以下、漢籍本文は主として明治書院の新釈漢文大系による。旧字を通用字に改めるなどした。
采采巻耳 不盈頃筐 嗟我懐人 寘彼周行
陟彼崔嵬 我馬虺隤 我姑酌彼金罍 維以不永懐
陟彼高岡 我馬玄黄 我姑酌彼兕觥 維以不永傷
陟彼砠矣 我馬瘏矣 我僕痡矣 云何吁矣
【訓読】巻耳を采り采るも 頃筐に盈たず 嗟我人を懐ひて 彼の周行に寘く
彼の崔嵬に陟れば 我が馬虺隤たり 我姑らく彼の金罍に酌み 維れを以て永く懐はざらん
彼の高岡に陟れば 我が馬玄黄たり 我姑らく彼の兕觥に酌み 維れを以て永く傷まざらん
彼の砠に陟れば 我が馬瘏めり 我が僕痡めり 云何せん 吁
【通釈】〔女〕はこべを摘んでも摘んでも、籠に一杯にならない。ああ私は旅にある人を思って、摘んだ草を大道のほとりに置く。
〔男〕険しい山に登ると、私の馬は疲れ果てた。しばらく酒壺に酒を酌んで飲み、いつまでも思い悩むまい。
高い岡に登ると、私の馬は疲れて毛も色褪せた。しばらく酒器に酒を酌んで飲み、いつまでも悲しむまい。
岩山に登ると、私の馬は病み疲れた。私の供人は病み苦しむ。ああどうすればよいのか。
【語釈】◇巻耳 はこべの類と言う。◇頃筐 一方が低いかご。草摘みなどに用いる。◇周行 周の都に通ずる大道。「巻耳を摘み終えてそれを周行におくのは、その道の果てにある遠人への魂振りのためである」(白川静『詩経』)。◇崔嵬 石のある険しい山。◇虺隤 病み疲れたさま。◇金罍 金属製の壺型の酒器。◇玄黄 馬の毛が疲労のため褪せたさま。◇兕觥 流し口のある酒器。
【付記】女の草摘み歌と、男の登高飲酒の歌の「互唱の形式をもつ歌謡」(白川静『詩経』)。同書によれば、「草摘みは会うための予祝であり、また遠くにある思う人への魂振りとしての行為でもあった」「登高飲酒の俗は、のち九月九日重陽の節句の行事となった。遠く旅路にある人びとは、この日附近の小高い山に登って、頭にはぐみをかざし、菊酒を酌み、遥かに故郷を望んで魂振りをする」。
【関連歌】上0398、中1624
●詩経 小雅 鶴鳴(第二連)
鶴鳴于九皐 声聞于天 魚在于渚 或潜在淵 楽彼之園 爰有樹檀 其下維穀 佗山之石 可以攻玉
【訓読】鶴九皐に鳴き 声天に聞こゆ 魚は渚に在り 或いは潛んで淵に在り 楽しきかな彼の園 爰に樹檀有り 其の下これ穀 佗山の石は 以て玉を攻むべし
【通釈】鶴が奧深い沢で鳴くと、その声は天にまで聞こえる。魚は渚にいることもあれば、潜んで淵にいることもある。かの楽しい園よ、立派な檀の木があり、その下には丈の低い穀がある。よその山の質の悪い石でも、玉を磨くのに役立てることができる。
【補記】「鶴鳴于九皐 声聞于天」は、深く身を隠しても、賢人の名声はおのずと広く世間に知れ渡ることの例えとされる。和歌などで沢辺の鶴の鳴き声に不遇の思いを託したのはこれに由来するようである。また「佗山之石」の句は諺「他山の石」のもととなった。
【関連歌】上993、中1577
●論語 為政編 一
子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之。
【訓読】子の曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬へば北辰の其の所に居て衆星のこれに共ふがごとし。
【関連歌】上0703、上1189
●礼記巻六 月令
東風解凍、蟄虫始振、魚上冰、獺祭魚、鴻雁来。
【訓読】東風凍を解き、蟄虫始めて振き、魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る。
