月 木工権頭為忠

見る人も心すめとや池水のはちすの露にやどる月かげ

【通釈】見る人の心も澄めというので、池の蓮に置いた露に月の光が宿っているのだろうか。

【付記】浄土を暗示する蓮に寄せて、「露上月」すなわち露に映った月の清らかさを讃美する。

【関連歌】上0432

 

俊成五社百首

釈阿(俊成)七十七歳の文治六年(一一九〇)三月朔日に清書され、後日、日吉社・伊勢神宮・春日社と他二社(不明)に奉納された、五種の百首歌。

●俊成五社百首・五一 伊勢大神宮百首和歌 擣衣

秋ふかく浦吹く風に伊勢島や海人の苫屋も衣うつなり

【通釈】秋も深まり、浦を吹く風の中、伊勢島の海人の苫屋でも衣を()つ音が聞こえる。

【付記】文治六年(一一九〇)七月二十五日に伊勢大神宮に奉納された百首歌。

【関連歌】員外2960

 

●俊成五社百首・三〇〇 春日社百首和歌 祝

天が下のどけかるべき君が代は三笠の山の万世の声

【通釈】天下が平穏であるべき君が代は、三笠の山の万歳の声が祝福している。

【付記】文治六年(一一九〇)十一月十日に春日社に奉納された百首の巻末歌。

【関連歌】下2383

 

●俊成五社百首・三六七 住吉社百首和歌 鷹狩

御狩(みかり)する交野の小野に日は暮れぬ草の枕をたれにからまし

【通釈】鷹狩をする交野の小野で日は暮れてしまった。草の枕を誰に借りようか。

【語釈】◇御狩 交野は禁野であるので「()」をつける。

【本歌】「あられふる交野の御野の狩衣ぬれぬ宿かす人しなければ」(詞花集、藤原長能)

【付記】文治六年(一一九〇)三月に清書され、その後住吉社に奉納された百首。新後拾遺集入集。

【関連歌】員外2842

 

公衡百首

文治三年(一一八七)、殷富門院大輔が催した百首歌の藤原公衡(一一五八~一一九三)の作。定家が若い頃に筆写した本が残っている。公衡は後徳大寺実定の同母弟で、母は藤原俊成の妹であり、従弟の定家とは親しい仲であったが、三十六歳で夭折した。

●公衡百首・春・四

むらぎゆる雪間に苔のあらはれて岩根も春の色は見えけり

【通釈】まばらに融けた雪の(ひま)に苔が現われて、大地に根を張った大岩にも春らしい色は見えるのだった。

【付記】おそらく《残雪》をモチーフとし、岩に生えた苔の緑に鮮やかな春色を見た。

【関連歌】上0306

 

●公衡百首・春・八

今年より五本柳(いつもとやなぎ)門に植ゑて昔のあとをあはれとも見ん

【通釈】今年から五本の柳を門前に植えて、古人の跡をしみじみと偲ぼう。

【付記】「五柳先生」と号した陶淵明を偲ぼうという歌であろう。

【参考】「先生不知何許人也。亦不詳其姓字。宅辺有五柳樹、因以為号焉(先生は何許(いづこ)の人なるかを知らざるなり。亦た其の姓字も詳らかにせず。宅辺に五柳樹有り、因つて以て号と為す)」(五柳先生伝、陶淵明)

【関連歌】上0508

 

御室五十首

●御室五十首・春・三〇九 正三位季経

花ゆゑに山里人と成りはてて都ぞ春はたび心ちする

【通釈】花のために山里はすっかり人ばかりとなって、都の春は旅心地がする。

【関連歌】下2567

 

正治初度百首

●正治初度百首・秋・二四八 式子内親王

狩衣みだれにけらしあづさゆみ引馬の野べの萩の下露

【通釈】旅人の狩衣は乱れてしまったようだ。引馬の野辺の萩の下露に。

【本歌】「引馬野ににほふ萩原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(旧訓)」(万葉集、長奥麻呂)

【関連歌】中2007

 

●正治初度百首・冬・二六三 式子内親王

荒れ暮らす冬の空かなかきくもり(みぞれ)よこぎる風きほひつつ

【通釈】荒れたまま暮れる冬の空であるよ。一面に曇り、みぞれが横ざまに降る風が先を争うように吹いて。

【関連歌】中1712

 

●正治初度百首・冬・二六四 式子内親王

葦鴨のはらひもあへぬ霜のうへにくだけてかかるうす氷かな

【通釈】葦鴨の羽に、払いきれない程たくさん霜が降りている――その上に波がかかると、砕けた薄氷が被さることよ。

【付記】半ば凍りついた水面で、霜に降られながら夜を明かす葦鴨を思い遣る。

【関連歌】上1359

 

●正治初度百首・冬・二六九 式子内親王

天つ風氷をわたる冬の夜の乙女の袖をみがく月かげ

【通釈】天の風が凍った水面を吹き渡る冬の夜にあって、舞姫の袖に月光が光彩を添えている。

【語釈】◇天つ風 宮中を吹き渡る風。内裏を天上になぞらえている。◇氷をわたる 「氷」は宮中の池の氷を思えばよいか。いずれにしても冬の夜風の冴え冴えとした感じを印象付ける。◇乙女 五節の舞姫を指す。新嘗祭では四人で舞った。◇袖をみがく 五節の舞姫は色あでやかな袖を廻らして踊る。その袖を月光が磨くかのように、ひときわ美しく輝かせている。

【付記】新勅撰集に採られている。

【関連歌】中1906

 

●正治初度百首・羈旅・二八六 式子内親王

都人おきつ小島のはまびさし久しくなりぬ浪路へだてて

【通釈】都人が置き去りにした沖の小島の浜庇。波路を隔てたまま、長い年月が経った。

【語釈】◇おきつ 置きつ・沖つの掛詞。

【本歌】「浪間より見ゆる小島の浜びさし久しくなりぬ君にあひ見で」(伊勢物語百十六段)

【付記】本歌と同じく、「はまびさし」までは叙景と序詞と両方のはたらきをする。

【関連歌】中1942

 

●正治初度百首・夏・四三六 藤原良経

を山田の昨日の早苗とりあへずやがてや秋の風もたちなん

【通釈】昨日苗代から取った山田の早苗を、田に植え切らないうちに、そのまま秋風が吹き始めるのだろうか。

【関連歌】中1999

 

●正治初度百首・恋・六七八 前大僧正慈円

いとどしく我は恨みぞかさねつるたれまつ島のあまの藻塩火

【通釈】いよいよひどく私は恨みを重ねてしまう。誰を待って、松島の海人の藻塩火よろしく恋の火を燻ぶらしているのか。

【関連歌】上1275

 

●正治初度百首・冬・一二七三 藤原隆信

何事を待つとしもなき深山辺はことしもかくてすぎの群立ち

【通釈】何事を待つということもない深山のあたりでは、今年もこうして杉の群立ちの中さびしく過ぎて行く。

【語釈】◇すぎ 「過ぎ」「杉」の掛詞。

【関連歌】上1067

 

●正治初度百首・冬・一四六四 藤原家隆

玉ぼこやかげ見し水のいかならん空さへこほる冬の夜の月

【通釈】月の影が映っていた道端の水溜りは今頃どうなったろう。空自体が凍っている冬の夜の月よ。

【語釈】◇玉ぼこや 道の枕詞として遣われた語であるが、ここは「道の」の意。

【関連歌】上1260

 

●正治初度百首・恋・一九七四 二条院讃岐

わが袖やみるめなぎさのいかならんむなしき浪のかけぬまぞなき

【通釈】私の袖は、逢うことが叶わずに、どうなるのだろう。渚の海松布に常に波がかかるように、甲斐のない涙にいつも濡れ通しだ。

【語釈】◇みるめ 海藻の「海松布(みるめ)」に「見る目」(逢うこと)を掛ける。◇むなしき浪 寄せても甲斐のない波。涙の意を掛ける。文治六年(1190)の『俊成五社百首』に「逢ふことはなぎさによするうつせ貝むなしき波にぬるる袖かな」と用いた先蹤がある。

【関連歌】上1156

 

その他歌集

以下の和歌本文は主として新編国歌大観による。

人丸集

人麿集・柿本集とも。柿本人麻呂の家集として享受されたが、万葉集の他人作や作者不明作を多く含む。

●人丸集・一八二

青柳のかづらき山にゐる雲のたちてもゐても君をこそおもへ

【通釈】葛城山に留まっている雲のように、立っていても座っていても、あなたのことばかり思っている。

【付記】「ゐる雲の」までが「たちてもゐても」を言い起こす序。原詩は万葉集巻十一の人麻呂歌集歌「春楊 葛山 発雲 立座 妹念(はるやなぎ かづらきやまに たつくもの たちてもゐても いもをしぞおもふ)」。初句を「あをやぎの」と訓む古写本もある。

【関連歌】上0111、上1206

 

小町集

小野小町(生没年未詳)の家集。百余首の歌を伝える(異本系は七十首足らず)が、後世の他撰であり、他人の作が多く混入している。

●小町集・八二 

夢ならばまた見る宵もありなまし何中々のうつつなりけん

【通釈】夢であるならば再び逢う夜もあるだろうに。どうして中途半端な現実の逢瀬だったのだろうか。

【付記】「何中々の」に、いっそのこと夢で逢った方がましだったとの思いを籠める。続古今集に入集。

【参考】むば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり(古今集六四七、読人不知)

【関連歌】員外3629

 

●小町集・八五 

武蔵野の向ひの岡の草なれば根を尋ねてもあはれとぞ思ふ

【通釈】武蔵野の向いの岡に生える草、すなわち紫草であるので、根を探し出そうとまで愛しく思うのだ。

【付記】「武蔵野の向ひの岡の草」とは、「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今集)と詠まれた紫草を指す。根が染料になる。紫草は親類縁者の喩えとされたので、恋人の縁者に対する思いを詠んだものか。

【関連歌】上1378

 

●小町集・九一 

はかなくて雲となりぬるものならば霞まむ空をあはれとは見よ

【通釈】我が身が空しくなって、雲となってしまったならば、その時霞むだろう空を哀れと眺めて下さい。

【付記】自分の死後、雲(火葬の煙の暗喩)となって漂う我が魂を「あはれと見よ」と恋人に訴えている。恋い死にの果てのさまを示して人を恨む歌は多いが、これはその典型とも言える作。『小町集』では後世の増補歌群中にある。なお続後撰集では第四句「かすまむかたを」。

【関連歌】上0478

 

●小町集・一一五 

はかなしや我が身の果てよ浅みどり野辺にたなびく霞と思へば

【通釈】はかないことだ、我が身の果てよ――それは只うっすらとした藍色――野辺にたなびく霞であると思えば。

【付記】流布本系の『小町集』に「他本五首」として付載するうちの一首で、小町の真作かどうかは疑わしい。新古今集では「あはれなり我が身のはてや浅みどりつひには野辺の霞とおもへば」と語句の異同が大きく、撰者による改作であろうか。

【関連歌】上0488、上0880

 

句題和歌

大江千里の家集。『大江千里集』とも。寛平六年(八九四)、宇多天皇の命を受けて献上した。『白氏文集』を始めとする漢詩の句を題とし、その翻案歌を付したもの。テキストは私家集大成・群書類従に拠る。

●句題和歌・二〇 惆悵春帰留不得

歎きつつ過ぎゆく春を惜しめども(あま)つ空からふりすてて行く

【通釈】嘆いては過ぎてゆく春を惜しむけれども、春は大空を通って私を振り捨ててゆく。

【付記】白氏文集巻十三の詩「三月三十日題慈恩寺」の第三句を題とする。のち、この句は『和漢朗詠集』に採られた(移動)。

【関連歌】上0920

 

古今和歌六帖

歌作りの手引として作られた類題和歌集。万葉集から後撰集の時代まで、六巻約四千五百首を集める。成立は拾遺集成立より前、一説に貞元・天元(九七六~九八二)頃かと言い、編者には兼明親王説・源順説などがある。単に「六帖」とも、また「古今六帖」とも呼ばれる。

●古今和歌六帖・第一・四七 わかな (作者未詳)

川上にあらふ若菜のながれても君があたりの瀬にこそ寄らめ

【通釈】川上で私が洗っている若菜が流れて行って、あなたの家のあたりの瀬に打ち寄せられてほしい。

【付記】若菜を洗う娘が、自身を若菜に擬え、恋する人のもとへ身を寄せたいとの思いを詠む。出典は万葉集巻十一「河上尓 洗若菜之 流来而 妹之当乃 瀬社因目(かはかみに あらふわかなの ながれきて いもがあたりの せにこそよらめ)」で、本来は男の歌。

【関連歌】上0740

 

●古今和歌六帖・第一・三六三 ありあけ (作者未詳)

君をのみおきふしまちの月見ればうき人しもぞ恋しかりける

【通釈】起き臥しあなたばかりを待っている。臥待月が出たのを見ると、つれない人ではあるが、やはり恋しいのだった。

【関連歌】上1432

 

●古今和歌六帖・第一・四二三 あきの風 (作者未詳)

吹きくれば身にもしみける秋風を色なき物と思ひけるかな

【通釈】吹き寄せると、身に沁みて感じられる秋風を、今までは色のないものと思っていたことよ。

【語釈】◇しみける 「しみ」は色の縁語。

【付記】これほど身に「しみ」て感じられるのは、秋風に「色」があるからだろうとの反省である。続古今集に紀友則の作として撰入。

【関連歌】下2429

 

●古今和歌六帖一〇四七 もり (作者未詳)


人しれぬ思ひするがの国にこそ身をこがらしの森はありけれ

【通釈】人知れぬ思いをする駿河の国に、身を焦がすという木枯の森はあるのだった。

【語釈】◇するがの国 「する」「駿河」と言い掛ける。◇こがらしの森 「こがらし」は「焦が(る)」「木枯」の掛詞。

【付記】「するがの国」は「する」「駿河」と掛けて言う。「こがらしの森」は駿河国の歌枕。「木枯し」に「焦が(る)」意を掛ける。

【関連歌】上1080

 

●古今和歌六帖・第二・一〇四九 もり (作者未詳)

