花山院師賢 かざんいんもろかた 正安三〜正慶元(1301-1332) 諡号:文貞公

関白藤原師実の裔。内大臣師継の孫。内大臣師信の子。母は従三位師子(新葉集雑上。但し尊卑分脈には僧恵一の女とある)。妻室は右大臣花山院家定女(妙光寺内大臣母として新葉集に歌を載せる)・日野俊光女(続千載集などに歌を載せる)。子に左中将信賢・権中納言家賢、また「文貞公女」の名で新葉集に歌を載せる娘がいる。
乾元元年(1302)、叙爵。正和五年(1316)、従三位。文保元年(1317)、参議。同二年、権中納言。後醍醐天皇の即位後、元応元年(1319)、正三位に昇り、中宮権大夫を兼ねる。元亨元年(1321)、従二位。その後右衛門督・弾正尹を兼任し、嘉暦元年(1326)、権大納言に進む。後醍醐天皇の側近として重用され、異例の昇進ぶりであった。元弘元年(1331)、天皇の笠置遷幸の際、延暦寺の衆徒を味方につけるため天皇に扮して比叡山に入るが失敗、笠置に落ちる。笠置陥落後の同年九月、敗走中に捕えられて出家、法名を素貞と称した。翌年の元弘二年(1332)夏、下総国に流罪となり、千葉貞胤に預けられ、同年十月、配所で病死した。三十二歳。後醍醐天皇はその死を愛惜し太政大臣を追贈、文貞公と諡した。明治時代に至り、千葉県香取郡小御門村(現在下総町名古屋)に小御門神社を建てその霊を祀った。
二条派歌人。自邸で歌会を催す(草庵集)。正中百首作者。互いに幽囚の身であった元弘二年春頃、尊良親王に百首を詠じて贈った。続千載集初出。勅撰入集十四首。新葉集に四十九首。
関連サイト:小御門神社

花山院師賢の残した全作品より十首を抜萃し、時代順に並べた。

元弘元年八月、俄に比叡山に行幸成りぬとて彼の山にのぼりたりけるに、湖上の有明ことにおもしろく侍りければ

思ふことなくてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波(新葉1107)

【通釈】思い悩むことがなくて見たかった。有明の月が志賀の浦に寄せる波にほのぼのと映じている、この美しい景色を。

【補記】元弘元年(1331)、謀が漏れて後醍醐天皇笠置潜幸となった際、師賢は天皇に扮装して比叡山に上り、敵を欺くと共に延暦寺衆徒を味方につけようとした。その時、山上から琵琶湖を見ての作。但し『増鏡』の「むら時雨」では山を下りて笠置に向かう途中、志賀の浦を過ぎる時に詠んだ歌とする。新葉集雑上。

【参考歌】源信明「新古今集」
ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風
  赤染衛門「千載集」
思ふことなくてぞ見まし与謝の海の天のはしだて都なりせば

おなじ頃の事にやありけむ、ある野原にて夜をあかしけるに、秋の末つかたなれば虫の声々きほひなくを聞きて思ひつづけ侍りける

いにしへは露分けわびし虫の音をたづねぬ草の枕にぞ聞く(新葉1108)

【通釈】その昔は自ら好んで秋の野に分け入り、露に濡れる苦労をしてまで聞いた虫の音(ね)であったが、今は尋ね求めもしないその声を野宿の枕元に聞くことだ。

【補記】前の歌に続けて新葉集雑上に掲出。比叡山を下り、後醍醐天皇の笠置行宮へ向かう途上の作であろう。風流を求めて虫の音を聞いた過去と、不如意にその声を聞く現在と。運命の変転に対する感慨。

【参考歌】飛鳥井雅経「明日香井和歌集」
わけわびぬ袂の露も虫の音もしげき野原の秋の夕暮

思ひのほかなる所に侍りける時、従三位師子いたう思ひ歎くよしを聞きてよめる

かげよわる(ははそ)の紅葉いかならむ木の下道の荒れはてしより(新葉1112)

【通釈】日の光が弱まる季節の柞(ははそ)の紅葉はどうなっているだろう。木の下の道が荒れ果ててしまってから。

【語釈】◇柞 里山の雑木の類、すなわちクヌギやナラなどの総称。詞書から「母」を掛けていることが判る。◇木の下道 雑木林の下を通る道。その道が荒れ果てたとは、戦乱を暗示しつつ、母のもとへ行くことの出来ない我が身の嘆きを籠めているのだろう。

