藤原伊尹 ふじわらのこれまさ(-これただ) 延長二〜天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公

右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。

  10首 哀傷 1 計11首

侍従に侍りける時、村上の先帝の御めのとに、しのびて物のたうびけるに、つきなき事なりとて、さらに逢はず侍りければ

隠れ()のそこの心ぞうらめしきいかにせよとてつれなかるらむ(拾遺758)

【通釈】隠れ沼のように、思いをあらわしてくれない心の底が恨めしい。私にどうしろというつもりであなたはそんなに冷淡なのだろうか。

【補記】伊尹が侍従の職にあった時、村上天皇の御乳母にこっそり言い寄ったが、「つきなき」、すなわち年の差がありすぎて似合わないと女から拒絶された時に詠んだという歌。公卿補任によれば伊尹が侍従であったのは、天慶五年(942)十九歳より二十三歳まで。

【他出】一条摂政御集、定家八代抄

心やすくもえ逢はぬ人に

つらかりし君にまさりて憂きものはおのが命の長きなりけり(風雅1327)

【通釈】つれない態度をみせたあなたよりも更に辛いのは、自分の命の長さであったよ。

【語釈】心安くは逢ってくれない人に宛てた恋歌。

【他出】一条摂政御集、万代集

題しらず

かなしきもあはれもたぐひ多かるを人にふるさぬ言の葉もがな(新勅撰789)

【通釈】切ないとか、愛しいとか、恋心をあらわす言葉は色々例が多いけれども、人がまだ使い古していない、気のきいた表現があってほしいよ。

【他出】一条摂政御集、新時代不同歌合

春日の使にまかりて、かへりてすなはち女のもとにつかはしける

暮ればとく行きてかたらむ逢ふことのとをちの里の住み憂かりしも(拾遺1197)

【通釈】今日でお勤めも終りですので、日が暮れたらすぐに訪ねて行ってお話ししましょう。その名の通り遠すぎて逢うことの叶わなかった十市の里は、住みづらかったことですよ。

【語釈】◇春日の使 春日祭の勅使。陰暦二月・十一月上旬の申の日に行なわれた春日神社の祭礼に派遣され、奉幣の役を勤めた。伊尹は天暦二年(948)二月三日に京を発ったことが日本紀略に見える。◇とをちの里 大和国十市。「遠」を掛ける。今の奈良県橿原市十市(とおいち)町。後世「とほち(遠地)」と混同された。

【補記】女の返歌は、『一条摂政御集』には「あふことのとをちの里にほどへしはきみは吉野と思ふなりけむ」、『大鏡』伊尹伝には「あふことはとをちの里にほどへしも吉野の山と思ふなりけん」とある。十市に対して同じ大和国の吉野を持ち出し、「遠い里の方があなたは良いと思ったのだろう」と責めた。

【他出】一条摂政御集、拾遺抄、大鏡、定家八代抄、歌枕名寄、夫木和歌抄
(結句を「すみうかりしを」とする本もある。)

いかなる折にかありけむ、女に

から衣袖に人めはつつめどもこぼるる物は涙なりけり(新古1003)

【通釈】袖で人目は隠すけれども、涙ばかりは包みきれずに溢れ出ることです。

【補記】「から衣」は「袖」の枕詞。『一条摂政御集』によれば女の返しは「つつむべき袖だにきみはありけるをわれは涙にながれはてにき」。安倍清行と小町の贈答を踏まえている。

【他出】一条摂政御集、定家八代抄、近代秀歌

【参考歌】安倍清行「古今集」
つつめども袖にたまらぬ白玉は人を見ぬめの涙なりけり

冷泉院、みこの宮と申しける時、さぶらひける女房を見かはして言ひわたり侍りける頃、手習ひしける所にまかりて物に書きつけ侍りける

つらけれど恨みむとはた思ほえずなほゆく先をたのむ心に(新古1038)

【通釈】あなたの態度はつれないけれど、それでも恨もうとは思えません。なおも将来を期待する気持から。

【語釈】◇冷泉院、みこの宮と申しける時 冷泉天皇は天暦四年(950)に生まれ生後二カ月で立太子し、康保四年(967)に即位した。

【補記】女の返しは「雨こそはたのまばもらめたのまずは思はぬ人とみてをやみなむ」。伊尹の「ゆく先をたのむ」を承けて、自分を頼むならば受け入れる気のあることを伝えた。

