土御門院小宰相 つちみかどのいんのこさいしょう 生没年未詳 別称:承明門院小宰相

家隆の娘。隆祐の姉妹。土御門院およびその生母承明門院在子(源通親の養女)に仕える。
年代不詳の土御門院歌合、嘉禎二年(1236)の遠島歌合、宝治元年(1247)の宝治歌合、宝治二年(1248)の宝治百首、建長三年(1251)の九月十三夜十首歌合、建長八年(1256)の百首歌合、弘長元年(1261)の中務卿親王家百首、文永二年(1265)の八月十五夜歌合などに出詠。新勅撰集初出(二首)。以下、勅撰集に計三十九首。女房三十六歌仙。「新時代不同歌合」にも歌仙として撰入。

  1首  1首  2首  4首  2首 計10首

後久我前太政大臣家十五首歌に

春はなほかすむにつけてふかき夜のあはれをみする月のかげかな(続古今77)

【通釈】春ともなればやはり、空が霞むにつれて、深夜の味わい深い趣きを見せてくれる、朧月の光だことよ。

【語釈】◇ふかき夜の 「ふかき」は「あはれ」にも掛かる。

【補記】源通光家の歌会に出した歌。

【本歌】「源氏物語」(「花の宴」で源氏が朧月夜に贈った歌)
深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ
【参考歌】藤原定家「閑居百首」
ゆきかはる時につけてはおのづから哀をみする山のかげかな

【主な派生歌】
深き夜のあはれをみする月影にいるさの山のおくぞゆかしき(*鵜殿余野子)

宝治元年十首の歌合に、五月郭公

里わかず鳴けや五月(さつき)のほととぎすしのびし頃は恨みやはせし(続古今226)

【通釈】どの里と区別しないで鳴いてくれ、五月の時鳥よ。以前、忍び音を慕っていた頃は、恨んだりしたろうか。

【補記】時鳥は初夏四月から鳴き始めるものとされたが、最初の内は忍び音で、五月頃から本格的に鳴くと考えられた。そうした常識を前提として、今声を聞かせてくれなかったら恨みますよ、との気持を詠んでいる。続古今集の詞書は誤りで、嘉禎二年(1236)、配所の隠岐にあった後鳥羽院が主催した十首歌合に出された作である(この歌合には父家隆・兄弟隆祐も揃って詠進した)。歌合の判詞に「やさしきさまに侍り」と賛辞を得ている。

【他出】遠島歌合、万代集、雲葉集、新時代不同歌合、題林愚抄

【主な派生歌】
をちかへり鳴けや五月の時鳥やみのうつつの道まどふがに(西園寺実氏[続後拾遺])
こゑたえず鳴けや五月の時鳥花たちばなの花のさかりに(宗良親王)

九月十三夜十首歌合に、朝草花

露ながら見せばや人に朝な朝なうつろふ庭のあき萩の花(続後撰288)

【通釈】露をつけたままであの人に見せたいものだ。毎朝毎朝、色あせてゆく庭の秋萩を。

【補記】建長三年(1251)、後嵯峨院仙洞での影供歌合。「露」に涙を暗示。「あき」られつつある恋人に花を贈ることで、恋の悲しみを訴えたいとの可憐な心情。初二句の艶な歌いぶりといい、「朝な朝な」の配置の妙といい、手練の作。

【参考歌】藤原家隆「為家卿百首」
露ながらあだにはをらじわぎもこが見そめのさきの秋はぎの花

題しらず

風の音もなぐさめがたき山の端に月待ちいづる更科(さらしな)の里(新後撰342)

【通釈】風の音も心を慰めるどころか辛さを増すばかりの姨捨山――それなのに山の端から昇る月を待ち迎える、更科の里よ。

【補記】更科は信濃国の歌枕。古今集以来月の名所とされた姨捨山がある。照る月の美しさと「をばすて」なる酷薄な山の名との対比から、月の光にも慰められぬ心の葛藤を詠むことが多い。この歌もそうした伝統を踏まえているが、秋風の音を響かせて哀感を添え、畢竟心が慰められることはあるまいと承知しつつも月の出を待つ矛盾した心理を、あくまで艶に歌い上げている。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
我が心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て

恋歌とて

はかなくて見えつる夢の面影をいかに寝し夜とまたやしのばむ(続古今1192)

