北畠親房 きたばたけちかふさ 正応六〜正平九(1293-1354)

正応六年(1293)正月に生まれる。父は右衛門督北畠師重、母は藤原隆重女。八歳で元服し、十五歳で父の出家に伴い家督を継ぐ。
後醍醐天皇の側近として政治を輔佐、吉田定房・万里小路宣房と共に「三房」と称された。延慶元年(1308)、従三位・参議。元亨四年(1324)、父祖の極官を超えて大納言に任ぜられる。しかし天皇より養育を委ねられていた第二皇子世良(ときよし)親王が元徳二年(1330)に急逝したため、三十八歳にして出家した。法名宗玄(のちに覚空)を称す。
元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の新政が始まると再出仕し、義良(のりよし)親王(後村上天皇)を奉じて陸奥に派遣された長男顕家(十六歳)に後見役として付き添う。顕家と共に陸奥の治定に活躍するが、まもなく新政は瓦解し、南北朝分立。親房は南朝軍の指揮官の立場に立たされた。延元三年(1338)、戦で顕家を亡くす。同年九月、東国の南朝軍を組織するため、次男顕信・結城宗広らと船団を組んで伊勢より出航するが、暴風雨に遭って四散、結局親房の船は常陸に漂着した。以後、阿波崎城(茨城県稲敷郡東村)・神宮寺城(同郡桜川村)などに拠って転戦。この頃『神皇正統記』を執筆し、延元四年(1339)九月、小田城(茨城県つくば市小田)で同書を完成した。しかし北朝方に下る軍が相次ぎ、康永二年(1343)、関城(茨城県真壁郡関城町)を脱出、遂に東国経営を抛棄して吉野に帰らざるを得なかった。正平七年(1352)、奇計を用い南朝軍をして一時京都を奪回せしめる。この功によって後村上天皇より准三宮(太皇太后・皇太后・皇后に准ずる)の待遇を与えられた。しかし数ヶ月にして再び京都は北朝の手に落ち、天皇と共に吉野の奥の賀名生(あのう)に逃れた。正平九年(1354)四月十七日、六十二歳で薨去。墓は吉野郡西吉野村湯塩にある。顕家と共に、大阪の阿倍野神社に祀られている。
神道・儒教・仏教・歴史等に精通し、『神皇正統記』『元元集』『職原抄』『二十一社記』『東家秘伝』等の著作がある。自邸で詩歌合を開催するなど、和歌にも熱心だった。続千載集初出。勅撰入集は五首。新葉集には「中院入道一品」として二十七首入集。また宗良親王のもとに贈った歌が『李花集』に八十三首収められている。

中院准后かきあつめて見せ侍りし歌の中に

ひとり見てなぐさみぬべき花になどしづこころなく人を待つらん(李花集)

【通釈】独り眺めるだけで気がおさまるはずの花なのに、どうしてそわそわと心落ち着かず人を待つのだろうか。

【補記】宗良親王の家集『李花集』の詞書中に引かれた歌。「中院准后」は親房を指す。親王の返歌は「わればかりみるにかひなき花なれば憂身ぞいとど人もまたるる」。

【本歌】紀友則「古今集」「百人一首」
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ

題しらず

いく里の月に心をつくすらん都の秋を見ずなりしより(新葉553)

【通釈】幾つの里の月に心を使い果たすことだろう。都の秋を見なくなって以後。

【補記】新葉集巻八羇旅歌。親房は延元元年(1336)建武新政の瓦解後、東海・関東・奥羽・吉野・賀名生などを転々とし、京に住んだのは正平一統がなったわずか数ヶ月の間だけであった。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

中院准后歌よみて見せあはせ侍りし中に (四首)

かぎりなくとほくきぬらし秋霧の空にしほれて雁もなくなり(李花集)

【通釈】限りなく遠い所まで来たようだなあ。霧の立ちこめた秋の空に、打ちしおれた様子で雁も鳴いている。

【補記】以下も『李花集』の詞書中に引かれた歌。「興國二年乃至四年の間、五十歳前後の作と推定」(川田順『吉野朝の悲歌』)。すなわち東国経営のため常陸に在って苦戦していた頃の作で、遠路を渡ってきた雁に京を遠く離れた我が身の境遇を重ね合わせているのである。当時すでに後醍醐天皇は亡く、「秋霧の空にしほれて」の句には『神皇正統記』天皇崩御を記す一文「さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給ひてかくれましましぬとぞきこえし」を思い出さざるを得ない。北越に淹留していた親王がこれに唱和した歌は「雁だにもしほれてぞなく越路までさすらひし身を思ひやらなん」。