和泉なる信太の森の楠の木の千枝(ちえ)に別れて物をこそ思へ

【通釈】和泉にある信太の森の楠木の枝が千に別れているように、私は千々に思い乱れて悩んでいる。

【付記】「和泉にある信太の森の楠木の枝が千に別れているように、私は千々に思い乱れて悩んでいる」意。本文は校註国歌大系(底本は標注本)によるが、「千重」とあるのは「千枝」に改めた。新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部蔵桂宮旧蔵本)は第三句「くずのはの」。

【関連歌】上1222

 

●古今和歌六帖・第二・一一七三 おほたか (作者未詳)

矢形尾のましろの鷹をひきすゑて君がみゆきにあはせつるかな

【通釈】矢形尾の真っ白な鷹を手に止まらせて、君の御狩に獲物へ向かわせたことよ。

【語釈】◇矢形尾 不詳。矢羽の形に似た尾羽根のことかという。

【付記】「矢形尾の真っ白な鷹を手に止まらせて、君の御狩に獲物へ向かわせたことよ」の意。『後葉和歌集』には「すけまさ」の作として「とやがへるましろの鷹をひきすゑて君が御狩にあはせつるかな」というよく似た歌を載せる。

【関連歌】上0752

 

●古今和歌六帖・第三・一四七五 をし (作者未詳)

羽の上の霜うちはらふ人もなし鴛鴦のひとり寝今朝ぞかなしき

【通釈】鴛鴦の夫婦のように、羽の上の霜を掃ってくれる人もいない。つがいのいない鴛鴦の独り寝のような我が身が今朝は殊に悲しい。

【関連歌】上0464、上0964

 

●古今和歌六帖・第三・一六一〇 橋 (作者未詳)

恋しくは浜名の橋をいでてみよ下行く水に影やみゆると

【通釈】私が恋しかったら、浜名の橋まで出掛けていって確かめてみなさい。下を流れる水に、私の影が見えるかどうかと。

【付記】水影に人の面影が見えるのは、その人が自分を想ってくれている証拠であるとの考えに基づく。

【関連歌】中1910

 

●古今和歌六帖・第三・一五五二 川 (作者未詳)

人しれず濡れにし袖のかわかぬはあぶくま川の水にやあるらん

【通釈】人知れず濡れてしまった袖がいつまでも乾かないのは、阿武隈川の水である――あの人に逢うことを願うゆえの涙だからなのだろうか。

【付記】陸奥の歌枕阿武隈川が「逢ふ」の語を含むことから、逢うことを願って流し続ける涙をこの川の水に言寄せたのであろう。

【関連歌】員外3535

 

●古今和歌六帖・第三・一六六八 いけ (作者未詳)

恋をのみますだの池のねぬなはのくるにぞ物の乱れとはなる

【通釈】恋心ばかりが増してゆき、益田の池の根蓴菜(ねぬなわ)を手繰れば乱れるように、あの人が来るといえば思いは千々に乱れる。

【語釈】◇ねぬなは 蓴菜(じゆんさい)の古名。根が長いゆえの称か。益田の池の名物とされた。◇くる 繰る・来るの掛詞。

【付記】「ねぬなは」の項目にも同じ歌が引かれている。

【関連歌】上1266

 

●古今和歌六帖・第三・一七二六 うたかた (作者未詳)

うたかたも思へばかなし世の中をたれ憂きものとしらせそめけん

【通釈】かりそめにも思えば悲しい。この世が辛いものであると、最初に誰が告げ知らせたのだろうか。

【関連歌】上1461

 

●古今和歌六帖・第五・二七三四 あかつきにおく (作者未詳)

月影にみえし尾花のほのぼのと明けつるばかりわびしきはなし

【通釈】月影に見えた尾花の穂ではないが、ほのぼのと夜が明けてしまうの程侘しいことはない。

【付記】後朝の別れを悲しむ歌。

【関連歌】中1700

 

●古今和歌六帖・第五・三五一〇 くちなし (作者未詳)

くちなしの色に心をそめしより言はで心にものをこそ思へ

【通釈】梔子色に心を染めてからというもの、口では言わずに心の中で思い悩んでいるのだ。

【関連歌】上1451

 

●古今和歌六帖・第六・三六一九 なでしこ (作者未詳)

わが宿の撫子の花ちらめやはいや初花の咲きまさるとも

【通釈】我が宿の撫子の花が散ることなどあろうか。初花がいよいよ咲きまさることはあっても。

【関連歌】中2002

 

●古今和歌六帖・第六・三九五五 みくり (作者未詳)

恋すてふさ山の池のみくりこそ引けば絶えすれ我や根たゆる

【通釈】恋しているという狭山の池の三稜草(みくり)は引けば絶えるが、私は根ごと絶えてしまうだろうか。

【付記】枕草子の「池は」の章段に「さ山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるならん」とあり、この歌を指しているらしい。

【関連歌】上1445

 

●古今和歌六帖・第六・三九六二 こけ (作者未詳)

逢ふことをいつかその日とまつの木の苔のみだれて恋ふるこの頃

【通釈】いつの日逢えるかと待ちながら、松の木の苔のように、心乱れて恋するこの頃であるよ。

【付記】「いつの日逢えるかと待ちながら、松の木の苔のように、心乱れて恋するこの頃であるよ」。新勅撰集に小異歌がある(移動)。

【関連歌】中1984

 

●古今和歌六帖・第六・四一一三 まつ 人丸

風ふけば波こす磯のそなれ松ねにあらはれてなきぬべらなり

【通釈】風が吹くと、波が立って、磯のそなれ松を越える――そうしていつかその根があらわれるように、私は()に出して泣いてしまいそうだ。

【付記】「根」「音」を掛け、磯馴れ松の根に寄せて、声に出して泣いてしまいそうだと恋の苦しみを訴える。「風ふけば浪打つ岸の松なれやねにあらはれてなきぬべらなり」(古今集、読人不知)。

【関連歌】上1097

 

●古今和歌六帖・第六・四二六八 山なし

世の中を憂しといひてもいづこにか身をばかくさん山梨の花

【通釈】世の中を憂いと言っても、どこに身を隠そうか。「山なしの花」ではないが、遁世するのに適当な山など無いのだ。

【付記】出典は、醍醐天皇の更衣であった近江御息所主催の『近江御息所歌合』。身を隠すべき山が無いことを「山なし」に掛けて言ったか。

【関連歌】員外2918

 

興風集

藤原興風(生没年未詳)の家集。

●興風集・三二 

山川の菊のした水いかなれば流れて人の老を堰くらん

【通釈】菊の下を流れる山川の水は、どうして人の老いを堰き止めるのだろうか。

【付記】漢籍の故事に由来し、長寿の霊験があるとされた「菊の下水」の由縁をいぶかってみせた歌。新古今集入撰。

【関連歌】中1831、中2012、下2246、員外3376

 

貫之集

紀貫之(八六八頃~九四五頃)の家集。

●貫之集・第一・四六 三月、田かへす所

山田さへ今はつくるを散る花のかごとは風におほせざらなん

【通釈】山間の田でさえもう耕している。それほど春も更けたのだから、花が散る恨み言は風に負わせないでほしい。

【付記】田植の遅い山間部でも土を耕す季節となり、風が吹かなくても花が散るのは当然として、風を弁護した。延喜六年(九〇六)、醍醐天皇の命により奉った、月次屏風のための歌。第二句「今はかへすを」として載せる本もある。

【関連歌】上0918

 

●貫之集・第一・八四 延喜十七年八月宣旨によりて

八重葎おひにし宿に唐衣たがためにかはうつ声のする

【通釈】八重葎が繁茂する荒れた宿にあって、誰のために衣を打つ音がするのだろう。

【付記】延喜十七年(九一七)、醍醐天皇の命で詠んだ歌二十四首のうち。荒れた宿に、足が遠のいた恋人を思って砧を打つ女を詠む。「たがためにかは」は『白氏文集』巻十九の「聞夜砧」、「いへ思婦しふぞ秋にきぬつ」に拠るか。「中国詩で擣衣は留守の夫を偲ぶ女の行為であるが、砧に衣をのせて打つと衣を返しながら打つことになるので別れている人を呼び寄せる呪術になる」(和漢文学大系『貫之集』二五番歌脚注)。

【関連歌】上0146、下2300

 

●貫之集・第三・二四二 山里に神祭る

神まつる時にしなれば榊葉のときはのかげはかはらざりけり

【通釈】神を祭る時節になったので、(他の木々の葉は落ちてしまったが、)常緑樹の木陰は以前と変わらないのだった。

【付記】「神まつる時」は、普通初夏(陰暦四月)か仲冬(陰暦十一月)。この場合は後者。神祭る季節なので、榊葉すなわち常緑樹の葉だけは散らずにいると言う。

【関連歌】下2388

 

雨ふらん夜ぞおもほゆる久方の月にだに来ぬ人の心を

【通釈】雨が降る夜なぞ当然予想できる。月夜にさえやって来ない人の心情を。

【付記】「延喜の末よりこなた延長七年よりあなた、うちうちの仰にてたてまつれる御屏風の歌廿七首」と詞書された歌群の一首。

【関連歌】上0708

 

●貫之集・第四・三七七 山里の桜をみる

まだしらぬ所までかく来てみれば桜ばかりの花なかりけり

【通釈】まだ訪れたことのない山里までこうして来て見ると、桜ほど美しい花はやはり他にないのだった。

【付記】「天慶二年四月右大将殿御屏風の歌廿首」の一首。風雅集に入集。

【関連歌】上0114

 

●貫之集・第四・四〇六 九月菊

祈りつつなほ長月の菊の花いづれの秋か植ゑてみざらん

【通釈】長寿を祈りつつ、なお永い命を願う長月の菊の花。毎秋欠かすことなく、植えて見るのだ。

【付記】菊の花に長寿を祈る。下句は反語。天慶二年(九三九)閏七月、右衛門督殿(源清蔭)の屏風のために作った十五首のうち。『古今和歌六帖』の「(九月)九日」に、また新古今集巻七賀歌に「延喜御時屏風歌」として採られている。

【関連歌】上0838

 

●貫之集・第四・四二九 神まつる

卯の花の色にまがへる木綿(ゆふ)しでて今日こそ神をいのるべらなれ

【通釈】卯の花の色と区別できないほど真っ白な木綿を幣として垂らして、今日こそ神に祈るのだそうな。

【付記】初夏の神祭り。「木綿しでて」とは、木綿を注連縄などに垂らしての意。天慶二年(九三九)、藤原敦忠家の屏風のために詠んだ歌。

【関連歌】中1920

 

●貫之集・第四・五三四 同じ年四月の内侍の屏風の歌十二首

声たかくあそぶなるかな足曳の山人いまぞかへるべらなる

【通釈】声高く口ずさんでいることよ。山人が今(夕暮の山道を)帰ってゆくのにちがいない。

【付記】天慶六年(九四三)、藤原忠平女貴子の四十賀を祝う屏風歌十二首のうち、霜月(陰暦十一月)の歌。柴刈りを終えた帰途山人が口ずさむ歌に世の泰平を聞く。但し「あそぶ」を神楽歌の採物「杖」の「逢坂を今朝越え来れば山人の我にくれたる山杖ぞこれ山杖ぞこれ」を奏することと解する説もある(和歌文学大系十九『貫之集』)。

【関連歌】員外3445

 

●貫之・第五・集六六二 

鳥のねもきこえぬ山のむもれ木は我が人しれぬ歎きなりけり

【通釈】鳥の声も聞こえない深山の埋れ木は、人に知られることのない、私の歎きの木なのだった。

【付記】「むもれ木」は土中や水中に久しく埋れている木。不遇の身の喩え。「歎き」の「き」に木の意を掛ける。

【関連歌】下2161

 

躬恒集

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)(生没年未詳)の家集。躬恒は古今集の撰者の一人。

●躬恒集・八四 

秋の野の萩の白露けさ見れば玉やしけるとおどろかれつつ

【通釈】白雪もまだ消えていないのだった。山里はいつ頃になったら春が来たと知るのだろうか。

【通釈】秋の野に咲く萩の白露を今朝見ると、玉を敷き詰めたのかと驚いてしまった。

【付記】『古今和歌六帖』の「つゆ」の部に載る。また後撰集には初二句「秋の野におく白露を」として入撰。

【関連歌】上1338

 

頼基集

大中臣頼基(八八四頃~九五八頃)の家集。

●頼基集・四 寛平の御時の屏風の歌

白露のおくての稲も刈りてけり秋はてがたになりやしぬらん

【通釈】白露の置く、晩生(おくて)の稲も刈ってしまった。秋も終りの頃になったのだろうか。

【付記】「おくて」は「置く」「晩生(おくて)」と掛けて言う。「朝露のおくての山田かりそめにうき世の中を思ひぬるかな」(古今集、貫之 移動)。詞書の「寛平の御時」は正確でなく、宇多法皇の御殿のための屏風歌である。玉葉集に詞書「亭子院御屏風に」として入集。

【関連歌】員外2831

 

元良親王集

陽成院の第一皇子、元良親王(八九〇~九四三)の家集。「色好み」として知られた親王の歌物語風の歌集である。

●元良親王集・一二  琵琶の左大臣殿に、いはや君とて童にてさぶらひけるを、をとこありとも知り給はで御文つかはしければ

大空に(しめ)ゆふよりもはかなきはつれなき人をたのむなりけり

【通釈】大空にしるしの縄を張ろうとするのより虚しいことは、無情な人を頼みとすることであったよ。

【語釈】◇標ゆふ 領有のしるしに縄などを張ること。

【付記】「標ゆふ」は領有のしるしに縄などを張ること。本歌は「ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(古今集、読人不知)。続古今集に元良親王の歌として採られているが、『元良親王集』の詞書からすると藤原仲平邸の侍女「いはや君」が親王に贈った歌と考えるべきであろう。

【関連歌】上0371

 

中務集

伊勢の娘、中務(九一二頃~九九一頃)の家集。

●中務集・四〇 いづみ

下くくる水に秋こそかよふらし(むす)ぶ泉の手さへ涼しき

【通釈】地面の下を潜って流れる水には、ひっそりともう秋が入り込んでいるらしい。泉の水をすくい取る掌にまで、秋の涼しさが伝わるよ。

【付記】「下くくる水」は地下水。家集の題「いづみ」からすると、屏風歌であろう。和漢朗詠集などにも見え、早くから秀歌と認められていたが、勅撰集には漏れ続け、南北朝時代の新千載集にようやく掬われた。