【付記】「月令」(「がつりょう」または「げつれい」と読む)は一年間の暦や恒例行事、季節の変化を月順に述べたもの。『呂氏春秋』の十二紀とほぼ同じ記述である。引用部分はその冒頭、孟春之月(旧暦正月)における自然の変化の特徴を述べた部分である。「東風解凍」を踏まえた和歌は夥しい数に上る。
【関連歌】下2026、員外3198
●荘子 斉物論編 第二 昔者荘周夢為胡蝶
昔者、莊周、夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与、不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
【訓読】昔者、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら喩みて志に適ふか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此れをこれ物化と謂ふ。
【語釈】◇栩栩然 喜び遊ぶさま。◇蘧蘧然 はっと驚くさま。「明確にはっきりとしたさま」の意ともいう。◇物化 物の変化。荘周と蝶のように、物は別の物へと変化するが、それは現象的なことに過ぎず、その区別は絶対的なものではない。人であろうと蝶であろうと《おのれ》であることに変わりはないからである。氷になろうが水蒸気になろうが水が《水》であることに変わりはないように。
【付記】『荘子』内篇斉物論編の十三、「荘周の夢」「胡蝶の夢」として名高い寓話の全文を引用した。物象の分別が如何に不確実なものであるかを説き、万物斉一の理を明かしている。『摩訶止観』に「荘周夢為胡蝶、翔翔百年、悟知非蝶」と引かれ、これと併せて我が国では夢と現実の区別のつけがたさ、あるいは人生のはかなさの寓話として受け取られる傾向が強かった。この話を踏まえた和歌は「ももとせは花にやどりて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞありける」(詞花集三七八、匡房)を始め夥しい。
【関連歌】員外3558
●韓非子 説林上 第二十二
管仲隰朋従桓公伐孤竹、春往冬返、迷惑失道。管仲曰、老馬之智可用也。乃放老馬而随之、遂得道。
【訓読】管仲・隰朋、桓公に従ひて孤竹を伐ち、春往きて冬反るに、迷惑して道を失ふ。管仲曰く、老馬の智用ふ可しと。乃ち老馬を放ちて之に随ひ、遂に道を得たり。
【付記】狐竹の地を征伐した管仲と隰朋が冬に帰って来ると雪で道に迷った。管仲が老馬の智恵を用いることを提案し、老馬を放って前を行かせ、これに付いて行くと、とうとう道を得ることが出来たという。諺「老馬之智」「老馬識途」のもととなった話である。
【関連歌】上0017、上0415
●史記 晋世家第九
重耳謂其妻曰、待我二十五年不来、乃嫁。其妻笑曰、犂二十五年、吾冢上柏大矣。雖然妾待子。重耳居狄凡十二年而去。
【訓読】重耳其の妻に謂ひて曰く、「我を待ちて二十五年来ずは、乃ち嫁げ」と。其の妻笑ひて曰く「二十五年に犂ばば、吾が冢の上の柏大ならん。然りと雖も、妾子を待つ」。重耳狄に居して凡そ十二年、而して去る。
【付記】のちの晋文公重耳は君位継承争いを巡って命を狙われたため、母の出身地である白狄に亡命し、そこで赤狄族の娘叔隗を娶った。のち、白狄にも刺客の手が迫ったことを知った重耳は、斉に身を寄せる決心をした。白狄を離れるに際し、重耳は自分が戻らなければ再婚せよと妻に言うが、妻はいつまでも夫を待つと答えた。
【関連歌】上0887
●淮南子 巻六 覧冥訓
魯陽公与韓構難。戦酣日暮。援戈而撝之、日為之反三舍
