大江匡衡 おおえのまさひら 天暦六〜長和一(952-1012)

権中納言維時の孫。右京大夫重光の子。母は一条摂政家女房参河(時用女)。赤染衛門を妻とし、擧周(たかちか)・江侍従をもうけた。匡房の曾祖父。
天延三年(975)文章生となり、秀才に補される。越前権大掾・右衛門権尉などを歴任し、永観二年(984)、従五位下に叙せられる。甲斐権守・弾正少弼を経て、永祚元年(989)従五位上となり、文章博士。その後、式部権少輔・越前権守・東宮学士などを兼任。長徳四年(998)、従四位下。同年式部権大輔に転ずる。長保三年(1001)、尾張権守を兼任し、同五年正月、従四位上。同年十一月、さらに正四位下に昇叙される。寛弘二年(1005)、敦康親王(一条天皇第一皇子)の侍読。同三年(1006)、式部権大輔を辞し、同四年、学士を辞す。同五年、式部権大輔に復任し、丹波守・侍従などを兼任。長和元年(1012)七月十六日、卒去。六十一歳。親しかった小野宮大臣実資は日記に「当時名儒無人比肩、文道滅亡」と匡衡の才を賞讃すると共にその死を嘆いた。
大江家の学統を継承。漢詩文にすぐれ、『本朝文粋』『江吏部集』『本朝麗藻』などに作を残す。家集『匡衡集』がある。大中臣輔親・藤原実方ら歌人と親交があった。後拾遺集初出。勅撰入集十二首。中古三十六歌仙

題しらず

秋風にこゑよわりゆく鈴虫のつひにはいかがならんとすらん(後拾遺272)

【通釈】秋風が吹きまさるにつれて声が弱ってゆく鈴虫――しまいにはどうなってしまうのだろうか。

うらむることありて、今日よりはきこえじといひて、いでにければ

明日ならばわすらるる身と成りぬべし今日をすぐさぬ命ともがな

【通釈】明日になったら、私はあなたに忘れられ、捨てられてしまうでしょう。いっそ、今日限りで死んでしまいたい。

といひたる返し

おくれゐて何か明日まで世にもへん今日をわが日にまづやなさまし(匡衡集)

【通釈】あなたに死に遅れて、どうして明日まで生きていられるでしょうか。私の方こそ先に、今日を命日にしてしまおうかと思います。

【補記】赤染衛門の歌への返し。赤染衛門の歌の詞書にある「今日よりはきこえじ」は、「今日を最後にお会いしません」ほどの意。

題しらず

夜もすがら昔のことを見つるかな語るやうつつありし夜や夢(新古824)

【通釈】夜の間じゅう、亡くなった人のことを夢に見たよ。昔のいろんなことを話してくれたあの人の姿が、今もまざまざとしている。昨夜のあの人こそが現実ではないのか。生きていた時の夜こそ、夢だったのではないか。

【補記】新古今集巻八、哀傷歌。藤原清輔撰の『続詞花集』には詞書「一条院かくれさせ給ひて、ほどへて夢に見たてまつりてよみ侍りける」として載る。匡衡は一条天皇の侍読を勤めたことがある。

司召(つかさめし)にもれての年の秋、上の男(をのこ)ども大井川にまかりて舟にのり侍りけるによめる

川舟にのりて心のゆく時はしづめる身とも思ほえぬかな(後拾遺973)

【通釈】川舟に乗ってゆく時は、心も晴れて、自分が不遇に沈んでいる身だとは思えないなあ。

【語釈】◇大井川 大堰川。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。◇心のゆく 満足する。舟に乗って行く意を掛ける。


最終更新日:平成17年03月11日