【関連歌】下2118

 

信明集

後撰集初出の歌人源信明(九一〇~九七〇)の家集。

●信明集・二八 おほあらきの森

郭公きなくをきけば大荒木の森こそ夏のやどりなるらし

【通釈】時鳥が来て鳴くのを聞くと、大荒木の森こそが彼らの夏の宿りであるらしい。

【語釈】◇大荒木の森 既出

【付記】天暦八年(九五四)、中宮七十賀の屏風歌。新拾遺集・歌枕名寄などにも採られている。

【関連歌】中1922

 

源順集

源順(九一一~九八三)の家集。

●源順集・一一九 応和元年七月十一日に、四つなる女子(をんなご)をうしなひて、おなじ年の八月六日に、又五つなる男子(をのこご)をうしなひて、無常の思ひ、ことにふれておこる。かなしびの涙かわかず、古万葉集の中に沙弥満誓がよめる歌の中に、「世の中をなににたとへん」といへることをとりて、かしらにおきてよめる歌十首

世の中を何にたとへんあかねさす朝日さすまの萩のうへの露

【通釈】この世を何に喩えようか。朝日が射すまでの間の、萩の上に置いた露のようなものだ。

【付記】応和元年(九六一)に幼い娘と息子を相次いで亡くした時、沙弥満誓の歌(移動)の歌の句「世の中をなににたとへん」を頭に置いて十首の歌を作った、その最初の一首。のち『新千載集』に採られた。

【関連歌】上1464

 

能宣集

大中臣能宣(九二一~九九一)の家集。能宣は伊勢神宮祭主、正四位下神祇大副。後撰集の撰者。三十六歌仙、梨壺の五人の一人。

●能宣集・一〇五 大和なる寺を見るに、竜田川のもとにとまりてやすむ

夏衣たつたの川をきてみれば風こそ波のあやはおりけれ

【通釈】夏衣を裁つ、竜田の川に来て見ると、風が波の綾を織っているのだった。

【付記】「裁つ」「着て」「綾」と、衣の縁語で織り成した。

【関連歌】上1032

 

●能宣集・一六八 七月一日あるところにて

うちつけに今日はすずしな秋といへば風の心もひきかへてけり

【通釈】唐突に今日は涼しいことよ。秋だというので、風の心も改まったのだった。

【付記】「うちつけに」は唐突にの意。秋になって風の心も改まったと言う。

【関連歌】上0938

 

和泉式部集・和泉式部続集

和泉式部(九七六頃~一〇二七以後)の家集。

●和泉式部集・六五 冬

夏のせし蓬のかども霜枯れてむぐらの下は風もたまらず

【通釈】夏が作った蓬の門も霜枯れて、こちたき雑草の下は風も留めないようになった。

【付記】男の訪れが絶えた家の荒廃した冬庭。

【関連歌】下2313

 

●和泉式部集・二八四 観身岸額離根草、論命江頭不繋舟

難波潟みぎはの蘆にたづさはる舟とはなしにある我が身かな

【通釈】難波潟の汀の蘆に引っ掛かって進まない舟というわけではないのに、思うにまかせない我が身であるよ。

【付記】題詞は『和漢朗詠集』無常の部に載る羅維の詩。訓み下せば「身ヲ観ズレバ岸ノ額ニ根ヲ離レタル草、命ヲ論ズレバ江ノ頭ニ繋ガザル舟」。その一字づつを頭において詠んだ連作四十三首の一首。

【関連歌】員外3437、員外3522

 

●和泉式部集・二九二 観身岸額離根草、論命江頭不繋舟

塵のゐる物と枕はなりぬめり何のためかはうちも払はん

【通釈】塵がずっとあるものに枕はなってしまったようだ。何のために打ち払いなどしようか。

【付記】題詞については前歌参照。男の訪れが絶えて、塵の積もった枕。掃い清めることにも虚しさを感じる自嘲。

【関連歌】員外2873

 

●和泉式部集・三四八 くるしげなる事

世の中にくるしき事は数ならでならぬ恋する人にぞありける

【通釈】この世で苦しいことと言えば、数にも入らない身で、実らぬ恋をする人のことであったよ。

【付記】「数ならで」とは「数にも入らない身で」。「ならぬ恋」は「実らぬ恋」。

【関連歌】上1376

 

●和泉式部集・四九〇 宮、法師になりて、髪のきれをおこせ給へるを

かきなでておほしし髪のすぢごとになりはてぬるを見るぞ悲しき

【通釈】かき撫でて養い育てたあなたの髪の一すじごとに、あらぬ様になってしまったのを見るのは悲しいことだ。

【語釈】◇すぢごとになりはてぬる 「すぢ毎に」「(こと)になり果てぬる」と掛けて言う。「異になる」とは、以前とは違ったさまになることで、子が僧形になったことを暗に言う。

【参考】「たらちめはかかれとてしもうば玉のわが黒髪をなでずやありけん」(後撰集一二四〇、遍昭)。

【付記】仏門に入った子(おそらく帥の宮との間の子)が、剃った髪の切れ端を贈って来たのに対して詠んだ歌。

【関連歌】下2507

 

●和泉式部続集・四八〇 しほがま

塩竈のうらなれぬらん海人もかく我がごとからき物は思はじ

【通釈】塩竈の浦に慣れているだろう海人も、このように私の如く辛い物思いはするまい。

【関連歌】上0276

 

大弐三位集

紫式部の娘、大弐三位(九九九頃~一〇八二頃)の家集。

●大弐三位集・一六 はじめて人の

うづもるる雪の下草いかにして妻こもれりと人にしらせん

  大弐三位集・一七 かへし

垂氷する峰の早蕨もえぬるをまだ若草のつまやこもれる

【通釈】埋もれている雪の下草のようにひそかに思いを籠めている私の心を、どうやって人に知らせましょうか。

氷柱が下がっている峰の早蕨も萌えたというのに、まだ若草の(つま)は野に籠っているのでしょうか。

【付記】藤原定頼が「雪の下草のようにひそかに思いを籠めている」と初めて恋文を贈って来た。それに対し大弐三位は「峰の早蕨が萌えたように私の心も燃えているのに、まだ若草の(つま)は野に籠っているのか」と返した。16番の歌は風雅集に大弐三位の歌とするが、藤原定頼の作とするのが正しい。

【本歌】「春日野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり」(古今集、読人不知)、「伊勢物語」第十二段)

【関連歌】中1503

 

故侍中左金吾家集

源頼実(一〇一五頃~一〇四四頃)の家集。頼実は和歌六人党の一人。

●故侍中左金吾家集・七一 月夜のしぐれ

定めなき空にもあるな見るほどに時雨にくもる冬の夜の月

【通釈】落ち着きのない空であることよ。見ているうちに、冬の夜の月は時雨の雲に覆われて見えなくなってしまう。

【付記】第二句「空にもあるな」は不審であるが、『新編国歌大観』に従う。

【関連歌】上0088

 

四条宮下野集

後冷泉天皇皇后、四条宮寛子の女房を勤めた四条宮下野(生没年未詳)の自撰家集。成立は延久二年(一〇七〇)頃かという。

●四条宮下野集・九六 中納言の君、返し、よししげ□り

来る人もなき山里は峰のあらし滝の音をぞなぐさめにする

【通釈】訪れる客もない山里での暮らしは、峰の嵐と滝の響きを慰めにするのです。

【付記】京東郊の白川に遊んだ時、山の上の庵が中納言宣旨(上東門院に仕えた女房か)の住居と知って贈った歌「たづねつる山川水のはやくよりすむらん人の心をぞくむ」への返歌。「よししげ」は不明。□は底本虫損。「かきた(り)」かという(岩波新古典大系注)。

【関連歌】上0393

 

大納言経信集

後冷泉朝歌壇・堀河朝歌壇において指導的立場にあった歌人、源経信(一〇一六~一〇九七)の家集。

●大納言経信集・四七 大井行幸に

いにしへの跡をたづねて大井川紅葉の御舟ふなよそひせり

【通釈】昔の跡を求めてやって来た大井川――紅葉が水面に浮かんで船出の用意をしています。

【付記】承保三年(一〇七六)、白河天皇の大井川行幸に供奉しての作。「いにしへの跡」とは、延喜七年(九〇七)九月の宇多法皇の大井川行幸のことを言う。水面に浮かんだ紅葉を船になぞらえ、船出の用意をしていると見た。因みに、この時経信に対し詩歌管弦の三舟のいずれに乗るかと天皇の仰せがあり、管弦の舟に乗って詩歌を献じたと伝わる(『袋草紙』『古今著聞集』など)。

【関連歌】中1841

 

六条修理大夫集

藤原顕季(あきすえ)(一〇五五~一一二三)の家集。顕季は白河院の近臣として活躍し、正三位修理大夫に至る。歌道家六条藤家の祖。

●六条修理大夫集・二八六 新中将家和歌合、郭公

五月闇くらぶの山のほととぎす声はさやけきものにぞありける

【通釈】五月闇で真っ暗な鞍部山の時鳥、しかしその声はくっきりとしたものなのだった。

【付記】本歌は拾遺集の実方詠「五月闇くらはし山の時鳥おぼつかなくも鳴き渡るかな」。この「おぼつかなく」を「さやけき」に転じ、「暗い」意が響く歌枕の名との対照に興じた。元永元年(一一一八)五月、右近衛中将源雅定が主催した歌合に出詠した歌。

【関連歌】上0025

 

散木奇歌集

源俊頼(一〇五五頃~一一二九頃)の家集。

●散木奇歌集・夏・三二〇 殿下にて夏夜の月をよめる

あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながらをる身ともがな

【通釈】今宵、月の光はあじさいの繁みを洩れ、池の水面に四枚の花びらのように映っている。その影を、そのまま折り取ることができたらよいのに。

【付記】関白忠通邸で「夏夜の月」の題を詠んだ歌。

【関連歌】上0222

 

●散木奇歌集・秋・五三一 殿下にて詠山月といへる事をつかうまつれる

今宵しも姨捨山の月を見て心のかぎりつくしつるかな

【通釈】今宵という今宵、姨捨山の月を見て、心の限界まで使い果たしてしまったことよ。

【付記】保安二年(一一二一)九月十二日、藤原忠通主催の関白内大臣家歌合に出詠した歌。「今宵」は十三夜。「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」「木の間よりもりくる月のかげ見れば心づくしの秋は来にけり」の古今集二大名歌を取り込んでいる。

【関連歌】員外2802

 

行宗集

従三位大蔵卿源行宗(一〇六四~一一四三)の家集。行宗は参議源基平の子で行尊大僧正の弟。崇徳院歌壇で活動した。

●行宗集・一九三 春雨

春雨のふる野の道をわけゆけば三島菅笠(すががさ)かわくまぞなき

【通釈】春雨が降る、布留野の道を分けてゆくと、私の被った三島菅笠は乾く暇もない。

【付記】「ふる野」に「降る」「布留野」を掛ける。「三島菅笠」は三島江の菅で編んだ笠。万葉集に見える語。堀河百首題による崇徳天皇初度百首(完本は散逸)として詠まれた歌。制作は永治元年(一一四一)の崇徳天皇譲位以前。

【関連歌】上0416

 

俊頼髄脳

源俊頼(一〇五五頃~一一二九頃)の歌論・歌話集。天永二年(一一一一)から永久元年(一一一三)の間頃に成立したかという。本文は新編日本古典文学全集による。

●俊頼髄脳「かぞいろは…」

 かぞいろはあはれとみらむつばめすらふたりは人に契らぬものを

むかし、男ありけり。(むすめ)に、男あはせたりけるが、()せにければ、また、(こと)人に、婿とらむとしけるを、むすめ聞きて、母にいひけるやう、「男に、具してあるべき(すゑ)を、あらましかば、ありつる男ぞあらましか。さる宿世(すくせ)の、なければこそ死ぬらめ。たとひ、したりとも、身のくせならば、またもこそ、死ぬれ。さること(おぼ)しかく」などいひければ、母聞きて、おほきに驚きて、父に、語りければ、父、これを聞きて「我死なむこと、近きにあり。さらむ(のち)には、いかにして、世にあらむ」とて、「さる事は、思ひよるぞ」とて、なほ、あはせむとしければ、むすめの、親に申しけるは、「さらば、この家に巣くひて、こ生みたるつばくらめの、男つばくらめを、取りて殺して、つばくらめに、しるしをして、はなち給へ。さらむに、またの年、男つばくらめ()して、来たらむ折に、それを見て、思し立つべきぞ」といひければ、げにもと思ひて、家に、こ生みたる、つばくらめを取りて、()つばくらめをば、殺して、()つばくらめには、首に、赤き糸を、付けてはなち、つばくらめ帰りて、またの年の春、男も具せで、ひとり、首の糸ばかり付きて、まうで来たれば、それを見てなむ、おやども、また、男あはれむの心もなくて、やみにけり。むかしの、女の心は、今様(いまやう)の、女の心には、似ざりけるにや。つばくらめ、男ふたりせずといふこと、文集(もんじふ)の文なりとぞ。

【大意】かぞいろは…(両親は寡婦の私を可哀想と思うだろう。しかし燕ですら、ひとりの夫としか契らないというのに)

昔、ある男親が、夫を失くした娘に新たな婿を取ろうとしたが、娘は「私に一生添い遂げる縁がなかったので夫は死んだのです。また結婚したところで、それが私の運命であれば、また夫は死ぬでしょう」と言うので、父親は「私の寿命も長くないのに、どうやって生きてゆくつもりだ」と言い、やはり結婚させようとした。すると娘は「それでは、我が家に巣を作る燕の雄を捕まえて殺し、雌には首にしるしを付けて放して下さい。来年、別の雄を連れて来たら、その時には私も結婚を考えましょう」。尤もだと父親は思い、雄の燕を殺し、雌には赤い糸を付けて放した。翌春、赤い糸を付けた雌燕は独りで帰って来た。そこで両親も娘を結婚させるのは諦めたのだった。

【付記】『今昔物語集』などにも見える話で、当時はよく知られた歌説話であったらしい。俊頼は「文集の文なり」と言うが、『白氏文集』には見えず、『和歌童蒙抄』によれば出典は『南史』の記事である。

