藤原頼実 ふじわらのよりざね 久寿二〜嘉禄元年(1155-1225) 号:六条入道太政大臣

摂政師実の曾孫。大炊御門流。左大臣経宗の息子。母は中納言藤原清隆女。子に中納言頼平・土御門天皇中宮麗子ら。弟の師経を猶子とした。
応保二年(1162)正月、従五位下。侍従・右少将・右中将などを経て、仁安三年(1168)、皇太后宮権亮。治承三年(1179)、従三位。同四年、正三位。寿永二年(1183)、権中納言。左兵衛督・右衛門督などを兼任し、文治五年(1189)、中納言。同六年、権大納言。右大将・皇后宮大夫を兼任したのち、建久九年(1198)、右大臣に昇る。同十年、太政大臣。建仁二年(1202)、東宮傳を兼ねる。元久元年(1204)、従一位。同二年(1205)、後鳥羽院の乳母藤原兼子(卿二位)を妻に迎え、夫妻で権勢をふるった。承元三年(1209)、太政大臣を辞任。建保四年(1216)、出家。法名は顕性。嘉禄元年(1225)七月五日、薨。七十一歳。
承安二年(1172)の広田社歌合、元久二年(1205)の新古今集竟宴和歌などに参加。千載集初出。勅撰入集二十一首。

夕がほをよめる

白露のなさけおきける言の葉やほのぼの見えし夕がほの花(新古276)

【通釈】「白露の光添へたる」と言われた光源氏が、情けをかけて返した歌――ほのかに見えた夕顔の花のような、夕顔の君へ。

【語釈】◇白露 夕顔の花に置いた露であるが、ここでは光源氏を指している。夕顔の君が光源氏に贈った歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」を踏まえる。◇なさけおきける 情けをかけた。「おく」は露の縁語。◇言の葉 光源氏が夕顔の君に返した歌(【本歌】参照)を指す。「葉」は露の縁語。◇ほのぼの見えし夕がほの花 ぼんやりと見えた夕顔の花。光源氏が、夕顔の花の咲く家の女に対して、素姓もよく知らぬまま興味を持った場面をほのめかしている。

【補記】花というより、源氏物語の「夕顔」の巻を主題に詠んだ歌である。

【本歌】源氏物語「夕顔」
よりてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔

題しらず

いかばかり思ふと知りてつらからむあはれ涙の色を見せばや(千載721)

【通釈】どれほど私があの人のことを思っていると知ってか、あの人は冷たい態度を見せるのだろう。ああ、この紅い涙の色を見せたいものだ。

【語釈】◇涙の色 血涙の色。泣き続けたあげく、涸れ果てた涙の代りに血の涙を流す。

広田社の歌合とて人々よみ侍りける時、海上眺望といへる心をよみ侍りける

はるばるとおまへの沖を見わたせば雲ゐにまがふ海人の釣舟(千載1048)

【通釈】広田の社の前にひろがる海を遥かに見わたすと、沖のほうで、たなびく白い雲とひとつになっているよ、白帆をたてる漁師の釣舟が。

【語釈】◇広田社 兵庫県西宮市大社町の広田神社。祭神は天照大神の荒魂(あらみたま)。平安末期以降、和歌に霊験のある神として歌人たちに崇敬された。◇おまへの沖 広田神社の前の海の沖。

【本歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波


更新日:平成15年05月24日
最終更新日:平成21年09月15日