歌道家六条藤家の嫡流。従二位行家の息子。初名は博家。子に正二位左中将隆教がいる。
弘安九年(1286)、正三位。正応三年(1290)、従二位。大蔵卿・宮内卿・刑部卿などを歴任。永仁六年(1298)十二月五日、薨去。
永仁元年(1293)八月、二条為世・京極為兼・飛鳥井雅有の三人とともに勅撰集の撰者に任命されたが、撰集が実現に至らないまま没した。続古今集初出。勅撰入集は計六十二首。
文永十年七月内裏七首歌たてまつりし時
まつとせし風のつてだに絶えはてていな葉の山につもる白雪(続拾遺449)
【通釈】待つと言った風の便りさえも、松風の音と共にすっかり途絶えてしまって、もう冬になり、稲葉の山に積もる白雪よ。
【語釈】◇まつとせし 私の帰りを待つとした。本歌の「待つとし聞かば」を承けての謂。「まつ」に松の意が響く。◇いな葉の山 因幡国の稲葉山。本歌の「たちわかれいなばの山」を承ける。
【本歌】在原行平「古今集」「百人一首」
たちわかれいなばの山の峰におふる待つとし聞かば今かへりこむ
【補記】本歌の後日譚といったところ。「つもる」には年月が積もる意が響く。
永仁二年八月十五夜、十首歌講ぜられし時、月前契恋といへる心を
月をだに見しよのかげと思ひ出でよ契りの末はあらずなるとも(続千載1504)
【通釈】せめて月を、逢った夜の面影として思い出してください。将来を誓い合った約束の結末は、予期に反したものになろうとも。
【補記】永仁二年(1294)の中秋の名月の夜、亀山院の召した十首歌。
最終更新日:平成14年12月21日