増基 ぞうき 生没年未詳 号:庵主(いおぬし)

伝未詳。家集『いほぬし』(『増基法師集』『庵主日記』ともいう)があり、熊野参詣や遠江下向の折の旅日記を残している。また同書には天暦十年(956)十月一日庚申の詠とみとめられる歌がある。
後拾遺集初出。勅撰入集二十八首。中古三十六歌仙。なお後撰集や大和物語にみえる増基とは別人とする説が有力。

題しらず

冬の夜にいくたびばかり寝覚めして物思ふ宿のひま白むらん(後拾遺392)

【通釈】冬の夜、何度繰り返し目が覚めて、物思いに沈むことだろう。我が家の板戸の隙間が白むまで。

【補記】「古来風躰抄」「後六々撰」「六華集」などに採られた増基の代表作であるが、『いほぬし』には見えず、出典は不明。

【主な派生歌】
夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨のひまさへつれなかりけり(俊恵)
秋の夜のしづかにくらきまどの雨打ちなげかれてひましらむらん(式子内親王)
袖の上もいくたびばかりしめるらん物おもふ宿の有明の月(順徳院)

(あづま)へまかるとて京をいづる日よみ侍りける

都いづる今朝ばかりだにはつかにも逢ひ見て人を別れましかば(後拾遺464)

【通釈】都を発つ今朝くらいは、ちょっとだけでも顔を合せてからあの人と別れたかったのに。

【語釈】◇逢ひ見て人を別れましかば あの人に逢ったうえで別れたかったのに。

【補記】『いほぬし』によれば、遠江へと旅立つ日、「つつみてあひみぬ人を思」って詠んだ歌。同書では第四句「あひみて人に」。

(あづま)へまかりけるみちにて

都のみかへりみられて東路を駒の心にまかせてぞゆく(後拾遺508)

【通釈】都の方ばかり振り返りながら、東国への道をただ馬の心にまかせて行くのだ。

【語釈】◇駒の心に… 韓非子の「老馬之智」の故事に基づくという。(→資料編

【補記】これも『いほぬし』の遠江旅日記の部分にあり、詞書は「あはたでらにて、京をかへり見て」。粟田は京の東の出入口にあたる。

【他出】後六々撰

いにしへを恋ふること侍りけるころ、ゐなかにてほととぎすを聞きてよめる

このごろは寝でのみぞ待つ時鳥しばし都の物がたりせよ(後拾遺186)

【通釈】この頃は寝ずにひたすらおまえの声を待つばかりだ。ほととぎすよ、しばらく都の話を聞かせておくれ。

【補記】『いほぬし』によれば遠江国を旅する途中の作。詞書の「いにしへ」は都に住んでいた昔ということか。

【主な派生歌】
いまはとて古巣にかへる鶯よ都の春の物語りせよ(藤原実房)

熊野にまうでける道にて

いとどしくなげかしき世を神な月旅の空にもふる時雨かな(新続古今929)

【通釈】ただでさえ辛い世であるのに、今や神無月、旅する不安な身にあって、空からも降る時雨であるよ。

【補記】「空にも」と言うのは、涙によっても袖を濡らしているから。「ふる」は「降る」「経る」の掛詞。『いほぬし』によれば牟婁の港(和歌山県田辺市)に「柞のもみぢしていほりつくりて」宿った夜の作。

四十九院の岩屋のもとにゐたる夜、雪のいみじうふり風のはげしく吹き侍りければよめる

浦風にわが苔衣ほしわびて身にふりつもる夜はの雪かな(新千載1833)

【通釈】浦風に法衣を干そうとしても一向に乾かず、我が身に降り積もる夜の雪であるよ。

【語釈】◇四十九院の岩屋 『いほぬし』によれば、熊野周辺にあった修験のための四十九窟か。

山里に住み侍りける比、常よりも月さびしくみえて都恋しく侍りければ

我をとふ人こそなけれ昔みし都の月はおもひいづらん(玉葉2508)

【通釈】私のもとを訪れる人はいないが、昔見た都の月は私を思い出してくれるだろう。

夜更けて時鳥のなくをききて

身をつめばあはれとぞきく時鳥よをへていかに思へばか鳴く(玉葉1930)

【通釈】身につまされるので、しみじみとその声を聞くのだ。ほととぎすは昔から夜ごと何を思って啼くのか。

【語釈】◇身をつめば 我が身によそえて感じるので。「身をつむ」とは、我が身を抓って他人の痛みを知る、ということから、他人(相手)の身になって同情することなどを言う。この歌の場合は時鳥の悲しげな声が他人事とは思えない、ということ。◇よをへて 「世を経て」「夜を経て」の両義。

荻おほかる家にて、風の吹き侍るに、世の中のはかなきことなど思ひたまへられて

秋の野に鹿のしがらむ荻の葉のすゑ葉の露のありがたの世や(いほぬし)

【通釈】秋の野で鹿が体にからみつける荻(おぎ)の葉――その末葉に宿る露のように果敢なく、生き難いこの世であるよ。

【補記】詞花集には「世の中さはがしくきこえけるころよめる」の詞書で次のように載る。
朝な朝な鹿のしがらむ萩が枝の末葉の露のありがたの世や

【参考歌】紀貫之「貫之集」
つまこふる鹿のしがらむ秋萩における白露われもけぬべし

―参考―

山へ入るとて

神な月時雨ばかりを身にそへて知らぬ山ぢに入るぞかなしき(後撰453)

【通釈】神無月、時雨のほか身につけるものもなくて、見知らぬ山の中へ入って行くとは辛いことだ。

【補記】この歌の作者「増基法師」は同名の別人と考えられる。足利義尚撰『新百人一首』などにも採られた歌。

【他出】古今和歌六帖、新撰朗詠集、古来風躰抄、定家十体(濃様)

【主な派生歌】
神な月しぐればかりをふりぬとも我が身のよそにいつ思ひけん(衣笠家良[続古今])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月14日