【訓読】魯陽公、韓と難を構ふ。戦酣にして日暮る。戈を援きて之を撝けば、日之が為に反ること三舍なり
【語釈】◇三舎 三十回。
【付記】人の誠意が天に通じることを説いた一節。
【関連歌】上0215
●漢書 巻第二十四 蘇武伝
単于愈益欲降之、乃幽武置大窖中、絶不飲食。天雨雪、武臥齧雪与旃毛并咽之、数日不死、匈奴以為神。(中略)武留匈奴凡十九歳。始以強壯出、及還、須髪尽白。
【訓読】単于 愈 益 之を降さんと欲し、乃ち武を幽して大窖の中に置き、絶えて飲食せず。天より雪雨れば、武臥して雪を齧り、旃毛と并せて之を咽む。数日死なず、匈奴以て神と為す。(中略)武の匈奴に留まること凡そ十九歳。始め強壮を以て出で、還るに及び、須髪 尽く白し。
【付記】匈奴によって捕えられ、帰順を拒んで幽閉された蘇武が生き延びる場面と、十九年を経て漢に帰還した場面を抄出した。
【関連歌】上0397
東晋の干宝(生没年未詳)作の怪奇小説集。本文はインターネット上の電子テキストの幾つかを参考に作成したものである。
●捜神記 巻十一 相思樹
宋康王舍人韓憑娶妻何氏。美、康王奪之。憑怨、王囚之、論為城旦。妻密遺憑書、繆其辞曰、其雨淫淫、河大水深、日出当心。既而王得其書。以示左右、左右莫解其意。臣蘇賀対曰、其雨淫淫、言愁且思也。河大水深、不得往来也。日出当心、心有死志也。俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣、王与之登台、妻遂自投台。左右攬之、衣不中手而死。遺書于帯曰、王利其生、妾利其死。願以屍骨賜憑合葬。王怒弗聴。使里人埋之、冢相望也。王曰、爾夫婦相愛不已。若能使冢合、則吾弗阻也。宿昔之間、便有大梓木、生于二冢之端。旬日而大盈抱。屈体相就、根交于下、枝錯于上。又有鴛鴦雌雄各一。恒栖樹上、晨夕不去、交頸悲鳴、音声感人。宋人哀之、遂号其木曰相思樹。相思之名、起于此也。南人謂、此禽即韓憑夫婦之精魂。今睢陽有韓憑城、其歌謡至今猶存。
【訓読】宋の康王の舍人韓憑、娶りて何氏を妻とす。美なれば、康王之を奪ふ。憑怨めば、王之を囚へ、論じて城旦と為す。妻密かに憑に書を遺り、其の辞を繆りて曰く「其の雨淫淫として、河大にして水深く、日出でて心に当たる」と。既にして王其の書を得たり。以て左右に示すも、左右其の意を解する莫し。臣の蘇賀対へて曰く「『其の雨淫淫として』とは、愁ひ且つ思ふを言ふなり。『河大にして水深く』とは、往来するを得ざるなり。『日出でて心に当たる』とは、心に死の志有るなり」と。俄にして憑乃ち自殺す。其の妻乃ち陰かに其の衣を腐す。王之と台に登るに、妻遂に自ら台より投ず。左右之を攬らんとするも、衣手に中らずして死す。書を帯に遺して曰く「王は其の生を利とし、妾は其の死を利とす。願はくは屍骨を以て憑に賜ひて合葬せんことを」と。王怒りて聴さず。里人をして之を埋め、冢相望ましむるなり。王曰く「爾夫婦、相愛して已まず。若し能く冢をして合せしむれば、則ち吾阻まざるなり」と。宿昔の間、便ち大梓木の、二冢の端に生ずる有り。旬日にして、大きさ抱に盈つ。体を屈して相就き、根は下に交はり、枝は上に錯はる。又鴛鴦の雌雄各一有り。恒に樹上に棲み、晨夕去らず、頸を交はして悲しみ鳴けば、音声人を感ぜしむ。宋人之を哀れみて、遂に其の木を号して「相思樹」と曰ふ。「相思」の名、此に起こるなり。南人謂ふ「此の禽即ち韓憑夫婦の精魂なり」と。今睢陽に韓憑の城有り、其の歌謡今に至るも猶存す。
【関連歌】上0399
梁の昭明太子(五〇一~五三一)の編。
●文選巻十三 秋興賦 序(抄)
晋十有四年、余春秋三十有二、始見二毛。
