大津皇子 おおつのみこ 天智称制二〜天武十五(663-686)

天武天皇の第三皇子。母は大田皇女(天智天皇の長女)。同母姉に大伯皇女(大来皇女)、異母兄に高市皇子草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。山辺皇女(天智天皇の皇女)を娶り、粟津王をもうける。
斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。『懐風藻』によれば身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。天智崩後、西暦672年に壬申の乱が勃発した時は兄高市と共に近江にいたが、父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。父帝即位後の天武八年五月、六皇子の盟約に参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。翌年兄草壁が立太子するが、度量広大、時人に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武十二年、二十一歳になると初めて朝政を委ねられた。天武十四年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。
しかし天武十五年(686)九月九日、父帝が崩じると、翌月二日、謀反が発覚したとして一味三十余名と共に捕えられ、訳語田の家にて賜死(二十四歳)。 妃の山辺皇女が殉死した。これ以前に大津は密かに伊勢に下り、姉の斎宮大伯皇女に会ったことが万葉集に見える(大来皇女の御作歌2-105・106)。また大来皇女の哀傷御作歌(2-165・166)の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。
死に臨んでは磐余池で詠んだ歌(3-416)が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。『日本書紀』に「詩賦の興ること、大津より始まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など四篇の詩を残す。万葉集には計四首の歌を載せる。

大津皇子の御歌一首

(たて)もなく(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(もみち)に霜なふりそね(万8-1512)

【通釈】縦糸もなく、横糸も定めず、少女たちが織ったもみじの錦に、霜よ降らないでくれ。

【補記】秋雑歌。和歌において紅葉を織物に喩えた最初期の例。

【主な派生歌】
しぐれふる紅葉の錦たてもなくぬきもさだめぬ玉ぞこぼるる(藤原為家)
秋の色にそむる紅葉やたてもなくぬきも定めぬ錦なるらむ(後光厳院[新千載])

大津皇子の、石川郎女に贈る御歌一首

あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに(万2-107)

【通釈】あなたを待つとて、山の木々の下に佇んで、私は雫に濡れたよ。山の木々から滴り落ちる雫に。

【補記】石川郎女の返歌は「我を待つと君が濡れけむ足引の山のしづくにならましものを」。

【他出】古今和歌六帖(作者「おほともの王子」)、古来風躰抄、玉葉集

【主な派生歌】
いかにせん我たちぬれぬわぎもこにあはでの森のこの下露に(藤原顕季)
立ち濡るる山のしづくも音たえて槙の下葉に垂氷しにけり(*守覚法親王[新古今])
夜もすがら山のしづくにたちぬれて花のうはぎは露もかわかず(藤原定家)
妹まつと山の雫に立ちぬれてそぼちにけらし我が恋衣(土御門院[風雅])
妹まつと人やみるらむかりそめにやすらふほどの山のしづくも(橘千蔭)

大津皇子、石川女郎に竊(ひそ)かに婚(あ)ひたまへる時、津守連通(つもりのむらじとほる)の其の事を占(うら)へ露はせれば、皇子の作らす御歌一首

大船の津守(つもり)(うら)()らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し(万2-109)

【通釈】津守の占いに露顕することは前以て分かっていて、それでも私たちは二人寝たのだ。

【語釈】◇大船の 「津守」の枕詞。津は港。

大津皇子の死を被(たま)はりし時、磐余(いはれ)の池の堤にして涙を流して作らす御歌一首

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(万3-416)

【通釈】磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。

【語釈】◇ももづたふ 「磐余(いはれ)」の枕詞。数字の五十(い)から同音を頭に持つ「磐余」に掛かったかと言う。◇磐余(いはれ)の池 履中紀にも同名の池が見えるが、不詳。香具山の麓にあったかとも言う。◇雲隠りなむ 「雲隠る」は死ぬことの婉曲表現。「なむ」は完了の助動詞ヌの未然形ナと推量の助動詞ムの複合。「きっと…だろう」ほどの意。

【他出】五代集歌枕、歌枕名寄、夫木和歌抄


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日