文武天皇 もんむてんのう 天武十二〜慶雲四(683-707) 諱:軽皇子 略伝

天武天皇の孫。草壁皇子の子。母は阿閉皇女(元明天皇)。藤原不比等の娘宮子を夫人とし、首皇子(聖武天皇)をもうけた。名は珂瑠(かる)にも作る。持統称制三年(689)、七歳の時父を亡くす。祖母持統天皇の庇護のもと、持統十一年(697)二月、皇太子となり、同年八月、持統の譲位を受け十五歳で即位した。大宝元年(701)、『大宝令』を施行し、官名位号を改正した。以後、完成した『大宝律令』を天下諸国に頒布するなど、律令の整備に尽力する一方、南島に使を派遣し薩摩・種子島を征討するなど版図拡大に努めた。慶雲四年(707)年六月十五日、崩御。二十五歳。母阿閉皇女に万機を摂する詔を遺した。万葉集に1首、吉野宮行幸の際の歌(1-74)が伝わる。


大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌

み吉野の山の下風(あらし)の寒けくにはたや今夜(こよひ)も我が独り寝む(万1-74)

右の一首は、或は云はく、天皇の御製歌(おほみうた)

【通釈】吉野の山から吹き下ろす激しい風が肌寒いのに、もしや今夜も私は仮の宿りに独り寝るのだろうか。

【補記】「大行天皇」は、崩じて未だ諡号が贈られていない天皇。単に先代の天皇のことをも言う。ここでは万葉集の排列からして文武天皇を指すことが明らか。左注の「天皇」も同じく文武天皇を指すと見られる。大宝元年(701)二月の文武天皇吉野行幸の際の歌であろう(因みに同じ時に詠んだ長屋王の歌がある)。

【他出】五代集歌枕、新勅撰集、歌枕名寄、夫木和歌抄
(上記すべて作者を持統天皇とし、第二句を「やましたかぜの」とする。)

【主な派生歌】
みよしのの山した風のさむき夜をたれ故郷に衣うつらん(源実朝)
みよしのの山下風の故郷を花よりぞもる春の夜の月(順徳院)

―参考―

題しらず

龍田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ(古今283)

この歌はある人、ならの帝の御歌なりとなむ申す

【語釈】◇龍田河 生駒山地東側を南流し、大和川に合流する川で、万葉集以来の歌枕。紅葉の名所。◇錦なかやたえなむ 錦は途中で断ち切れてしまうだろう。川面を覆う紅葉を色鮮やかな織模様に喩える。

【補記】『古来風躰抄』では聖武天皇御製とし、『定家八代抄』では文武天皇御製とする。足利義尚撰『新百人一首』でも文武天皇の歌として採られている。

【主な派生歌】
はげしさはこの比よりもたつた山松の嵐に紅葉みだれて(藤原定家)
たつた山あらしや嶺によわるらんわたらぬ水も錦たえけり(宮内卿)
是も又都の秋の紅葉ばをわたらば錦中川の水(正徹)
から錦もみぢみだれてうづむらんわたらぬ橋の中はたえけり(後柏原天皇)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日