大江正言 おおえのまさとき 生没年未詳

千古の曾孫で大隅守などを勤めた仲宣の子。姓は初め弓削、のち大江に復した。弟の嘉言・以言も勅撰集入集歌人。大学允、従五位下。後拾遺集の歌からは、能因法師との交流が知られ、出雲へ旅したことがわかる。勅撰入集は後拾遺集に二首、詞花集に一首。

長楽寺にて、ふるさとの霞の心をよみ侍りける

山たかみ都の春を見わたせばただひとむらの霞なりけり(後拾遺38)

【通釈】ここは山が高いので、都の春を見渡せば、ただ一かたまりの霞であったよ。

【語釈】◇長楽寺 京都市東山区円山町。桓武天皇の勅願により、最澄創建と伝わる。◇山たかみ この「み」は形容詞の語幹に付いて理由・原因をあらわす。

【補記】『能因法師集』では「長楽寺にて人々故郷の霞の心をよむ中に」の詞書で大江嘉言・能因法師の歌とともに載せている。寺で歌会を催しての作と判る。

ふるさとを恨むることありて別れけるとき、河尻の程にてよめる

思ひ()でもなきふるさとの山なれど隠れゆくはたあはれなりけり(金葉三奏本528)

【通釈】これと言って思い出もない生まれ故郷の山だけれども、見えなくなってゆくのはやはり切ないものだな。

【語釈】◇河尻 大阪市東淀川区江口あたりかという(岩波新大系本)。

【補記】拾遺集には弓削嘉言の作とし、詞書は「帥伊周筑紫へまかりけるに、河尻はなれ侍りけるに、よみ侍りける」。詞花集にも重出し、作者は正言。詞書は「帥前内大臣播磨へまかりける供にて川尻を出づる日よみ侍りける」とあり、これらによれば、長徳二年(996)、藤原伊周が大宰権帥に左遷され、明石に滞留することになった時、随行しての作ということになる。『玄々集』は作者正言とする。

【他出】拾遺集、新撰朗詠集、詞花集、玄々集、六華集

【主な派生歌】
帰る雁なにいそぐらむ思ひ出もなき故郷の山としらずや(*宗良親王)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月17日