【関連歌】上0760

 

●俊頼髄脳「芹つみし…」

 芹つみしむかしの人も我がごとや心に物はかなはざりけむ

これは、文書に、献芹(けんきん)と申す本文なりとぞ、うたがへども、おぼつかなし。ただ物がたりに、人の申すは、九重のうちに、朝ぎよめする者の、庭はきたてる折に、にはかに、風の御簾(みす)を吹きあげたりけるに、(きさき)の、物めしけるに、(せり)と見ゆる物を、めしけるを見て、人知れず、物思ひになりて、いかで、今ひと度、見たてまつらむと思ひけれど、すべきやうもなかりければ、めしし芹を思ひいでて、芹を摘みて、御簾の、風に吹きあげられたりし御簾のあたりに、置きけり。年を()れども、させるしるしも、なかりければ、つひに、病になりて、失せなむとしけるほどに、めにもあきらめで死なむが、いぶせさに、「この病は、さるべきにてつきたる病にあらず。しかじかありし事によりて、物思ひになりて、失せぬるなり。我を、いとほしと思はば、芹を摘みて、功徳につくれ」と、いきのしたにいひて、失せはてにけり。その(のち)、いひおきしごとくに、芹をつみて、仏にまゐらせ、僧にくはせなどぞしける。それがむすめの、その宮の女官になりて侍りけるが、この物がたりをしけるを、聞こし召して、あはれがらせ給ひて、「我こそ、芹をばくひて、さる者には見えたりしやうにはおぼゆれ」と、のたまひて、その女官を常に召して、あはれにせさせ給ひける。その后、嵯峨の后とぞ申しける。

【大意】芹つみし…(芹を摘んで捧げたという昔の人も、私のように、恋が心に叶わなかったのだろうか)

これは物の本によれば「献芹」の故事の典拠かと疑われるが、はっきりしない。ただ、物語に人の申すところでは、宮中で朝の掃除をする者が庭を掃いていた時、急に風が御簾を巻き上げ、皇后が芹のようなものを召し上がっているところを見てしまった。それから男は恋に落ち、もう一度お姿を拝見したいと思うけれども、なすすべもない。召し上がっていた芹を思い出して、摘んで来ては、風に吹き上げられた御簾のあたりに置いておいたのだった。何年か経ったけれど、これといった報いもないので、とうとう男は病に倒れ、死にそうになった。目で確かめられずに死ぬのが辛くて、「しかじかの事情があり、私は恋の病で死ぬのだ。気の毒に思うなら、芹を摘んで、私への功徳とせよ」。虫の息にそう言って死んでしまった。娘は遺言通り芹を摘んで仏にお供えするなどしたが、その後皇后の女官として仕えるようになり、亡父の話をしていたのを、皇后がお耳に入れて、同情なさり、「その芹を食べていたのは私だと思う」と仰って、その女官を常にお側に召してお可愛がりになった。その皇后は「嵯峨の后」とおしゃった。

【付記】「献芹」の故事にかかわる歌についての説話である。「嵯峨の后」は橘嘉智子。

【関連歌】上1124

 

俊忠集

俊成の父、定家の祖父にあたる藤原俊忠(生年未詳~一一二三)の家集。

●俊忠集・六 又女房の歌をめしてたまはりしに 小大進

つらさをも思ひ入れじと忍べども身をしる雨のところせきかな

【通釈】あなたの薄情さをあまり深く思うまいと我慢しても、身の程を知る涙雨が溢れるほど降ります。

【付記】「つらさ」は相手の薄情さ。あまり深く思うまいと我慢しても、身の程を知る涙雨が溢れるほど降ると言うのである。「身をしる雨」は古今集業平詠「かずかずに思ひ思はずとひがたみ身をしる雨はふりぞまされる」による。康和四年(一一〇二)閏五月の『堀河院艶書合』の小大進の歌で、これに対し俊忠は「思はずにふりそふ雨のなげきせば三笠の山をかけてちかはむ」と返している。

【関連歌】上1342

 

忠盛集

清盛や忠度の父、平忠盛(一〇九六~一一五三)の家集。没後近親者による編と見られる。

●忠盛集・九五 羈旅五首

人やりの路かはいさやしら波のたちかへりなんゆく名のみして

【通釈】人から遣わされた旅路であろうか、さあそれはともかく、名目ばかり旅立って、白波が立ち返るようにすぐに戻って来よう。

【語釈】◇いさやしら波の 「いさや知ら(ず)」「白波の」と掛けて言う。「いさや」は「さあどうか」程の意。「しら波の」は次句「たちかへりなん」を言い起こす序のはたらきもする。

【関連歌】員外3552

 

田多民治集

法性寺殿関白太政大臣藤原忠通(一〇九七~一一六四)の家集。「田多民治(ただみち)」は忠通の名の書き換え。没後の他撰家集か。

●田多民治集・一一四 基俊にたまひし

はかなくて今年も暮れぬかくしつつ幾代をふべき我が身なるらん

【通釈】手ごたえもなく今年も暮れてしまった。このようにして何年を過ごす我が身なのだろうか。

【付記】藤原忠通(1097~1164)が藤原基俊(1060~1142)に贈った歌。基俊の返歌は「手を折りて経にける年を数ふればあはれ八十路になりにけるかな」とあり(『基俊集』)、基俊の八十歳は保延五年(一一三九)のことで、当時忠通は四十三歳。続後撰集入集歌。

【関連歌】中1556

 

和歌一字抄

藤原清輔(一一〇四~一一七七)撰の歌学書。原撰本は仁平三年(一一五三)頃成立という。「水上落花」などの結題または複合題を掲げ、それぞれの例歌を集めた書。

●和歌一字抄・一〇〇 夢後時鳥 周防内侍

思ひ寝の夢ぢに心かよへばやおきふす床にきく時鳥

【通釈】聞きたいと願いながら寝入る夢路に心が通うからだろうか、起き臥しする寝床で時鳥の声を聞く。

【関連歌】員外3485

 

●和歌一字抄・三三六 瞿麦副垣  俊頼朝臣

かきねには葎の露も茂からんすこし立ちのけやまとなでしこ

【通釈】垣根には葎の露も夥しいだろう。少し場所を移りなさい、大和撫子の花よ。

【付記】題意は「瞿麦(なでしこ)垣に()ふ」。むくつけき八重葎の露に濡れるのを哀れんで、撫子の花に語りかける。

【関連歌】上0332

 

今撰和歌集

顕昭(一一三〇頃~一二一〇頃)撰の私撰和歌集。三巻。成立は、永万元年(一一六五)八月十七日以降、永万二年二月一日以前という(新編国歌大観解題)。

●今撰和歌集・春・六 鶯の歌とて 兵衛

鶯の谷の戸いづる声すなり年のあくるといかでしるらん

【通釈】鶯が谷の戸を出て来る声がする。年が明けるとどうやって知るのだろう。

【付記】谷を鶯の宿と見立て、新春、里へ出て来ることを「谷の戸いづる」と言いなした。「谷の戸をとぢやはてつる鶯の待つに音せで春のすぎぬる」(拾遺集、道長)。

【関連歌】上0902

 

唯心房集

唯心房こと寂然(生没年未詳)の家集。成立は応保二年(一一六二)十月以後、仁安二年(一一六七)十二月以前の間とされる(新編国歌大観解題)。定家の姉、八条院坊門局が書写し、定家が識語した写本が伝存する。寂然は俗名藤原頼業(よりなり)。丹後守為忠の四男。寂超(為経)・寂念(為業)の弟で、いわゆる大原三寂(常磐三寂)の一人。兄為経の妻(美福門院加賀)は為経が出家したのち俊成の妻となり定家を生んだ。また寂然の妹も俊成の妻だったので、定家とは近しい関係にあった。没年は寿永元年(一一八二)以後。

●唯心房集・八八 月の歌

一人のみながむる秋のつもりてぞ月のあはれは知られはてぬる

【通釈】一人だけで眺める秋が積もり積もって、月の情趣はすっかり知られたのだった。

【関連歌】上0661

 

●唯心房集・四五 はじめの秋の心を

秋はきぬ今年もなかばすぎぬとや荻ふく風のおどろかすらん

【通釈】秋はやって来た。今年も半ばを過ぎたと、荻を吹く風が気づかせるのだろうか。

【付記】初秋を主題に詠む。「おどろかす」は「はっと気づかせる」意。

【関連歌】下2130

 

清輔集

藤原清輔(一一〇四~一一七七)の家集。「原形は、清輔最晩年の頃には成っていたものと思われる」(新編国歌大観解題)。

●清輔集・秋・一七九  紅葉

小倉山木々の紅葉のくれなゐは峰の嵐のおろすなりけり

【通釈】小倉山の木々の紅葉の色は、峰の嵐が吹き下ろし、染め下ろすのであった。

【付記】冷たい山風が葉を染めることを、紅花染めに寄せて詠んだ。「おろす」と言うのは、紅花染めは染料を振り下ろすように染めたので、紅に染めることを「吹き下ろす」に掛けて言ったもの。永暦元年(一一六〇)に自らが主催した歌合に出詠した歌。

【関連歌】上1058

 

●清輔集・冬・二〇一  雪

おほとりの羽がひの山の霜のうへにかさねて見ゆる今朝の初雪

【通釈】羽易の山の霜の上に、今朝は初雪が重なって見える。

【付記】「おほとりの」は「羽易の山」(大和国)の枕詞。

【関連歌】上1359

 

●清輔集・釈教・四二四  天王寺にまうでて亀井にてよめる

劫をふと消えじとぞ思ふ露にても亀井の水にむすぶ契りは

【通釈】劫の時を経るとも、露ほども消えまいと思う。亀井の水を(むす)んで交わした約束は。

【関連歌】下2788

 

奥義抄

藤原清輔(一一〇四~一一七七)の歌学書。定家著『僻案抄』『三代集之間事』によれば、初め崇徳天皇に奉り、のち追補して二条天皇に奉ったようである。以下は第三次本を収める歌学大系本による。

●奥義抄(近江をささなみということ)

日本紀云、天智天皇おほつの宮におはします時仏寺を建立の御心ざしありて、勝地をもとめ給ふに、六年二月三日の夜夢に沙門奏云、いぬゐの山に霊窟あり。はやく見給ふべし。帝おどろきて其方の山を見給ふに、おほきなるひかりほそくのぼれり。あしたに人をつかはしてたづね給ふに、使かへりて奏云、ひかりにあたれる所に小山寺并小滝水あり。又優婆塞ありて経行念誦す。ゆゑをとふにこたへず。その操行を見るに、奇偉者といひつべし。帝そのところに幸、優婆塞いでむかひ奉れり。此山の名をとひ給ふに、奏云、古仙霊窟伏蔵の地、佐々名実(ささなみ)長等(ながら)山といひてうせぬ。其所に伽藍をたてらる。今の崇福寺是也。(奥義抄下・問答四)

【大意】仏寺の適地を探していた天智天皇は、大津の宮の北西の山に霊窟があるとの夢告げを得た。目覚めて山を見れば大きな光が細く立ちのぼっている。翌朝、人を遣わすと、光の当たる所には小さな滝があり、優婆塞(男子の仏教信者)がいたと言う。天皇はその山に行幸し、優婆塞に山の名を問うと「ささなみの長等山」と言って姿を消した。天皇はその地に崇福寺を建てた。

【付記】「近江をささなみと云ふこと、又いかに」の問いに答えた一節より、崇福寺建立の由来を語る伝説。「日本紀云」とあるが、日本書紀には見えない話である。

【関連歌】下2358

 

源三位頼政集

源頼政(一一〇四~一一八〇)の家集。「内部徴証により、安元・治承(一一七五~一一七八)頃、三位に叙されたのを機に、あるいは、出家を志した折に自撰し、仁和寺守覚法親王に進献されたものかと推測されている」(和歌文学辞典)。

●頼政集・上・二四四 遍照寺の月を見て

いにしへの人は(みぎは)に影たえて月のみすめる広沢の池

【通釈】ここ広沢の池では古来、風流な人々が池のほとりで月を賞美してきたが、そんな昔の人の影はいま岸辺になく、ただ月ばかりが水面に澄んで映っている。

【付記】広沢の池のほとりの遍照寺で月を見、古人を偲ぶ。第十八代勅撰集である新千載集に採られている。

【関連歌】上0835、中1513

 

教長集

藤原教長(一一〇九~一一八〇頃)の家集。教長は大納言忠教の子。参議に至るが、保元の乱に連座し、出家。崇徳院歌壇で活躍し、歌学書なども残した歌人。

●教長集・恋・六五六 おなじ心を

なぞもかくひとりふる屋の軒におふる草の名にしもかかりそめけむ

【通釈】何故まあこうして、独り月日を送る古屋の軒に生えている草の名――忍ぶという名の恋にかかずらい始めてしまったのだろう。

【付記】詞書の「おなじこころ」は「忍恋」を指す。忍草の生える家で男を待つ女の身になって詠んだ歌。「ふる屋」に「経る」「古屋」と掛けて言う。

【関連歌】下2558

 

●教長集・雑・八九〇 同百首に野の意を

たまぼこの道だに見えぬ夏草に野中の清水いづくなるらん

【通釈】道さえも見えない程繁った夏草の中で、野中の清水はどこに隠れているのだろう。

【付記】保延五年(一一三九)~永治元年(一一四一)頃の成立とされる崇徳院初度百首。「野中の清水」は古今集八八七を証歌として盛んに詠まれたが、いかなる由緒のある清水なのか不明である。

【関連歌】中1838

 

重家集

藤原重家(一一二八~一一八〇)の家集。治承二年(一一七八)の自撰。重家は六条藤家顕輔の子。清輔の弟。有家の父。従三位大宰大弐に至る。

●重家集・二〇六 関路霞

春霞たちへだつれど清見潟せきもる波の音はかくれず

【通釈】春霞が立ちこめて隔てているけれど、清見潟の関を守る波の音は隠れもない。

【関連歌】上0274

 

月詣和歌集

寿永元年(一一八二)十一月、賀茂重保が祐盛法師の助力を得て成立したと言われ、賀茂別雷社に奉納された。全十二巻千二百首(現存伝本は一部欠落)。藤原俊成を始め、徳大寺実定・俊恵・西行・小侍従など現存歌人の作を集める。定家の歌も九首採られている。