【訓読】晋の十有四年、余春秋三十有二、始めて二毛を見る。
【付記】潘安仁作「秋興賦」の序の冒頭。晋の建国後十四年は、西暦278年。
【関連歌】下2619
●文選巻十三 秋興賦 序(抄)
彼四慼之疚心兮、遭一塗而難忍。嗟秋日之可哀兮、諒無愁而不尽
【訓読】彼の四慼の心を疚しむる、一塗に遭ひて忍び難し。嗟秋日の哀しむ可き、諒に愁ひて尽きざる無し。
【付記】潘安仁作「秋興賦」の一節。「四慼」とは、人との別れ、旅の苦しみなど、四種の人の悲しみ。その一つにでも秋に遭えば、哀しみは堪え難いと言う。
【関連歌】員外3168
●文選巻十九 高唐賦 序(抄)
昔者楚襄王、与宋玉遊於雲夢之台。望高唐之観、其上独有雲気。崪兮直上、忽兮改容。須臾之間、変化無窮。王問玉曰、此何気也。玉対曰、所謂朝雲者也。王曰、何謂朝雲。玉曰、昔者先王嘗遊高唐、怠而昼寝、夢見一婦人、曰、妾巫山之女也。為高唐之客。聞君遊高唐、願薦枕席。王因幸之。去而辞曰、妾在巫山之陽高丘之阻。旦為朝雲、暮為行雨、朝朝暮暮、陽台之下。旦朝視之如言。故為立廟、号曰朝雲。
【訓読】昔者楚の襄王、宋玉と雲夢の台に遊ぶ。高唐の観を望むに、其の上に独り雲気有り。崪として直ちに上り、忽として容を改む。須臾の間に変化窮まり無し。王、玉に問ひて曰く、「此れ何の気ぞ」と。玉対へて曰く、「所謂朝雲なる者なり」と。王曰く、「何を朝雲と謂ふ」と。玉曰く、「昔者先王嘗て高唐に遊び、怠りて昼寝し、夢に一婦人を見るに、曰く、『妾は巫山の女なり。高唐の客為り。君の高唐に遊ぶを聞き、願はくは枕席を薦めんと』。王因りて之を幸す。去りて辞して曰く、『妾は巫山の陽、高丘の阻に在り。旦には朝雲と為り、暮には行雨と為りて、朝朝暮暮、陽台の下にあり』と。旦朝之を視るに言の如し。故に為に廟を立て、号して朝雲と曰ふ」と。
【通釈】昔、其の襄王は宋玉と共に雲夢沢の楼台に遊んだ。高唐の楼観を望むと、その上にだけ雲が湧いていた。高々とまっすぐに立ちのぼり、突然形を変えた。短い時間のうちに変化すること甚だしい。襄王が宋玉に「これは如何なる気か」と問うと、宋玉は「朝雲と呼ばれるものです」と答えた。王がまた「何を朝雲と言うか」と問うと、宋玉はこう答えた。「昔、先王が高唐に遊ばれました時、一休みされて昼寝をなさり、夢に一人の婦人を御覧になりました。その婦人が申すことには、『私は巫山の女でございます。いま高唐に滞在しております。王様が高唐に遊ばれると伺い、寝所に侍りたいと存じます』。そこで王はこの女を愛されました。辞去する時に女が申しますことには、『私は巫山の南、高い丘陵の険阻な地におります。夜が明ければ朝雲となり、日が沈めば通り雨となって、毎朝毎夕、あなた様の楼台のもとに参りましょう』と。翌朝、巫山の方を御覧になると、言葉通り雲が湧いておりました。そこでこの神女を祭る廟を建てられ、朝雲と名付けられたのです」。
【語釈】◇楚襄王 戦国時代の楚の国王、頃襄王。紀元前三世紀の人。◇宋玉 「高唐賦」の作者。◇雲夢 楚の広大な沼沢地、雲夢沢。◇高唐之観 巫山の頂に建てられていた楼観。◇巫山 四川・湖北省の境にある山。長江三峡の一つ巫峡がある。◇陽台 高唐の観に同じ。
【付記】「高唐賦」序文の前半。「高唐賦」は高唐の楼観までの険しい道程を描く賦で、作者は宋玉とされるが、序文の作者は不明である。「旦為朝雲、暮為行雨」を拠り所とした和歌が中世以後しばしば見られる。特に「寄雲恋」の題などでこの句を踏まえることが好まれた。
【関連歌】上0270、上0695、中1638、下2056