【通釈】はかなくはあったが、夢で見ることのできたあの人の面影――どのように寝て夢が見れた夜であったかと、その面影をまた偲びつつ過ごすのだろう。

【補記】むなしく時を経過してきた恋。或る夜、あっけない夢ではあったが、思い人に逢うことができた。これからは夢に見た面影を胸に抱いて、あの晩はどうやって寝たのかしらと省みては、また苦しい恋を忍びつつ、人を偲びつつ過ごすのだろう。はかない夢に縋る思いは数多の古歌に詠まれてきたが、先蹤の型にあてはめることなく、我が身一つの心を細やかに写し取ろうとしているように見える。切々と情の伝わる歌で、小宰相一代の秀歌であろう。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
宵々に枕さだめむ方もなしいかにねし夜か夢に見えけむ

【主な派生歌】
いかにねてみえつる夢の面かげぞさしもゆるさぬ中の契りに(西園寺実衡女[新千載集])

寄枕恋

よひよひにはかなき夢のなぐさめも枕さだめていつまでか見し(続古今1323)

【通釈】宵々に見たはかない慰めの夢も、枕の置き場所をここと定めて、いつまで見続けることができたのであったか。

【補記】宵毎に見る夢が唯一の慰めだった。枕の置き場所をここと定めて眠りにつけば、いとしい人に逢えたのだ。そんな夜々もいつまで続いたことか。やがて枕のまじないの効力は失せ、途方に暮れて寝る夜が続いている。宝治二年(1248)、後嵯峨院に詠進した「宝治百首」。当時の名立たる歌人が一堂に会した百首歌だが、小宰相はことに恋の佳品で目立っている。

寄虫恋

なぞもかく我が身にそはぬかげろふの燃ゆる思ひを胸にしるらむ(宝治百首)

【通釈】なにゆえにかくも、我が身には従わない陽炎のような燃える思いを胸におぼえるのだろうか。

【補記】我が身に従わず、蜻蛉のようにはかなく、陽炎のように胸に燃え上がる思い。どうしてこうも…と、持て余す恋心を虫の名に寄せて詠んだ。真観撰とされる『秋風集』など、当時の詞華選に採録されている。

絶恋の心を

我ながら知らでぞ過ぎし忘られてなほおなじ世にあらむものとは(続後撰966)

【通釈】自分でも今まで気づかずに過ごしていた。捨てられた私が、なおあの人と同じ世に生きていようとは。

【補記】恋の終りとは、一種の死であり、恋人とは別の世界を生き始めることであった。何年も経って、昔の恋人がまだこの世に生きていることを知った時の驚きである。意想外の着眼だが、むしろ恋の破局における絶望という題意をよく捉えている。いつの作とも知れない。

羇旅

ふる里のたよりも知らぬ荒磯に涙ばかりぞ袖にかけける(遠島御歌合)

【通釈】故郷からの便りもなく、家人が無事かも知らずに一夜を過ごす荒磯のほとり――そこで、涙ばかりを袖にかけるのだった。

【補記】故郷の人から便りは届かず、消息を知らぬまま旅する心もとなさ。荒磯のほとりを宿に寝る夜、袖をしたたか濡らすのは波しぶきではない。後鳥羽院主催の歌合に、都から献上した歌。せめても歌に院を慰める思いを籠めたものか。「よろしくは見ゆ」と院の賛辞を得たが、源通光の秀詠「日数さへしののをふぶき立ちかさねあふみち遠き行末の空」と合わされ負とされた。

夜述懐といふことを

ながき夜のねざめに思ふほどばかり憂き世をいとふ心ありせば(続古今1815)

【通釈】永い夜の闇の中、ふと目覚める時に思う、深い絶望――それほどにこの憂き世を厭う心があったなら。

【補記】秋の夜長の寝覚の辛さを、たとえば大弐三位は「遥かなるもろこしまでも行く」果てしなさに喩えた。憂き世の深い闇をそれほどに厭う心があれば、世を捨てる決心もつきそうなものなのに、実際にはなかなか踏み切ることができないと、おのれの心弱さをみつめている。

【他出】万代集、新時代不同歌合、女房三十六人歌合、題林愚抄


公開日:平成14年08月03日
最終更新日:平成21年01月24日