北畠具行 きたばたけともゆき 正応三〜元弘二(1290-1332)

村上源氏。従三位右中将師行の第二子。子に家資がいる。
後醍醐天皇東宮の頃より側近として仕える。元応二年(1320)二月、少納言。元亨四年(1324)九月、蔵人頭。正中三年(1326)二月、参議。元徳二年(1330)八月、権中納言。同三年正月、従二位。天皇の討幕計画に際して兵を徴し、元弘元年(1331)、笠置山落城後六波羅探題に捕えられた。翌年六月十九日、鎌倉へ護送される途中、近江国柏原で幕府の命により斬首に処された。四十三歳。滋賀県坂田郡山東町に墓がある[参考サイト]。大正四年(1915)、正二位を追贈される。
元徳二年(1330)七夕御会など後醍醐天皇の内裏歌会や、正和四年(1315)の花十首寄書など二条家主催の歌会に参加。続千載集初出。以下勅撰集に十首、新葉集には二首入集。

おなじ頃あづまにおもむき侍りけるに、逢坂の関をこゆとて思ひつづけ侍りける

かへるべき道しなければこれやこの行くをかぎりの逢坂の関(新葉538)

【通釈】ここを過ぎて東国への旅路を行くのだが、私には帰って来る道がないのだから、古歌には「行くも帰るも」と詠まれたけれどもこれはまあ行きっきりの逢坂の関であることよ。

【補記】「おなじ頃」とは、新葉集のすぐ前の文貞公(花山院師賢)の歌の詞書「元弘二年のみだれによりて」云々とあるのを受けたもの。討幕計画の首謀者の一人として捕えられた具行は、元弘二年六月、佐々木導誉によって鎌倉へ向け護送されて行き、逢坂の関を越える時にこの歌を詠んだ。新千載集巻七離別歌にも掲載。但し第二句は「身にしあらねば」。また『増鏡』『太平記』では第二句が「時しなければ」。

【本歌】蝉丸「後撰集」
これやこのゆくもかへるも別れつつしるもしらぬも逢坂の関

【参考歌】鴨長明「新古今集」
枕とていづれの草にちぎるらむ行くをかぎりの野べの夕暮


最終更新日:平成15年04月19日