●月詣和歌集・正月・八 題不知 大納言実国

こぞといへば久しくなれるここちして思へば夜はのへだてなりけり

【通釈】去年とういと、もうずっと以前のような気持がするが、思えば一夜の隔てがあるばかりなのだった。

【付記】去年と今年の間を隔てるのがたった一夜であることを訝しむ。『実国集』には詞書「たつはるの心を」とある。

【関連歌】上0101

 

●月詣和歌集・二月・七七 春駒 仁和寺二品法親王

もえ出づる荻のやけはら春めけば駒のけしきもひきかへてけり

【通釈】気候が春めいたので、芽が萌え出た荻の焼け原では、放たれた駒の様子もすっかり趣を変えてしまった。

【付記】野焼きした荻原に、春再び芽が萌え出て、放たれた馬が夢中で喰っているさまであろう。「ひき」は駒の縁語。作者は守覚法親王。

【関連歌】上0512

 

●月詣和歌集・恋中・四八九 百首歌中に 参議親隆

しぼりつる袖ばかりとぞ思ひしに名をさへ恋にくたすべしやは

【通釈】涙を絞った袖ばかりと思っていたのに、評判さえ恋によって駄目にしてしまうものだろうか。

【関連歌】上0255

 

●月詣和歌集・雑下・八一五 心の外なることにて、こもりゐて侍りけるをりよめる 大江公朝

朝日山おどろが下に消え残る雪やわが身の命なるらん

【通釈】朝日山の藪の下で消え残っている雪、私の命はこの雪のようなものであろうか。

【付記】「朝日山」は山城国の歌枕。宇治川のほとりの山で、貴族の山荘が営まれた。その藪の下の残雪を、我が身の命になぞらえた。作者の大江公朝(きみとも)(生没年未詳)は鎌倉初期の検非違使。後白河院の院使としてたびたび鎌倉に下向したが、正治元年(一一九九)頼朝死去後、反乱事件に関わって勘当を受けた。掲出歌は養和元年(一一八一)、反平家方として解官され籠居していた頃の作か。「朝日」山の名により、今にも雪が消えそうなことが暗示される。

【関連歌】上0406

 

●月詣和歌集・雑下・八四五 述懐をよめる 藤原経家朝臣

雲の上に三代(みよ)まで星をいただけば天照神の哀れかくらむ

【通釈】三代にわたって雲の上(内裏)に精勤し、白髪がまじるまでになったので、天照大神がご慈愛をかけて下さろう。

【付記】「星をいただ」くとは、内裏に精勤することに、白髪がまじる意を兼ねる。藤原経家(一一四九~一二〇九)は千載集初出の歌人。六条家重家男。『経家集』の詞書には「右大臣家百首、述懐」とあり、治承二年(一一七八)兼実主催の百首歌に詠んだ歌。

【関連歌】下2700

 

林葉和歌集

歌僧俊恵(しゆんえ)(一一一三~一一九一)の家集。原型の成立は治承二年(一一七八)八月二十二日、俊恵自撰による。

●林葉和歌集・夏・二六八 五月雨百首中

五月雨に水嵩(みかさ)まされば昆陽(こや)の池の蘆の末葉(すゑば)(かはづ)鳴くなり

【通釈】五月雨によって水嵩が増したので、昆陽の池の蘆の末葉で蛙が鳴いている。

【関連歌】上0221

 

●林葉和歌集・秋・三七五 薄当路滋

花すすきしげみが中を分けゆけば袂をこえて鶉たつなり

【通釈】花薄が繁る中を分けてゆくと、衣の袖を飛び越えて鶉の飛び立つ音がする。

【付記】「薄、路に当たりて(しげ)し」の題で詠んだ歌。繁みの中を行く人の袂を飛び越えて、鶉が飛び立つ。「袂」はあるいは花薄の穂の喩えか。

【関連歌】上0834

 

●林葉和歌集・秋・四一五 師光家にて

秋のうちと誰に契りて宮城野にはたおる虫のいそぐなるらん

【通釈】秋の内に織り上げると、誰に約束して、宮城野に機を織る虫が急いでいるのだろう。

【付記】源師光(生没年未詳)の家で詠んだ歌。忙しなく鳴く機織虫が、秋のうちに機を織り上げる約束をしたかと興じた。

【関連歌】員外2963

 

●林葉和歌集・冬・五八九 残菊をよめる

白菊を(なれ)色々に染めおきて今朝など霜のおきかへすらん

【通釈】霜よ、おまえは白菊を色々に染めておいて、今朝になってどうして花に置いて色を元に戻すのだろうか。

【付記】冬になっても咲き残っている菊を詠む。白菊は霜に逢うなどして衰えると紅や紫色に変色する。そこに再び降りた霜が花を白く「おきかへす」というのである。

【関連歌】上0558

 

●林葉和歌集・冬・六三四 右大臣家百首内、歳暮五首

花を待ち月を遅しといそがまし日数は年のはてぞくやしき

【通釈】春には桜の花を待ち、秋には名月を今や遅しと、もっと急いだらよかった。日数が残り少なくなって、年の果ては悔いが残る。

【付記】治承二年(一一七八)右大臣家百首。歳末になって知る日数の惜しさ。

【関連歌】上0059

 

●林葉和歌集・恋・七一四 内大臣雅通家、恋歌十首よまれ侍りしに

はかなしと夢をもいはじ憂きはうく辛きはつらく見えぬものかは

【通釈】夢をはかないなどとは言うまい。現実に憂鬱な恋は、夢においても憂鬱に、現実に苦しい恋は、夢においても苦しく見えないものだろうか。そんなことはないのだ。

【付記】源雅道(一一一八~一一七五。一一六八年、内大臣正二位兼右大将)の家の十首歌会で詠んだという歌。現実に憂鬱な恋は、夢においても憂鬱に、現実に苦しい恋は、夢においても苦しく見える。ならば夢だけを「はかなし」などと言えるだろうか。

【関連歌】上0978

 

●林葉和歌集・恋・八二六 昔思出恋歌林苑

面影は昔ながらに身にそひて我のみ年の老いにけるかな

【通釈】あの人の面影は昔さながらにわが身に寄り添っていて、私だけが年老いて変わってしまったのだ。

【付記】我が身は年老いても、昔の恋人の面影は若々しいまま。寿永元年(一一八二)十一月の『月詣和歌集』にも採られている。

【関連歌】上1084

 

●林葉和歌集・雑・一〇〇四 右大臣殿百首中、旅五首

有馬山竹葉(たかは)刈りしき夜もすがらふしも定めぬ草枕かな

【通釈】有馬山で、竹の葉を刈り敷いて寝床を作るが、一晩中、安らかに寝られぬ旅の宿りであるよ。

【付記】「ふし」は「臥し」「節」の掛詞で、「節」は竹の縁語。「ふしも定めぬ」とは、安眠できないことを言う。治承二年(一一七八)五月の右大臣家百首。

【参考歌】「大和には聞こえもゆくか大我野の竹葉かりしき庵せりとは」(万葉集一六七七、作者未詳)

【関連歌】員外2849

 

●林葉和歌集・雑・一〇〇五 右大臣殿百首中、旅五首

かへり見し都の山もへだてきぬただ白雲に向かふばかりぞ

【通釈】何度も振り返って見た都の山も、遠く隔てて来てしまった。今はただ白雲を目指して進むばかりである。

【付記】治承二年(一一七八)の右大臣兼実家百首。振り返ってももはや都は見えず、ただ白雲に向かうしかない旅人。

【関連歌】下2559

 

長秋詠藻

定家の父藤原俊成(一一一四~一二〇四)の家集。治承二年(一一七八)夏、仁和寺宮守覚法親王の召により自撰したものであるが、のち後人により増補がなされた。

●長秋詠藻・上・二四 久安百首 夏

ほととぎす鳴きゆくかたにそへてやる心いくたび声をきくらむ

【通釈】時鳥が鳴いて行く方に付けて送る私の心――その心は幾たび声を聞くのだろう。

【付記】時鳥を憧憬する余り、飛び去ったあとも「添へて遣る」心、言わば我が身の分身によって時鳥の声を聞き続けたいとの願いである。「秋の夜の月まちかねて思ひやる心いくたび山をこゆらむ」(詞花集、嘉言)。

【関連歌】上0026

 

●長秋詠藻・上・六五 久安百首 恋

ふかくしも思はぬ程の思ひだに煙の底となりぬるものを

【通釈】さして深くも思わない程度の「思ひ」の火でさえ、やがて煙となって立ちこめ、その底で咽ぶような辛い思いをしてしまうのに。

【付記】「思ひ」の「ひ」に火を掛け、軽い気持で始めた恋が、やがてのっぴきならない恋へと進展する危惧を詠む。

【関連歌】上0578

 

●長秋詠藻・上・一〇〇 短歌一首

しきしまや 大和島根の 風として 吹き伝へたる 言の葉は 神の御代より かは竹の 世々にながれて 絶えせねば 今もはこやの 山風の 枝もならさず しづけきに 昔の跡を たづぬれば 嶺のこずゑも 陰しげく (よつ)の海にも 波たたず 和歌の浦人 数そひて 藻塩(もしほ)の煙 たちまさり 行末までの ためしとぞ 島のほかにも 聞こゆなる これを思へば 君が代に あぶくま川は うれしきを 水曲(みわた)にかかる (むも)れ木の 沈めることは 唐人(からひと)の 三代(みよ)まであはぬ 歎きにも 変はらざりける 身のほどを 思へば悲し 春日山 嶺のつづきの 松が()の いかにさしける 末なれや 北の藤波 かけてだに 言ふにも堪へぬ 下枝(しづえ)にて 下ゆく水に 越されつつ 五つの(しな)に 年ふかく (とを)とて(みつ)も 経にしより (よもぎ)(かど)に さしこもり 道の芝草 おいはてて 春のひかりは こととほく 秋はわが身の 上とのみ 露けき袖を いかがとも とふ人もなき 槙の戸に なほあり明の 月かげを 待つことがほに 眺めても 思ふ心は 大空の むなしき名をば おのづから 残さんことも あやなさに なにはの事も 津の国の 葦のしをれの 刈り捨てて すさびにのみぞ なりにしを 岸うつ波の たちかへり かかる御言(みこと)の (かしこ)さに 入江の藻屑(もくづ) かきつめて とまらん跡は 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 乱れつつ 偲ぶばかりの (ふし)やなからん

  反歌

山川の瀬々のうたかた消えざらば知られん末の名こそ惜しけれ

【通釈】〔長歌〕大和の国の風儀として伝わる和歌は、神代からずっと絶えないもので、今も上皇(崇徳院)のもと太平である代にあって、歴史を尋ねれば、今は豊かで平和な世に、歌人の数が増え、詠草も昔よりまさり、将来まで繁栄する先例であると、島の外までも評判となっていると聞きます。このことを思えば、聖代に生まれ合わせたのは嬉しいけれども、川淀に掛かって沈んだ埋れ木のように不遇なことは、三代沈淪したという唐人の歎きにも劣らない我が身の程を思えば悲しいことです。代々栄える藤原氏の如何なる末裔なのでしょう。名門の北家などとは口にするのも憚られる低い身分で、より低い家柄の者にも先を越され、五位に留まったまま十三年も経ってしまってから、茅屋に籠り、道端の雑草のようにむなしく老い果てて、春の栄誉は縁遠く、ただ我が身には秋ばかりが留まり、露っぽい袖を、どうしましたと訊ねてくれる人もない、この貧しい家になお居続けて、有明の月の光を待つように、良い知らせを待つような顔をして眺めていても、心の中は大空のように虚しく、空虚な名を自然と残してしまうでしょう――そんな甲斐なさに、何ごとにつけ、難波のしおれた葦を刈って捨てるように、詠草もただの気慰みにばかりなっていたのを、再びこのような(百首歌への出詠という)ご命令の畏れ多さに、歌屑をかき集めて、書き留める筆跡は乱れてばかりで、賞美するような所もないでしょうか。

〔反歌〕谷川の瀬々に浮ぶ泡のようにはかない私の詠草が消えずに残るならば、後の世の人に知られる我が名が口惜しく思われます。

【付記】「五つの品に 年ふかく 十とて三も 経にしより」は、十三年間五位の地位に留め置かれたことを言う。俊成は大治二年(一一二七)十四歳で従五位下に叙されたが、以後長く五位のままで、四位に昇叙されたのは十四年後の久安七年(一一五一)正月のことであった。「唐人の 三代まであはぬ 歎きにも」は『和漢朗詠集』の「齢亜顔駟。過三代而猶沈」(齢は顔駟に()げり、三代を過ぎてなほ沈めり)に拠る。久安六年(一一五〇)に成った崇徳院主催『久安百首』に出詠した百首歌の末尾。題に「短歌」とあるのは、当時は長歌を誤って短歌と呼んでいたことによる。自身の詠草を遜る裏で崇徳院の恩顧をひたすら願う心に貫かれた一首である。歌人として崇徳院に引き立てられた頃から、俊成の人生はようやく軌道に乗り始めたのであった。

【関連歌】上0382

 

●長秋詠藻・上・一〇七 残雪

春しらぬ越路の雪も我ばかり憂きに消えせぬ物は思はじ

【通釈】春を知らない越路の雪も、私ほど辛い思いはしていまい。消え入りそうになりながらも耐えている私ほどには。

【付記】保延六(1140)、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。四季題や恋題にも述懐の心を籠めた、特異な百首歌であり、俊成二十代の記念碑的な百首歌である。

【関連歌】上0420、中1717

 

●長秋詠藻・上・一五六 九月尽

憂き身ゆゑ何かは秋もとまるべきことわりなくも惜しみけるかな

【通釈】私のようなみじめな身のためにどうして秋が留まってくれよう。逝く秋を是非もなく惜しんだことよ。

【付記】保延六(1140)、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。

【関連歌】上0555

 

●長秋詠藻・上・一六七 神楽

つくづくと寝覚めてきけば里神楽かごとがましき世にこそありけれ

【通釈】夜中に目覚めてつくづくと聞くと、里神楽も不平がましく聞こえる、我が身の上であるよ。

【付記】保延六(1140)、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」、冬。自身の不遇を神に訴えたい心が、里神楽をも「かごと」すなわち恨み言のように聞こえさせるというのである。

