元明天皇 げんめいてんのう 斉明七〜養老五(661-721) 略伝

天智天皇の第四皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘。諱は阿閉(あへ)皇女。草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)氷高皇女(元正天皇)・吉備皇女をもうけた。
慶雲四年(707)、文武天皇崩御の後、遺詔により即位。文武の遺子首皇子(のちの聖武天皇)を将来即位させるための中継的な天皇と見られるが、和銅元年(708)の和同開珎、同三年の平城京遷都、同五年の古事記撰上、同六年の風土記編纂など、在位中に歴史的大事業が次々に成し遂げられた。和銅八年(715)九月二日、退位。皇太子首皇子はまだ幼少であったため、娘の氷高内親王を中継ぎとして即位させた(元正天皇)。養老五年(721)、病に臥し、長屋王と藤原房前を召して後事を託す。同年十二月七日、崩御。六十一歳。奈保山東陵に葬られる。在位はわずか八年であったが、この間不比等らを重用して律令官制の整備を大いに進めるなど、随所に卓越した政治力を窺わせる。

()の山を越ゆる時に、阿閉皇女の作らす歌

これやこの大和にしては()が恋ふる紀路(きぢ)にありといふ名に負ふ勢の山(万1-35)

【通釈】これがまさに、大和にあって私が一目見たいと恋しく思っていた、紀伊への道中にあるという、名高い背の山なのだ。

【補記】勢の山(背の山)は、紀ノ川を挟んで妹山(いもやま)と向かい合っている山。畿内の南限。朱鳥四年(690)九月の持統天皇の紀伊国行幸の際の御製か。阿閉皇女は前年に夫の草壁皇子を失っており、亡き夫への思いを籠めた歌かと思われる。

和銅元年戊申 天皇の御製

大夫(ますらを)(とも)の音すなり物部(もののふ)大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも(万1-76)

【通釈】勇ましい男子たちの鞆の音が聞こえる。物部の大臣が楯を立てているらしい。

【語釈】◇大夫(ますらを) 宮廷に仕える男子を讃えて言う語。

【補記】「物部の大臣」は石上麻呂を指すとする説(契沖『萬葉集代匠記』)や「将軍といふが如きこと」とする説(山田孝雄『萬葉集講義』)などがある。即位の儀式においては石上氏(旧物部氏)・榎井氏(物部系氏族)が楯を立てる慣例があった。続日本紀によれば和銅元年(708)十一月二十一日、元明天皇即位大嘗祭が挙行されており、この時の御製か。この歌に和した御名部皇女の歌がある。


最終更新日:平成16年05月14日