【補記】詞書にある師子は作者の母。元弘元年(1331)の笠置陥落後の作。

題しらず

むべしこそ雪も深けれなべて世のうれへの雲の空にみちつつ(新葉1132)

【通釈】なるほど雪も深く積もるはずだ。世間の人々が皆憂えの息を吐き出し、それが凝って出来た雲が空に満ち満ちてこれほど多くの雪を降らせたのだ

【補記】作歌事情などは不明。川田順『吉野朝の悲歌』は元弘元年末から翌年初の頃の作かと推測している。

【参考歌】藤原俊成「長秋詠藻」
空にみつうれへの雲のかさなりて冬の雪ともつもるなりけり

下総国におもむき侍りける時、粟田口の山庄をすぐとて思ひつづけ侍りける

この里にみゆきせし世の面影ぞけふは涙とともにさきだつ(新葉1308)

【通釈】この里の我が山荘に行幸あらせられた時の大君の懐かしい御面影が、京を離れる今日、涙と共にしきりと目の前に立つことよ。

【補記】元弘二年五月、流罪地下総国へ向かって京を発ち、粟田口の別荘を過ぎる時に感懐を詠んだ歌。粟田口は京都の東の入口にあたり、三条大路と東海道を結ぶ交通の要衝であった。歌によれば師賢の別荘があり、後醍醐天皇の行幸を迎えたことがあったらしい。

尾張国をすぐるとて都なる人のもとへ申しつかはしける

海山を見る空もなしわが心さながら君にそへて()しかば(新葉519)

【通釈】尾張の国を過ぎる道すがら、海や山の景色を眺める気持などなかったよ。私の心は、そっくり都の貴方のそばに置いてきたので。

【補記】元弘二年(1332)夏、流刑地下総へ向かう途上の作。新葉集離別歌。詞書の「都なる人」は師賢の正室、花山院家定女であろう。『増鏡』の「久米のさら山」にも夫妻の別れの悲しみが切々と描かれている。

【参考歌】作者不明「万葉集」巻十一
恋ふること慰めかねて出で行けば山も川をも知らず来にけり

すみだ川のほとりにてよみ侍りける

言問ひていざさはここにすみだ川鳥の名聞くも都なりけり(新葉537)

【通釈】いにしえの業平朝臣に倣って渡し守に問いかけ、さてそれではここに住もう。隅田川のほとりにいる鳥の名を聞いても、都鳥だということだ。

【補記】羈旅歌。これも流刑地へ向かう途上の作。

【本歌】在原業平「古今集」
名にしおはばいざ事とはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

下総国にて月をみてよみ侍りける

古郷のおなじ空とは思ひ出でじかたみの月のくもりもぞする(新葉550)

【通釈】この異郷の空を、故郷の同じ空とは思うまい。都の形見の月と見れば、あれこれ思い出しては、涙で曇ってしまうのだから。

【補記】羇旅歌。師賢は千葉貞胤に預けられ、下総国香取郡下総郷の屋敷に幽閉された。「かたみの月」は、都を思い出すよすがとなる月。

【参考歌】徳大寺実定「続古今集」
いまはわれ月もながめじはれやらぬ心たぐはばくもりもぞする

下総国に侍りける比、神無月の末つかた病おもく成りて今はかぎりとおぼえけるに思ひつづけ侍りける(二首)

雲の色にしぐれ雪げはみえわかでただかきくらすけふの空かな(新葉1361)

【通釈】雲の色では時雨とも雪模様とも見分けかねて、ただ一面暗鬱に曇った今日の空であることよ。

【補記】新葉集哀傷歌。

【参考歌】少将「玉葉集」
さやかなる月ともいさや見えわかずただかきくらす心ちのみして

 

死出の山こえむも知らで都人なほさりともと我や待つらむ(新葉1362)

かくてつぎの日身まかりにけるとなむ

【通釈】死出の山を越えようとしているのも知らないで、都の人はそれでももしかしたらと、私の帰りを待っているのだろうか。

【補記】「都人」は妻など京に残して来た家族を指すのであろう。母も在世であったことは師賢が母師子を思いやった歌(新葉集雑上)より窺われる。師賢は元弘二年十月末(『南方紀伝』によれば二十九日)、下総に死去。三十二歳。

【参考歌】慶運「慶運法印集」
風むかふ憂き寝もしらず都人日数かずへて我や待つらむ


更新日:平成15年04月19日
最終更新日:平成21年08月31日