【関連歌】上0091

 

●長秋詠藻・上・一八七 山

憂き身をば我が心さへふりすてて山のあなたに宿もとむなり

【通釈】辛い境遇の身を、せめて我が心だけでも現世を振り捨てて、山の彼方に宿を求めるのだ。

【付記】心中だけでも世を捨てて閑静に暮らしたいとの心。保延六(1140)、七年頃の堀河百首題による「述懐百首」。続後撰集に入集。

【関連歌】上0486

 

●長秋詠藻・中・二二五 暮見卯花といふ心を

柴舟のかへるみ谷の追風に波よせまさる岸の卯の花

【通釈】柴を積んだ舟が深い谷を帰ってゆく。岸に咲く卯の花に追風が吹いて、寄せる白波を増やすかのようだ。

【付記】風になびく岸辺の卯の花を白波に見立てる。『和漢朗詠集』の「朝南暮北 鄭太尉之渓風被人知」(移動)を本説とする。制作年などは未詳。

【関連歌】中1963

 

●長秋詠藻・中・二三九 頼輔朝臣歌合の中、七夕

織女(たなばた)のたえぬ契りをそへんとや羽をならぶる鵲の橋

【通釈】織女と彦星の比翼の誓いを一層強くしようというので、鵲は翼を並べて橋を渡すのだろうか。

【付記】鵲が翼を並べて天の川に橋を渡すという伝説を、二星の比翼の誓いに結び付けた趣向である。「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」(白氏文集・長恨歌 移動)。嘉応元年(一一六九)の刑部卿藤原頼輔が催した歌合に出詠した歌。

【関連歌】中1902

 

●長秋詠藻・中・二四七 左大将十首の題中、江上月

思ひ出でよ神代も見きや天の原空もひとつにすみの江の月

【通釈】住吉の神よ、思い出し給え。神代にもこれを見られたか。天空も海もひとつにして澄み渡る、住の江の月を。

【付記】広大な時空の中に澄む月の光。地名「住の江」に「澄み」の意を掛ける。題詞の「左大将」は藤原実定(一一三九~一一九一)。「長寛三年(一一六五)四月以前の歌林苑歌会のための歌稿を実定のもとに送ったものか」(和歌文学大系注)。続千載集入集歌。

【関連歌】上0601

 

●長秋詠藻・中・二六五 頼輔朝臣の歌合に送りし中、落葉

ふる音も袖のぬるるもかはらぬを木の葉時雨と誰か分きけん

【通釈】降る音も袖が濡れることも変わりはないのに、これは木の葉、これはと時雨と、誰が区別したのだろう。

【付記】「木の葉時雨」は落葉を時雨に譬えた成語でもあるが、ここは「木の葉・時雨」の二語である。落葉と時雨を比べ、いずれも降る音が似ており、涙と雨とで袖が濡れる点も同じだとして、区別できないものと見なした。嘉応元年(一一六九)、藤原頼輔が催した歌合。

【関連歌】上1251

 

●長秋詠藻・中・二八三 又人にかはりて

ちはやぶる宇治の橋守こととはん幾世すむべき水の流れぞ

【通釈】宇治の橋守よ、あなたに問いかけよう。この川の流れは、幾世にわたって澄み続けるのだろうか。

【本歌】「ちはやぶる宇治の橋守なれをしぞあはれとは思ふ年のへぬれば」(古今集、読人不知)

【付記】一つ前の歌の詞書に「同人宇治にて河水久澄といふ題を講ぜらるべしとて、或人のよませし時、代りて」とあり、嘉応元年(一一六九)十一月、摂政基房の宇治別業における歌会で、俊成が代作した歌と知れる。

【関連歌】中1796

 

●長秋詠藻・中・三一二 吉身村、人家盛多立松之所

君が代はよしみの村の民もみな春をまつとやいそぎたつらん

【通釈】君の御代は吉しという吉身の村の民も、みな春を待つというので、松を用意して立てているのだろうか。

【付記】仁安元年(一一六六)、大嘗会において悠紀方の歌を奉るよう命じられて作った「悠紀方御屏風六帖和歌十八首」より、門松を多く立てた「吉身村」(今の滋賀県守山市という)の屏風に添えた歌。地名の「よしみ」に「良し」の意を掛ける。

【関連歌】上1070

 

●長秋詠藻・下・三九五 御三七日の日、素服の人々などあまた参り給しに、

  御講はつるほどに、畳紙(たたうがみ)に書きつけて言ひたりし 清輔朝臣

人なみにあらぬ袂はかはらねど涙は色になりにけるかな

  長秋詠藻39六 返し、出でにければ、夕方ぞ遣はしける

墨染にあらぬ袖だにかはるなりふかき涙のほどをしらなん

【通釈】(清輔)人並でない身分の低い私の袖はいつもと変わりませんけれども、涙は紅の色になって表われてしまいましたことよ。

(俊成)あなたの墨染でない袖でさえ、色が変わってしまったとお聞きします。ましてや私の袖の涙の色がどれほど深いか、知って頂きたいものです。

【付記】永暦元年(一一六〇)十一月二十三日、鳥羽上皇の皇后美福門院が崩御し、三七忌(死後二十一日目の仏事)の日、喪服の人々が多数参り、法会が終わった時、清輔が懐紙に書きつけた歌と、俊成の返歌。墨染の喪服が紅涙によって色を変えるという趣向は、『匡房集』の「いろいろに思ひこそやれ墨染の袂も朱になれる涙を」など、いくつか先蹤がある。

【関連歌】〔下2698〕、下2698

 

●長秋詠藻・下・四二一 法師功徳品 又如浄明鏡、悉見諸色像

にごりなく浄き心に磨かれて身こそますみの鏡なりけれ

【通釈】法華経を受持すれば、心葉濁りなく清さに磨かれて、身は真澄の鏡のようになるのだった。

【付記】康治年間(西暦1142~1144年)に待賢門院の中納言(女房名)に報贈した法華経二十八品題詠の一。

【関連歌】上0298

 

●長秋詠藻・下・四三三 心経

春の花秋の紅葉のちるを見よ色はむなしき物にぞ有りける

【通釈】春の桜、秋の紅葉が散るのを見よ。美しい色や形あるものは、永続しない、はかないものであったよ。

【付記】『長秋詠藻』では康治年間(西暦1142~1144年)に待賢門院の中納言(女房名)に報贈した法華経二十八品題詠に続けて載っており、同じ頃の作か。「色即是空々即是色」(般若心経 移動)。

【関連歌】上0135、上0389、上0587

 

●長秋詠藻・下・五二一 五月雨

ふりそめていくかになりぬ鈴鹿川やそ瀬もしらぬ五月雨の空

【通釈】五月雨が降り始めて何日になっただろう。鈴鹿川は数多くの渡り瀬も判別できなくなってしまった。

【付記】「やそ瀬」は支流の浅い小川の多いさま。五月雨によって、数多いはずの渡り瀬も判別できなくなってしまったと言うのである。治承二年(一一七八)五月の『右大臣家百首』。新勅撰集に採られている。

【関連歌】上1029

 

●長秋詠藻・下・六二三 賀茂の下御社に葵つけたる人々まゐりたる所

神代よりいかに契りてみあれひく今日にあふひをかざしそめけん

【通釈】遥かな神代から、いかなる因縁があって、御阿礼を引く今日、葵をかざすようになったのだろう。

【付記】「みあれひく」とは、御阿礼木(神木の榊)にかけた綱を引くこと。文治六年(一一九〇)正月、九条兼実女任子が後鳥羽天皇に入内するに際し詠進した屏風和歌の一首。

【関連歌】上0623

 

山家集

西行(一一一八~一一九〇)の家集。自撰と推測され、成立は不詳であるが、仁安二年(一一六七)頃までに原型ができたかという。最晩年の作は含まない。

 

     

●山家集・春・二〇 雨中若菜

春雨のふる野の若菜おひぬらし濡れ濡れつまん(かたみ)()き入れ

【通釈】春雨が降る、布留野の若菜が生えたらしい。濡れながら摘もう。竹籠に腕を差し入れて。

【語釈】◇筐手貫き入れ 「筐」は竹籠。その柄に腕を差し入れて。

【関連歌】上0416、下2029

 

●山家集・春・五七 独尋山花

たれかまた花をたづねて吉野山苔ふみわくる岩つたふらん

【通釈】私以外の誰が、苔を踏み分けてゆく断崖を伝って、吉野山の花を尋ねたりするだろうか。

【付記】「『ひとり』の自負を表現し、更に同心者を希求する」(和歌文学大系注)。

【関連歌】上0624

 

●山家集・春・七七 花の歌あまたよみけるに

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

【通釈】願わくば、桜の花の咲く下で、春に死のう。釈迦入滅のその時節、二月の満月の頃に。

【語釈】◇願はくは 願うところは。望むところは。◇その如月の… 「その」は「如月の望月の頃」がほかならぬ釈迦入滅の時節であることを示す。釈迦入滅の日は二月十五日と伝わる。

【付記】いつの作とも知れない。『西行物語』などは晩年東山の双林寺に庵していた時の作とする。いずれにせよ「春死なむ」の願望が現実と化したことで、この歌は西行の生涯を象徴するかの如き一首となった。因みに西行の入寂は文治六年(一一九〇)二月十六日。我が国の陰暦二月中旬は恰も桜の盛りの季節であり、しかも十六日がまさに満月に当たった。西行往生の報を聞いた都の歌人たちは、この歌を思い合わせて一層感動を深めたのだった。なお第二句は「花のもとにて」で流布し、『古今著聞集』『西行物語』などでもこの形で伝わるが、「花のしたにて」が正しいようである。初め新古今集に採られたらしいが、切継の過程で除かれ、のち続古今集に入集した。

【関連歌】下2634

 

●山家集・春・九四 古木の桜の所々咲きたるを見て

わきて見む老木(おいき)は花もあはれなり今いくたびか春に逢ふべき

【通釈】とりわけよく見よう。老木は花もしみじみとした趣がある。この木も私も、あと幾度春に巡り逢うことができるだろう。

【参考】「身をつめば老木の花ぞあはれなる今いくとせか春に逢ふべき」(清輔集 先後関係は不明)

【付記】桜の老木に花がそこかしこ咲いているのを見て、そのさまに自身の老境の感慨を重ね合せた歌。『山家集』も『西行法師家集』も春の部に載せるが、続古今集は老年述懐歌として雑部に載せている。

【関連歌】上0632

 

●山家集・春・一五三 花歌十五首よみけるに

なにとかくあだなる春の色をしも心にふかくそめはじめけん

【通釈】どういうわけで、このように果敢ない春の色をまあ、心に深く染め始めてしまったのだろう。

【付記】『山家集』の桜花詠の末尾に置かれた歌群の一首。

【関連歌】上0633

 

●山家集・夏・一九四 ほととぎすを

時鳥いかばかりなる契りにて心つくさで人のきくらん

【通釈】時鳥と一体どれほど深い契りで結ばれている人が、心を尽くすことなくその声を聞けるのだろうか。

【関連歌】上1416

 

●山家集・夏・一九七 雨中待郭公と云ふ事を

時鳥しのぶ卯月もすぎにしをなほ声をしむ五月雨の空

【通釈】時鳥が忍び音に鳴く卯月も過ぎたのに、まだ声を惜しんでいる五月雨の空よ。

【関連歌】上1417

 

●山家集・夏・二三三 題不知

夏山の夕下風のすずしさに楢の木陰の立たまうきかな

【通釈】夏山の夕に吹く木の下風の涼しさゆえに、楢の木陰の立ち去り難いことよ。

【語釈】◇立たまうき 「立たまく憂き」の転か。「まうし」は「まほし」の対義の助動詞とも。

【関連歌】上0826

 

●山家集・秋・二六八 霧中草花

穂にいづるみ山が裾の(むら)すすき(まがき)にこめてかこふ秋霧

【通釈】花穂を出した山裾のすすきの群は、秋霧が垣根で囲うように包み隠している。

【付記】「霧の籬」に籠められた花すすきの群。

【関連歌】上0335

 

●山家集・秋・二八七 荻風払露

を鹿ふす萩さく野べの夕露をしばしもためぬ荻の上風

【通釈】牡鹿が臥す萩咲く野の夕露を、しばらくも溜めずにこぼす荻の上風よ。

【関連歌】下2131

 

●山家集・秋・二九六 人々秋歌十首よみけるに

玉にぬく露はこぼれて武蔵野の草の葉むすぶ秋の初風

【通釈】白玉を貫いたように並んでいた露はこぼれ落ちて、武蔵野の草の葉を吹いて結びつける、秋の初風よ。

【語釈】◇草の葉むすぶ 「むすぶ」は露の縁語。

【付記】吹き始めた秋風によって、貫き留めていた露はこぼれ落ちる一方、露が落ちた草の葉は風に結び付けられる。秋の野の二つの小景を上下に配し、その対照に興趣を見ている。新勅撰集入集歌。

【関連歌】上0443

 

●山家集・秋・三三〇 八月十五夜

かぞへねど今宵の月のけしきにて秋の半ばを空に知るかな

【通釈】月齢は数えていないけれども、空を見上げると、今夜の月の様子によって、仲秋十五夜であることを当て推量で知ることよ。

【語釈】◇空に知る 「空に」は「推量によって」の意が掛かる。

【付記】『山家集』の同題七首のうちの第二首。

【関連歌】上0549

 

●山家集・秋・三三三 八月十五夜

うちつけにまた来む秋の今宵まで月ゆゑ惜しくなる命かな

【通釈】再び巡り来る中秋明月の今宵まではと、ふと月ゆえに惜しくなるわが命であるよ。

【語釈】◇うちつけに 唐突に。だしぬけに。「惜しくなる」に掛かる。

【付記】『山家集』の同題七首のうちの第五首。『西行法師家集』では「月」と題した二十八首の歌群のうち。

【関連歌】上0010

 

●山家集・秋・四六〇 故郷虫

草ふかみ分け入りてとふ人もあれやふりゆく跡の鈴虫の声

【付記】草深く荒れた古里の屋敷跡には人も訪れず、鈴虫が鳴くばかり。

【関連歌】員外2965

 