【参考】「伊勢物語」第九段
なほ行きゆきて武蔵の国と下総の国との間に、いと大なる川なり、それをすみだ川といふ。その河のほとりに群れゐて思ひやれば、かぎりなく遠くもきにけるかなとわびあへるに…
  藤原定家「新古今集」
霜まよふ空にしをれし雁がねのかへる翼に春雨ぞふる
  後光厳院「新拾遺集」
限りなく遠くきにけりすみだ河こととふ鳥の名をしたひつつ

 

露にぬれ霧にしほれて足引の山分衣ほすひまもなし(李花集)

【通釈】草葉の露に濡れ、野に立ちこめる霧に萎れて、山路を踏み分けて行く衣を乾かす暇もない。

【語釈】◇山分衣(やまわけごろも) 僧や山人が山に分け入って行く際に着た衣。古今集に初出する語。親房は出家の身であった。

【補記】李花集雑歌。前の歌と同じ頃の作と思われ、常陸での詠であろう。「旅行の苦しさを云つてゐるのだけれども、大宮人らしい優美さが目立つ」(川田順前掲書)。宗良親王の唱和は「分けてみぬ山路の袖の露ならばほさぬと聞くもゆかしからまし」。

【参考歌】神退法師「古今集」
清滝の瀬々の白糸くりためて山分け衣おりて着ましを
  藤原定家「拾遺愚草」
秋草の露わけ衣おきもせずねもせぬ袖はほすひまもなし

 

よそに聞きあらましにせしみ吉野の岩のかけみち見ぬ(くま)ぞなき(李花集)

【通釈】噂にばかり聞き、どんなふうかと想像していた吉野――今では、深山の崖に掛け渡した道さえ隅々まで見知っている。

【補記】吉野は後醍醐天皇が南朝を建てた地。「かけみち(懸道)」は、崖に木材などで懸け渡した道、または単に険しい山道を言う。運命の劇的な転変に対する感慨を詠む。宗良親王の唱和「思ひきや仕へながらにみよし野のおくよりおくをたづぬべしとは」。

 

我が上に月日はてらせ神路山あふぐ心にわたくしはなし(李花集)

【通釈】私の頭上に月よ太陽よ光を照らせ。神路山にまします大神宮を仰ぎ祈る我が心には、一片の私心もありはしない。

【補記】李花集雑歌。神路山は伊勢神宮の鎮座する山。歌枕紀行参照。宗良親王が和した歌は「くもりなき月日もさぞな神路山あふぐ心をまづてらすらむ」。

【参考歌】後鳥羽院「御集」
神ぢ山あふぐ心のふかきをもいはでおもへば色にみゆらん

 

さきだてし心もよしやなかなかに憂き世のことを思ひ忘れて(吉野拾遺)

【通釈】子に先立たれた親の苦痛は甚だしいが、ええいままよ、かえってこの悲しみが俗世の雑事を一切洗い流し、忘れさせてくれて……。

【補記】延元三年(1338)五月二十二日、北畠顕家は和泉国堺の石津で戦死、享年二十一。親房は吉野に逃れて来た家来の報告によって息子の死を知った。子を亡くした無上の悲痛が、俗世の苦悩を一時にせよ忘れさせてくれる、と言う。親房の置かれていた異常に苛酷な立場も思いやられ、痛切極まりない。

題しらず

歎けとて老の身をこそ残しけめあるは数々あらずなる世に(新葉1366)

【通釈】悲歎せよというわけで老いた我が身を生き残らせたのであろうか。生きていた人は大勢亡くなっていく世の中に。

【補記】新葉集巻十九哀傷。いつ詠まれたかなど、制作事情は不明。南北朝の戦乱で親房の子顕家を始め多くの若者が命を落としたことは言うまでもない。老いて生き残った己が運命に対する慟哭である。

【本歌】小野小町「小町集」「新古今集」
あるはなくなきは数そふ世の中にあはれいづれの日までなげかん

【参考歌】西行「千載集」
なげけとて月やは物をおもはするかこちがほなるわが涙かな
  藤原家隆「壬二集」
なげけとてなきはかずそふ浮世にもあるわかれこそ身はまさりけれ


最終更新日:平成15年04月26日