【他出】一条摂政御集、定家八代抄

しのびたる女を、かりそめなるところにゐてまかりて、かへりてあしたにつかはしける

かぎりなく結びおきつる草枕いつこのたびを思ひ忘れむ(新古1150)

【通釈】草を枕に、何度も繰り返し契りを交わし、約束を交わしました――いつこの度の旅寝を忘れましょうか。

【補記】ひそかに通じた女を、一時しのぎの場所に連れて行き、翌朝贈ったという歌。「草枕」はこのかりそめの場所での情交を暗示。「むすび」は「草枕」の縁語。「たび」は度・旅の掛詞。

恨むること侍りて、さらにまうでこじと誓言(ちかごと)して、二日ばかりありてつかはしける

別れては昨日今日こそへだてつれ千世しも経たる心ちのみする(新古1237)

【通釈】別れてから昨日今日と逢わなかっただけなのに、千年も経ったような気持がしてなりません。

【補記】『一条摂政御集』には詞書「はやうのことなるべし、北の方と怨じたまて、さらにこじとちかごとしてものどもはらひなどして、ふつかばかりありて」とある。正室の恵子女王に贈った歌ということになる。返歌は「きのふとも今日ともしらずいまはとて別れしほどの心まどひに」。

【参考歌】作者不詳「亭子院殿上人歌合」
わかれてはわびしきものを彦星のきのふけふこそおもひやらるれ

物いひ侍りける女の、後につれなく侍りて、さらに逢はず侍りければ

あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな(拾遺950)

【通釈】ただ一人と思っていたあなたに捨てられてしまった上は、情けをかけてくれそうな人は誰も思い当たらないので、我が身はこのまま独り空しく死んでしまうのでしょうねえ。

【語釈】◇あはれとも言ふべき人 『一条摂政御集』に見える女とのやり取りからすると、「あはれ」は同情の意で、「可哀相と言ってくれそうな人」と解するのが妥当であろう(補記参照)。◇思ほえで あなた以外には誰も思い当たらず。◇いたづらに むなしく。無駄に。恋情が報われずに死んでしまうことを言う。◇なりぬべきかな なってしまうに違いないだろうよ。「べき」は「そうなるに違いない」という心をあらわす。

【補記】『一条摂政御集』の巻頭歌。「年月をへてかへりごとをせざりければ、負けじとおもひて言ひける」との詞書がある。「女からうじてこたみぞ」として返歌は「なにごとも思ひ知らずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき」(大意:何事も知らなかった頃なら同情もしたでしょうが、今更可哀相などと誰が言うでしょうか)。

【他出】一条摂政御集、拾遺抄、定家八代抄、八代集秀逸、時代不同歌合、百人一首

【主な派生歌】
あはれとも人はいはたのおのれのみ秋の紅葉を涙にぞかる(藤原定家)
いくたびかあはれ昔と思ひいでて身のいたづらに月を見るらむ(二条良実[続古今])
恋ひ死なむ身をもあはれと誰か言はむ言ふべき人はつらき世なれば(西園寺実衡女[風雅])
哀れともいふべき人はさき立ちて残る我が身ぞありてかひなき(永陽門院左京大夫[新拾遺])

たえてひさしうなりにける人のもとに

ながき世につきぬ嘆きのたえざらば何に命をかけて忘れむ(一条摂政御集)

【通釈】あの世まで永くこの嘆きが尽きないならば、今の世で、何に命をかけて恋の苦しさを忘れようか。

【語釈】◇ながき世 ここでは来世も含む。死んだ後も永く続く世。◇何に命をかけてわすれむ (私は貴女に命をかけているが)その代りに何に命をかけて貴女のことを忘れればいいのだろう。

【補記】新古今集では第一句「ながきよの」第五句「かへて忘れむ」。

哀傷

中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西、坂本に侍りける山里に、人々まかりて花見侍りけるに

いにしへは散るをや人の惜しみけむ花こそ今は昔恋ふらし(拾遺1279)

【通釈】昔はあの人が花の散るのを惜しんだだろうに、今では花の方が亡き人を恋しがっているようだ。

【補記】藤原敦忠が亡くなった後、比叡山の西麓の坂本で人々と花見をした時に詠んだという歌。

【他出】一条摂政御集、拾遺抄、金玉集、深窓秘抄、和漢朗詠集、定家八代抄


更新日:平成16年04月03日
最終更新日:平成24年03月29日