二十四史の一。宋・南斉・梁・陳の四史を要約し、南朝四代百七十間の事跡を記した史書。唐の李延寿撰(広辞苑第五版)。本文はウェブサイト『呼嚕嚕』二十五史(http://www.hoolulu.com/zh/index.html)による。
●南史 列伝第六十六 隠逸下(抄)
特愛松風 庭院皆植松 毎聞其響 欣然為楽 有時独游泉石 望見者以為仙人
【訓読】特に松風を愛し、庭院は皆松を植ゑ、其の響を聞く毎に、欣然として楽しみを為す。時有りて独り泉石に游び、望み見る者以て仙人と為す。
【付記】南朝の道士で医術など諸学問に秀でた陶弘景(四五六~五三六)は梁武帝の信任を得て国政にも携わった。のち華陽隠居と号して隠居し、庭園に松を植えて松風の響を愛したという。
【関連歌】上0582、上1482
唐の李瀚が初学者用の教科書として編んだ書物。「孫康映雪、車胤聚蛍」等のように、中国歴代著名人物の言行二つずつを四字句の韻語で記し、故実を知るための便覧とした書。三巻、計五百九十六句。書名は周易蒙卦「童蒙我に求む」による。早くから補注文の付いた本が流布し、日本でも平安時代から広く読まれた。
●蒙求 伯牙絶絃
列子曰、伯牙善鼓琴、鍾子期善聴。伯牙鼓琴、志在高山、子期曰、善哉峩峩乎若泰山。志在流水、子期曰、善哉洋洋兮若江河。伯牙所念、子期必得之。
呂氏春秋曰、鍾子期死。伯牙破琴絶絃、終身不復鼓琴。以為無足為鼓者。
【訓読】列子に曰く、伯牙善く琴を鼓き、鍾子期善く聴く。伯牙琴を鼓くに、志高山に在れば、子期曰く、「善い哉、峩峩として泰山の若し」と。志流水に在れば、子期曰く、「善い哉、洋洋として江河の若し」と。伯牙の念ふ所は、子期必ず之を得たりと。
呂氏春秋に曰く、鍾子期死す。伯牙琴を破り絃を絶ちて、終身復た琴を鼓かず。以為へらく、為に鼓するに足る者無しと。
【付記】『列子』『呂氏春秋』などに見える伯牙の故事。親友を「知音」と言い、固い友情を「断琴の交わり」と言うのはこの故事に基づく。
【関連歌】上1276
●蒙求 子猷尋戴(抄)
嘗居山陰、夜雪初霽、月色清朗、四望皓然。独酌酒詠左思招隠詩、忽憶戴逵。時逵在剡、便夜乗小船詣之、経宿方至。造門不前而反。人問其故。曰、本乗興而行。興尽而反。何必見安道邪。
【訓読】嘗て山陰に居りしとき、夜雪初めて霽れ、月色清朗、四望皓然たり。独り酒を酌み左思の招隠の詩を詠じ、忽ち戴逵を憶ふ。時に逵は剡に在り。便ち夜小船に乗り之に詣り、宿を経て方に至る。門に造りて前まずして反る。人其の故を問ふ。曰く、本興に乗じて行く。興尽きて反る。何ぞ必しも安道を見んや、と。
【付記】王義之の子、子猷の自由奔放な生き方を述べる。『晋書』王徽之伝からの引用である。
【関連歌】上0608、中1609、下2324、〔下2371〕
●蒙求 孫康映雪 車胤聚蛍(抄)
孫氏世録曰、康家貧無油、常映雪読書。少小清介、交遊不雜。後至御史大夫。
晋車胤字武子、南平人。恭勤不倦、博覧多通。家貧不常得油。夏月則練囊盛数十蛍火、以照書、以夜継日焉。
【訓読】孫氏世録に曰く、康、家貧にして油無し。常に雪に映して書を読む。少小より清介にして、交遊雑ならず。後に御史大夫に至る。
晋の車胤字は武子、南平の人なり。恭勤にして倦まず、博覧多通なり。家貧にして常には油を得ず。夏月には則ち練囊に数十の蛍火を盛り、以て書を照らし、夜を以て日に継ぐ。
【付記】東晋の学者孫康・車胤の苦学の話。唱歌『蛍の光』の「蛍の光 窓の雪 書読む月日 重ねつつ…」の由来となった故事として名高い。和歌にも平安末期頃からこの故事を踏まえた作が散見される。
【関連歌】員外2803
公開日:2013年01月30日
最終更新日:2013年01月30日