弟橘比売 おとたちばなひめ

穂積(ほづみ)忍山(おしやま)宿禰の子。倭建命の妃。倭建命との間にもうけた子は、日本書紀に稚武彦王、古事記に若建王とある。倭建命の東征に同行し、夫を救うため相模国走水の海に入水したと伝わる。神奈川県横須賀市旗山崎の橘神社に祭られていたが、明治時代に軍用地として接収されたため、近くの走水神社に倭建命と共に祀られることとなった。
古事記に入水の際の作として伝わる歌一首がある。

走水神社
走水神社 神奈川県横須賀市走水。浦賀水道を望む丘の上に、倭建命と弟橘比売を祭る社殿がある。

さねさし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

【通釈】相模の野原で、燃えていた火の、その火の中に立って、私に声をかけてくださったあなたよ、ああ…。

【語釈】◇さねさし 「相模」の枕詞。由来未詳。◇火中に立ちて問ひし 古事記によれば、倭建命は焼津の野で国造(くにのみやつこ)の火責めに遭ったが、草薙の剣で草を刈り払い、火打で迎え火をつけて危機を逃れた。この時、同行していた弟橘比売の身を案じ、火中を潜って安否を問うたのであろう。◇君はも 「はも」は強い詠嘆。ここでは「君(=倭建命)」に対する愛情、あるいはその身の安全に対する憂慮といった思いを籠めていると思われる。

【補記】古事記中巻。倭建命が走水の海(いまの浦賀水道)を渡る時、渡の神が波を起こして船を進ませなかった。そこで后の弟橘比売は「あれ御子にかはりて海中に入りなむ。御子は任(ま)けらえし政(まつりごと)遂げて覆奏(かへりごとまをし)たまはね」と言って、菅畳八重、皮畳八重、きぬ畳八重を波の上に敷いて、その上に降りた。すると荒波は凪いで、船は進んだ。比売は我が身を捧げて神の怒りを鎮め、夫の危難を救ったのである。この時、相模の野で夫が我が身を案じてくれたことを思い出し、比売が詠んだと伝わる歌。七日後、比売の櫛が海辺に流れ着いたので、これを取って比売の御陵を造ったという。

走水神社より浦賀水道方面を望む

【ゆかりの地】走水の海 走水神社より走水港・浦賀水道方面を望む。浦賀水道は東京湾から太平洋への出口にあたる。神奈川県の観音崎と千葉県の富津岬との間は、わずか7km程の狭い海峡である。

【主な派生歌】
かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも(余明軍[万葉])
泊瀬川速み早瀬をむすびあげて飽かずや妹と問ひし君はも(作者不詳[万葉])
もゆる火のほなかに立ちてやくるとも露たぢろかぬ心ともがな(小沢蘆庵)
秋萩のさくをとほみと夏草の露をわけわけとひしきみはも(良寛)
「さねさし」の欠け一音のふかさゆゑ相模はあをき海原のくに(小池光)


最終更新日:平成15年06月14日