●山家集・秋・四八六 秋のすゑに法輪にこもりてよめる

我がものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家居せしより

【通釈】秋の木々の梢を独り占めすると思うことよ。小倉の里に庵を結んでからというもの。

【付記】嵐山の法輪寺に籠もっていた時に詠んだという歌六首のうち。

【関連歌】上1295

 

●山家集・冬・五二五 雪中鷹狩

ふる雪に鳥立ちも見えずうづもれてとりどころなきみ狩野の原

【通釈】降り積もる雪によって鳥立ちも埋れて見えなくなり、獲物をとる場所がない禁野の原よ。

【語釈】◇とりどころ 「獲物をとる所」の意に「取柄」の意を掛けたのであろう。

【関連歌】下2374

 

●山家集・冬・五四一 雪歌よみけるに

卯の花のここちこそすれ山里の垣根の柴をうづむ白雪

【通釈】卯の花のような気持がすることよ。山里の垣根の雑木を埋めている白雪は。

【関連歌】上1023

 

●山家集・恋・五九七 寄花恋

つれもなき人に見せばや桜花風にしたがふ心よわさを

【通釈】私に冷たくあたる人に見せたいものだ。桜の花が、風のまにまに散る心弱さを。

【付記】風に「したが」ってたやすく散る花に寄せて、言い寄っても折れてくれない恋人を恨む。

【参考】「秋の夜に雨ときこえてふる物は風にしたがふ紅葉なりけり」(拾遺集、貫之)

【関連歌】上0011

 

●山家集・恋・六四三 月

涙ゆゑ月は曇れる月なれば泣かれぬ折ぞ晴れ間なりける

【通釈】涙のせいで月は曇っているので、泣かずにいる折が晴れ間なのであった。

【関連歌】上0220

 

●山家集・恋・六四七 月

ともすれば月すむ空にあくがるる心のはてを知るよしもがな

【通釈】ともすると月が澄む空に心は憧れてさ迷い出てしまう。この心の果てはどうなるのか、知る手立てがほしいものだ。

【付記】恋の部の「月」と題された歌群にあり、月に寄せて恋心を詠むか。

【関連歌】員外2839、員外3154

 

●山家集・恋・六九七 恋

播磨路や心のすまに関すゑていかで我が身の恋をとどめん

【通釈】播磨路では須磨に関を据えて人を留めているが、私は心の隅に関を据えて、どうやって我が身の恋を留めようか。

【語釈】◇心のすま 「すま」は「(すま)」「須磨」の掛詞。

【付記】須磨の関に寄せて、恋心を何とか押し止めたいとの願いを詠む。山家集中巻の恋部、「恋」と題された大歌群の一首。

【関連歌】上0884

 

●山家集・雑・七八一 近衛院の御墓に人々ぐしてまゐりたりけるに、露のふかかりければ

みがかれし玉のすみかを露ふかき野辺にうつして見るぞかなしき

【通釈】玉のように磨かれた美しい御殿から、露が深く置いた野辺へと移して、天皇のお住いを拝見するのが悲しい。

【付記】近衛天皇が十七歳で夭折したのは久寿二年(一一五五)秋。船岡に葬送し、火葬塚を築いた。その墓に詣でた時の作かという(和歌文学大系注)。

【関連歌】上0196

 

●山家集・雑・八八三 提婆品(だいばぼん)

いさぎよき玉を心にみがき出でていはけなき身にさとりをぞ得し

【通釈】竜女は汚れのない玉を心のうちに磨き育てて、幼い身で悟りを得たのだ。

【付記】法華経の提婆品(提婆達多品)、幼い竜女が「宝珠」を仏に献上し直ちに成仏したとの条に拠る。

【関連歌】上0792

 

●山家集・雑・八九四 心経

なにごともむなしき(のり)の心にて罪ある身とはつゆも思はじ

【通釈】何ごとも虚しい(色即是空)と説く般若心経の心を受持していれば、自分を罪のある身とは少しも思うまい。

【語釈】◇なにごともむなしき法 「色即是空」を説く法、すなわち般若心経。

【付記】般若心経を題に詠む。

【関連歌】員外3293

 

●山家集・雑・一〇五四 俊恵、天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐりて歌よみけるに具して

住吉の松が根あらふ波の音をこずゑにかくる沖つ潮風

【通釈】住吉の松の根を洗う波の音を、梢に掛けるほど激しく吹く、沖からの潮風よ。

【付記】四天王寺に籠っていた俊恵が、人々を伴って住吉に参って歌を詠んだ時、西行も従って詠んだ歌。続拾遺集の神祇歌に採られている。

【関連歌】中1762、下2701

 

●山家集・雑・一〇六二 春立つ日よみける

なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山

【通釈】春になったと聞いた日から、なんとなく、心にかかる吉野山である。

【語釈】◇み吉野の山 「み吉野」は吉野の美称。大和国の歌枕。奈良県の吉野地方の山々。桜の名所。

【付記】『山家心中集』では巻頭歌。当時の和歌の常識からすると、立春の日に心を寄せるべき風物は梅や鶯。ところが西行は既に吉野の桜に思いを馳せているのである。『西行法師家集』の吉野を詠んだ歌群の中には「春ごとに花のさかりに逢ひ来つつ思ひ出おほき我が身なりけり」(一本初句「春をへて」)という歌があり、西行が毎春のように吉野を訪れていたことが知られる。

【関連歌】上0103

 

●山家集・雑・一一〇四 大峰の深仙(しんせん)と申す所にて、月を見てよみける

深き山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし

【通釈】深山に澄み輝いていた月の光――あの光を見ることがなかったならば、思い出もない我が身であったろう。

【語釈】◇大峰の深仙 大峰は吉野から熊野へと連なる山脈。深仙は釈迦ヶ岳と大日岳の間にある行場。◇深き山 地名「深仙」を掛けて言う。

【付記】大峰の厳しい修行場において眺めた月の美しさとは、修行によって至り着いた、澄み切った境地の象徴でもあろう。それに比べれば、現世の楽しい思い出など物の数ではない、というのである。上句を「ふかき山の峰にすみける月見ずば」とする本もある。『山家集』では雑の部にあるが、風雅集では秋歌中の巻に収め、詞書は「月をよめる」。

【関連歌】上0682

 

●山家集・雑・一一六〇 忍西入道、西山の麓にすみけるに、秋の花いかにおもしろからんとゆかしう、と申し遣はしける返事に、色々の花を折り集めて

鹿のねや心ならねば留まるらんさらでは野べをみな見するかな

  かへし

鹿のたつ野べの錦のきりはしは残りおほかる心ちこそすれ

【通釈】(忍西)鹿の鳴き声は思うにまかせないので、今も野に留まっていることでしょう。それ以外は、野の美しい風物を全てあなたにお見せすることですよ。

(西行)鹿が立って鳴いていた野の、美しい錦の切れ端を贈って頂いたのですね。鹿の声が聞けないのは、ひどく心残りです。

【付記】西山の麓(嵯峨野あたりか)に住んでいた忍西に、西行が「秋の花がどれほど面白いでしょう」と手紙を送ると、その返事に、忍西は野の花々と一緒に歌を贈って来た。鹿の音以外は「野べをみな見する」と。対して西行は、花々を「錦のきれはし」と言って(やや皮肉を籠めつつ)賞美し、実際に見聞きすることが出来ず残念だと応じた。「鹿のたつ」の「たつ」には「裁つ」意が掛かり、鹿が立っているところだけ錦が裁ち切れている、といった情景も浮ぶように作られている。

【関連歌】中2009

 

●山家集・雑・一一九一 内に貝合せせんとせさせ給ひけるに、人にかはりて

風ふけば花さく波の折るたびに桜貝よる三島江の浦

【通釈】風が吹くと、白波の花が咲く――その波が折り畳むように寄せるたび、桜貝が打ち寄せる三島江の浦よ。

【語釈】◇波の折る 「折る」は花の縁語。

【関連歌】上1208

 

●山家集・雑・一二三九 左京大夫俊成、歌あつめらるると聞きて、歌つかはすとて

花ならぬ言の葉なれどおのづから色もやあると君ひろはなん

【通釈】美しい花ではない言の葉(歌)ですけれど、ひょっとすると風情のある歌も混じっていると、貴方が拾い取って下さるでしょうか。

【付記】俊成が千載集の編者になったことを聞いて、歌を贈った折に詠んだ歌。俊成の返歌は「世をすてて入りにし道の言の葉ぞあはれも深き色もみえける」。俊成の返歌と共に続拾遺集に採られている。

【関連歌】下2586

 

西行法師家集

山家集とは別系統の西行の家集。「異本山家集」とも称される。

●西行法師家集・春・七二 那智に籠りたりけるに、花のさかりに出でける人につけて遣しける

今の我も昔の人も花みてん心の色はかはらじものを

【通釈】今の私も、昔の人も、花を見る時の心の色は変りはしないのだった。

【語釈】◇花みてん心 花を見るだろう時の心。助動詞「て」(「つ」の未然形)と「む」はいずれも仮定の用法。

【付記】那智に籠って修行していた時、花の盛りに那智を出て行った人に届けさせたという歌四十五首のうちの一首。

【関連歌】上0636

 

●西行法師家集・秋・一六七 はじめの秋の比、鳴尾と申す所にて、松風の音を聞きて

おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風

【通釈】概して悩みごとのない人に対してさえ、物の哀れを感じる心を起こさせる、秋の初風よ。

【付記】摂津国鳴尾(兵庫県西宮市に鳴尾の地名が残る)で松風の音を聞いて詠んだという歌二首のうち第二首。もう一首は「つねよりも秋になるをの松風はわきて身にしむ物にぞありける」。

【関連歌】上1126

 

●西行法師家集・雑・六三八 鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をもたすけめ

【通釈】いくら惜しんだとて、惜しみとおせるこの世でしょうか。生きている間に身を捨てて出家してこそ、我が身を救い、往生することもできましょう。

【付記】保延六年(一一四〇)、北面の武士として仕えた鳥羽院に、出家による辞職を申し出た際の歌。西行二十三歳。『山家集』には見えない。玉葉集に入撰。初句「をしむとも」、結句「身をばたすけめ」「身をばたのまめ」とする本もある。

【関連歌】上0172

 

●西行法師家集・雑・六四〇 前大僧正慈鎮無動寺に住み侍りけるに、申し遣しける

いとどいかに山を出でじと思ふらん心の月を独りすまして

  返し 慈鎮

憂き身こそなほ山陰にしづめども心にうかぶ月を見せばや

【通釈】ますますどんなにか山を出るまいと思っておられるでしょうか。独り心の月を澄ますように修行に励まれて。

拙い我が身はまだ山陰に沈んでおりますが、心に浮かぶ月(煩悩を脱したこと)をお見せしたいものです。

【付記】無動寺に住んでいた慈鎮(慈円)のもとに贈った西行の歌と、これに答えた慈鎮の歌。

【関連歌】上0656

 

林下集

後徳大寺実定(一一三九~一一九一)の家集。成立は治承末年頃(一一八〇頃)、自撰かと言う(新編国歌大観解題)。

●林下集・三九 花の歌とてよめる

桜花にほふも散るもかはらぬにながむる人ぞ昔にも似ぬ

【通釈】桜の花は咲き匂うのも散るのも昔と変わらないのに、眺める人は昔と似ても似つかない。

【付記】『白氏文集』の「逐処花皆好 随年皃自衰」(移動)を踏まえる。

【関連歌】員外3204

 

登蓮法師集

登蓮法師は生没年・出自等未詳。歌人としては、俊恵の歌林苑の会衆の一人として活動した。家集『蛍雪集』があったらしいが、散逸した。伝存する『登蓮法師集』は『中古六歌仙』収録の登蓮作歌を分離独立させたもの。中古六歌仙のほか、『歌仙落書』でも歌仙の一人とされている。

●登蓮法師集・六 水辺晩風

難波潟蘆の葉ずゑに風吹きて蛍なみよる夕まぐれかな

【通釈】難波潟の蘆の葉末に風が吹いて、波が打ち寄せるように蛍が揃って一方に引き寄せられる、夕暮れ時であるよ。

【語釈】◇なみよる 並み寄る・波寄るの掛詞であろう。

【付記】『中古六歌仙』に登蓮の代表作として採られている。

【関連歌】上0530

 

二条院讃岐集

二条天皇や宜秋門院任子に仕えた二条院讃岐(生没年未詳)の家集。賀茂重保の勧進による寿永百首家集の一つと考えられ(新編国歌大観解題)、寿永元年(一一八二)頃の成立と思われる。

●二条院讃岐集・二四 旅宿のほととぎす

声ならす信太の杜のほととぎすいつ里なれて宿に鳴くらん

【通釈】鳴き方を練習している信太の杜の時鳥よ。いつになったら里に馴れて、我が家で鳴くのだろう。

【関連歌】中1791

 

殷富門院大輔集

後白河院皇女斎宮亮子内親王(のちの殷富門院)に出仕した女房歌人、殷富門院大輔の家集。「成立年次は文治元、二年(一一八五~六)頃と推定されている」(新編国歌大観解題)。

●殷富門院大輔集・七 春の歌に

みがくれてすだく(かはづ)の声ながらまかせてけりな井手のを山田

【通釈】水に隠れて鳴き騷ぐ蛙の声と一緒に、井手の山田に水を引き入れたのだった。

【参考】「みがくれてすだくかはづのもろ声にさわぎぞわたる井手の川波」(後拾遺集、良暹)

【付記】寿永元年(一一八二)、賀茂重保の勧進による寿永百首の一。風雅集に入集。

【関連歌】上0771

 

●殷富門院大輔集・九 春の歌に

うき世とは思ひながらにすむものを心づよくも帰る雁かな

【通釈】辛い浮世とは思いながらも住んでいるのに、非情にも故郷に帰る雁であるよ。

【付記】「心づよく」は「気丈にも」と讃める意にもなるが、ここは非情さを咎める心であろう。

【関連歌】上00150

 

玄玉和歌集

「玄玉集の成立は建久二~三年(一一九一~二)頃と推定され、撰者には隆寛・上覚説が出ているが確定を見ていない」(新編国歌大観解題)。全七巻、神祇・天地上・同下・時節上・同下・草樹上・同下という構成。

●玄玉和歌集・草樹歌上・四六七 左中将兼宗朝臣の家の歌合に、同じ心を  左少将定家朝臣

梅のはな霞のほかの雲ゐまで匂ひにこむる春の山風

【通釈】梅の花に春の山風が吹き、霞の届かない空までも芳しい匂いのうちに籠めている。

【付記】中山兼宗(一一六三~一二四二)の家の歌合で「梅」を題に詠んだ歌。兼宗が左少将であったのは治承三年(一一七九)正月から文治二年(一一八六)三月まで。冷泉為臣編『藤原定家全歌集』未収録。

【関連歌】中1912

 

●玄玉和歌集・草樹歌上・四七九 梅花薫風といふ心をよめる 前大僧正

梅が香のかをるあたりは窓のうちにあつむる雪を花かとぞみる

【通釈】梅の香のするあたりでは、窓の内に集めた雪を花かと見るのである。

【参考】「蒙求」孫康映雪 車胤聚蛍(移動

【付記】作者は覚忠(一一一八~一一七七)、忠通男。天台座主。千載集初出歌人。

【関連歌】員外2803

 

●玄玉和歌集・草樹歌上・五六五 山寺花と云ふ心を 法橋宗円

初瀬山木ずゑの花にひびききて入相の鐘の声かをるなり

【通釈】初瀬山の梢の花に鐘が響いて来る。その声にも花の薫がするようだ。

【参考】「山里の春の夕暮きて見れば入相の鐘に花ぞ散りける」(能因法師集・新古今集)

【付記】作者の宗円(一一六〇~没年未詳)は熊野別当法眼。千載集初出歌人。

【関連歌】下2062

 

長方集

権中納言顕長の子、権中納言長方(一一三九~一一九一)の家集。長方の母は藤原俊忠の娘なので、定家の従兄にあたる。

●長方集・四六 春駒

春くれば沢べの真菰つのぐみてなづみし駒も引きかへてみゆ

【通釈】春が来たので、沢辺の真菰は芽ぐみ、以前はなかなか沢へ行きたがらなかった馬も、すっかり様子が変わって見える。

【付記】好物の真菰が芽ぐむ春、冬から一変して沢へと勇みゆく馬。「引きかへて」は「すっかり変わって」の意であるが、「引き」には「牽き」の意が掛かり「駒」の縁語。

【関連歌】中1785

 

●長方集・一二七 霜

冬の夜は玉の(うてな)に霜さえて雲井にたづの一声ぞする

【通釈】冬の夜は美しい御殿に霜が冴え冴えと置いて、空に鶴の一声が聞こえる。

【付記】もっぱら和漢朗詠集の「瑶台霜満 一声之玄鶴唳天」(移動)によった発想である。

【関連歌】員外2982

 

式子内親王集

式子内親王(一一四九~一二〇一)の御集。三種の百首歌に、六十首前後の歌を補遺した、没後他撰の集である。『正治初度百首』所載の式子の歌については同百首の項目を見られたい。

●式子内親王集・四八 秋

おしこめて秋のあはれに沈むかな麓の里の夕霧のそこ

【通釈】麓の里に夕霧がたちこめる。秋のあわれな情趣をその中にすべて押し包むようにして。(この里も私も、)その霧の底深くに、沈み込んでゆくのだ。

【付記】「前小斎院御百首」。御集に収められた最初の百首歌の一首。建久五年(一一九四)五月二日以前の作。

【関連歌】中1625

 

●式子内親王集・九〇 雑

さかづきに春の涙をそそきける昔に似たる旅のまとゐに

【通釈】盃に春の涙を落としてしまった。昔を思い出させる、旅中の車座にあって。

【語釈】◇春の涙 本説を踏まえ「春の盃に涙をそそき」と言うところを、「盃に春の涙を…」と言い換えたもの。◇旅のまとゐ 旅の途上、一行の者が野に円座を組んで酒宴をしている情景を思い浮かべるべきところ。

【本説】「酔悲灑涙春盃裏」(白氏文集巻十七 移動
「御かはらけまゐりて、酔ひの悲しび涙そそく春の盃のうちともろ声に誦じたまふ。御供の人も涙をながす。おのがじしはつかなる別れ惜しむべかめり」(源氏物語・須磨 移動

【付記】「前小斎院御百首」。建久五年(一一九四)五月二日以前の作。羇旅歌として仮構した歌であろうが、懐古の情が主題となっている。

【関連歌】中1626

 

●式子内親王集・一〇一 又春

霞とも花ともいはじ春の色むなしき空にまづしるきかな

【通釈】霞とも花とも言うまい。春になったけしきは、これといって何もない空にはっきりと感じられることよ。

【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の冒頭。百首の後に建久五年(一一九四)五月二日の日付を付す。

【関連歌】中1863

 

●式子内親王集・一一〇 又春

この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに

【通釈】この世にある限りは忘れない春の面影よ。朧月夜の花が、ほのかな光に浮かんで――。

【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の一首。百首の後に建久五年(一一九四)五月二日の日付を付す。

【関連歌】中1587

 

●式子内親王集・一五七 冬

神無月風にまかする紅葉ばに涙あらそふ深山辺の里

【通釈】神無月、風にまかせて散る紅葉に対し、涙が争うようにこぼれる深山辺の里よ。

【付記】御集に収められた二つ目の百首歌の一。百首の後に建久五年(一一九四)五月二日の日付を付す。

【関連歌】中1704

 

寂蓮無題百首

寂蓮(生年未詳~一二〇二)が堀河百首題によって詠んだ百首歌。文治初年(一一八五)頃、同五年(一一八九)頃の詠とする説がある(新編国歌大観解題)。

●寂蓮無題百首・二三 

久方のかつらにかくる葵草きよき光をちりにまがへて

【通釈】諸鬘の桂の枝に懸けた葵草は、塵に混じって清らかな光を映している。

【付記】「きよき光をちりにまがへて」は和光同塵を暗示する。賀茂大明神の本地は釈迦如来・観世音菩薩とされた。堀河題によった百首歌の一首で、題は記されていないが「葵」である。

【関連歌】中1998

 

公衡集

藤原公衡(一一五八~一一九三)が建久元年(一一九〇)に詠んだ二つの速詠百首「一字百首」「一句百首」を収めた歌集。公衡については人名辞典、『公衡百首』を参照されたい。

●公衡集・一四三 勒一句詠百首和歌 夏

いとどしく宿ぞすみうき蚊遣火のけぶりたちそふ夏の夕暮

【通釈】いよいよ甚だしく我が草庵は住みづらい。蚊遣火の煙が加わる夏の夕暮よ。

【付記】蚊遣火の煙が立ち添って、いよいよ住み憂き草庵。建久元年(一一九〇)、定家と前後して詠んだ「一句百首」。

【関連歌】中1614

 

隆信集(元久本)

藤原隆信(一一四二~一二〇五)の家集。「隆信出家後二年目で、死の前年でもある元久元年の撰と考えられる」(新編国歌大観解題)。隆信は定家の異父兄。

●隆信集・恋四・六三二 女のもとへ「死ぬべき心ちなんする」と言ひやりたりし返事に、

  「恋には身をもかふるものぞ」など言ひたりしかば、又おしかへして

恋ひ死なむ身ををしむにはあらねどもおなじ世をだにわかれずもがな

【通釈】恋い死にするであろう我が身を惜しむのではないけれども、せめてあなたと同じ世からは別れたくないものだ。

【付記】女のもとに「死んでしまいそうな気持がします」と言い遣ると、その返事に「恋には命も引き換えにするものです」とあったので、詠んだという歌。命を惜しむのではない、せめてあなたと同じ世から別れたくないのだ、と訴えたのである。女の返しは「恋ひ死ぬときかば哀れもかけてましなさけなき世にながらへんとや」。

【関連歌】下2539

 

秋篠月清集

藤原良経(一一六九~一二〇六)の自撰家集。正しくは「式部史生秋篠月清集」。良経の自筆本から定家等が書写した本が伝わる。

●秋篠月清集・冬・一三二二 野亭深雪

野中なる葦のまろ屋に秋すぎてかたぶく軒に雪おもるなり

【通釈】秋が過ぎて、野中の葦のまろ屋の傾いた軒に雪が重みを増している。

【付記】「葦のまろ屋」は葦葺きの仮小屋。「まろ屋」とは、形が丸みを帯びている小屋とも、葦を「まる」のまま用いた小屋とも言う。巻上冬部。制作年等は未詳。

【関連歌】下2359

 

●秋篠月清集・祝・一三九九 祝歌とてよみける

おのづからをさまれる世やきこゆらむはかなくすさむ山人の歌

【通釈】泰平に治まっている御代であると、それを聞く人はおのずと感じているだろうか。とりとめもなく口ずさむ、木樵りの歌よ。

【付記】「おのづから」は「自然と」の意。「きこゆ」にかかる。「山人」は木樵り。木樵りは夕暮仕事帰りに歌を歌う慣わしがあった。「声たかくあそぶなるかな足曳の山人いまぞ帰るべらなる」(貫之集)。その声に世の泰平を聞いている。撃壌歌の故事などが発想の根にあろう。制作年など未詳。

【関連歌】下2166

 

明日香井集

飛鳥井雅経(一一七〇~一二二一)の家集。永仁二年(一二九四)春頃、雅経の孫雅有によってに編まれたもの。

●明日香井集・雑・一四九六 小礒杜を

下草も老曾の杜の霜をへてわが身のうへとなりにけるかな

【通釈】老曾の杜の下草も、幾度も霜に遭って、下積みを続ける私の身の上と同じになったのだな。

【付記】霜に遭った老曾の杜の下草を、下積みの身になぞらえる。『明日香井集』の排列によれば東国へ下った時の歌らしい。下の関連歌との先後関係は不明である。

【関連歌】下2254

 

拾玉集

慈円の家集。貞和二年(一三四六)、尊円親王の編。五巻本と七巻本がある。

●拾玉集・第一・八一四 蛙鳴苗代

春の田のなはしろ水をまかすればすだく(かはづ)の声ぞながるる

【通釈】春の田の苗代水を引き入れると、啼き騒ぐ蛙の声が流れてゆく。

【付記】文治三年(一一八七)十一月二十一日、良経より題を給わり、寂蓮と共に詠んだという百首の一。全てが四字題の百首詠であった。風雅集に採られている。

【関連歌】上0771

 

●拾玉集・第四・四二八五 霞

春がすみ富士のけぶりに宿かりて幾重の山をへだてきぬらむ

【通釈】春霞や富士の噴煙に宿を借りて、幾重の山を隔てて来たことだろう。

【付記】遥かに旅してきた人の感慨。建久末年頃に成ったとされる『慈鎮和尚歌合』にも採られた歌。

 

壬二集

藤原家隆(一一五八~一二三七)の家集。『壬二(みに)集』の名は家隆の通称「壬生二品」に拠る。『玉吟集』とも。後世の他撰。

●壬二集五七 初心百首 堀河百首題 冬


淡路島はるかに見つるうき雲も須磨の関屋に時雨きにけり

【通釈】さっきまで淡路島の上空遥かに見えていた浮雲も、みるみる須磨の関に近づいて、関屋の板廂に音立てて時雨を降らせたのだった。

【付記】記録に残る限りでは家隆の最初の百首歌で、堀河百首題に従った組題百首。文治年間の作か。題は「時雨」。

【関連歌】上1253

 

●壬二集・上・八六 初心百首 堀河百首題 雑

み吉野や姨捨山よいかにして月と花とに契りそめけん

【通釈】吉野と姨捨山よ。そもそも如何にして月と花とに契りを結んだのだろうか。

【付記】吉野・姨捨山はそれぞれ花・月の名所。慈円の『早率露胆百首』に対応した作かと言い(久保田淳『藤原家隆集とその研究』)、とすれば文治五年(一一八九)頃の作になる。

【関連歌】〔下2368〕

 

●壬二集・上・一四五 後度百首 秋

嵐ふく楢の葉分につたひきて袖にしぐるるさを鹿の声

【通釈】嵐が楢の葉と葉の間を分けるように吹いて、私の袖に時雨を降らすように鹿の声を伝えて来る。

【付記】『後度百首』は文治五年(一一八九)頃の『初心百首』に続いて詠まれた、家隆初期の百首。

【関連歌】員外3070

 

●壬二集・上・九八六 百首文治三年十一月 冬

山里は垣根のしとと人なれて雪降りにけり谷のほそ道

【通釈】山里では、垣根に止まった巫鳥(しとど)が人に馴れているばかりで、雪が降り積もった谷の細道をやって来る人はない。

【付記】雪の山里の孤独な暮らしぶり。文治三年(一一八七)、定家と競詠した『閑居百首』。

【関連歌】上0759

 

●壬二集・中・一五八二 九条前内大臣家百首 遠村秋夕

名もしるし雲も一むらかかりけり誰が夕暮の秋の山もと

【通釈】誰が住んでいるのだろう、秋の夕暮、山の麓にひとかたまりの家があって、上空には雲もひとむらかかっている。そんな景色を眺めていると、秋夕(せきしゆう)は哀れ深いと皆が()めるのも尤もだと思われる。

【付記】「名もしるし」は、情趣が深いとされた「秋の夕暮」の誉れがはっきり現われている、ほどの意。誰が住むのか山の麓にひとかたまりの家があって、上空には雲もひとむらかかっている。そんな景色を眺めていると、秋の夕暮を皆が讃めるのも尤もだと言うのである。制作年未詳。九条前内大臣は藤原基家(一二〇三~一二八〇)であろう。基家が内大臣を辞職したのは嘉禎四年(一二三八)六月。

【関連歌】下2075

 

後鳥羽院御集

後鳥羽院(一一八〇~一二三九)の御集。隠岐での作も含み、生涯の主要作を集成する。成立に関しては詳細不明であるが、藤原家隆の関与があったかと見られている。

●後鳥羽院御集・一三二三 同二年三月日吉卅首御会

  春

暁のこれもならひの別れぞとつれなく見えてかへる雁がね

【通釈】これもまた暁の恒例の別れだと言うように、つれない様子に見えて帰ってゆく雁よ。

【付記】後朝の別れの時なので、「ならひの別れ」だと雁も暁に帰ってゆく。「つれなく見えて」は「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」(古今集、忠岑 移動)による。元久二年(一二〇五)三月、日吉社に奉納した三十首歌。

【関連歌】下2051

 


公開日:2013年01月30日

最終更新日:2013年01月30日