藤原公実 ふじわらのきんざね 天喜元〜嘉承二(1053-1107)

閑院太政大臣公季の玄孫。正二位大納言実季の一男。母は大宰大弐経平女。帥中納言保実・大納言仲実の兄。太政大臣実行(三条家の祖)・権中納言通季(西園寺家の祖)・左大臣実能(徳大寺家の祖)・待賢門院璋子(鳥羽院中宮)らの父。
治暦四年(1068)七月、従五位下に叙せらる。左兵衛佐を経て、延久四年十二月、禁色を聴され、蔵人となる。同五年正月、左少将に遷る。承保二年(1075)六月、中将。承暦四年(1080)正月、蔵人頭。参議を経て、康和二年(1100)、正二位権大納言。同五年八月、春宮大夫を兼ねる。嘉承二年(1107)十一月十四日、薨。五十五歳。
堀河天皇の近臣グループの一員として歌壇でも活躍した。寛治七年(1093)の郁芳門院根合、康和四年(1102)の堀河院艶書歌合などに出詠。長治二年(1105)頃奏覧の「堀河百首」作者。家集『公実集』がある(断簡のみ)。後拾遺集初出。金葉集では俊頼経信に次ぎ第三位の入集数。勅撰入集計58首(金葉集は二度本で数えた場合)。

  1首  1首  4首  1首  2首  2首 計11首

菫菜

むかし見し(いも)が垣根は荒れにけり茅花(つばな)まじりの菫のみして(堀河百首)

【通釈】昔かよっていた妻の家に、久しぶりに来てみたら、垣根はすっかり荒れていたよ。チガヤの花にまじってスミレが咲いているばかりで…。

【補記】この歌は勅撰集に採られなかったが、『徒然草』第二十六段に引用されて名高い。
「風も吹きあへずうつろふ人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを嘆く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
  昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん」。

【主な派生歌】
しばしとて出で来し庭も荒れにけり蓬の枯葉すみれまじりに(藤原定家)
きて見ればわが古里は荒れにけり庭もまがきも落葉のみして(*良寛)

郭公

我もさは入りやしなまし時鳥山路にかへる一声により(堀河百首)

【通釈】私もあんなふうに山に入ってしまいたいなあ…。ほととぎすが山道へ帰ってゆく一声のせいで、そんな気分になったよ。

【語釈】◇入りやしなまし マシは現実には不可能な願望を示す助動詞。助詞ヤを付して感動・強調の意を添える。山に入る、とは、出家して山里に庵を結ぶことを言う。

槿花

蘆垣のひまより見えし朝顔は面影さらぬ花にぞありける(堀河百首)

【通釈】葦で編んだ垣の隙間から見えた朝顔は、いつまでも面影が瞼に焼き付いて離れない。それほど美しい花だったのだ。

【語釈】「朝顔」に女の朝の顔を匂わせている。

行路秋萩といふことを

しをりしてゆく人もがな秋はぎの花のみだれに道もしられず(秋風集)

【通釈】道案内をしてくれる人がいてほしいよ。秋萩の花が散乱していて、どこが道なのかも分からない。

【補記】「しをり」はもともと枝を折って道しるべとしたものを言うが、ここでは道案内の意。秋風和歌集は真観の撰と推察されている私撰集。続古今集1568にも載るが、「だいしらず」とし、第三・四句「秋はぎに花のみだれて」。

堀河院御時、百首歌たてまつりける時よめる

(そま)かたに道やまどへるさを鹿の妻どふ声のしげくもあるかな(千載308)

【通釈】苗木を植えた林の中で迷子になってしまったのか、牡鹿が妻を呼び求める声が、しきりに聞えるなあ。

【語釈】◇そまかた 「そまかたとは杣方か。或る書に云ふ、萩のしげり咲きたるをいふなり。萬葉集には綜麻形と書けり」(和歌色葉)。万葉集1-19の「綜麻形(へそがた)」(三輪山の異称)の誤読から生じた歌語という。「杣方」の意で用いているのであれば、材木用の苗木を植えた場所を言っていると思われる。

【補記】堀河百首、題「鹿」。

堀河院御時、百首歌たてまつりけるに、霧をよめる

麓をば宇治の川霧たちこめて雲ゐにみゆる朝日山かな(新古494)

【通釈】麓のあたりだけ宇治川の川霧が立ちこめて、朝日山は空高く聳えて見えるなあ。

【補記】早朝、宇治川のほとりから東方の朝日山を眺めている趣。霧の中から頂を突き出した山が、朝日を受けて輝いている情景を髣髴させる。

【本歌】清原深養父「拾遺集」
川霧の麓をこめて立ちぬれば空にぞ秋の山は見えける

堀河院御時、百首歌たてまつりける時、初冬の心をよみ侍りける

昨日こそ秋は暮れしかいつのまに岩まの水のうすこほるらむ(千載387)

【通釈】つい昨日、秋が暮れたと思っていたのに。いつの間に、岩間の水は薄氷が張ったのだろう。

【補記】千載集冬歌の巻頭。堀河百首。

【本歌】
昨日こそ年は果てしか春霞春日の山にはや立ちにけり(万葉10-1843)
昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり(赤人[拾遺])

堀河院御時、百首歌たてまつりける時、不遇恋の心をよみ侍りける

思ひあまり人に問はばや水無瀬(みなせ)川むすばぬ水に袖はぬるやと(千載704)

【通釈】どう考えても私には手に負えなくて、あの人に尋ねたいのだ。水無瀬川には、掬える水がない。ないはずの水に、私の袖が濡れるのはどうしてなのか、と。

【補記】千載集恋二巻頭。堀河百首。水無瀬川は水の流れが見えない川。その「むすばぬ水」に、歌題の「不遇恋」(まだ逢っていない恋)を譬えている。逢う前から恋しくて涙に袖を濡らしているのは何故かと、その恋の相手に訊きたい、というのである。

堀河院の御時、艶書の歌を上の(をのこ)どもによませさせ給ふとて、歌よむ女房のもとどもにつかはしけるを、大納言公実は康資王(やすすけおう)の母につかはしけるを、又周防内侍にもつかはしけりと聞きて、(そね)みたる歌をおくりければ、つかはしける

みつ潮にすゑ葉をあらふ流れ蘆の君をぞ思ふ浮きみ沈みみ(千載792)

【通釈】潮が満ちてくると、流れに漂う葦は枝先の葉に波をかぶり、浮いたり沈んだりする。そんな風に、私は貴女のことを恋い慕っているのです。心を浮き立たせたり、沈み込んだりしながら。

【語釈】◇艶書の歌 艶書は恋文。ここでは堀河天皇の康和四年(1102)閏五月に内裏で催された艶書歌合の出詠歌を言う。したがって遊戯的色彩の濃い艶書歌である。◇妬みたる歌 康資王母の作「三島江のうらみつ潮にまがふ蘆のねたく末葉にかかる白波」を指す。

【補記】二また掛けた公実を恨んだ康資王母の歌に対する返歌である。

経平卿筑紫へまかりけるに具してまかりける日、公実卿のもとへつかはしける   中納言通俊

さしのぼる朝日に君を思ひ出でむかたぶく月に我を忘るな

【通釈】私は遠い西国へ下ってゆきますが、のぼる朝日を見てあなたを思い出しましょう。沈もうとする月を見たら、あなたも私を忘れずに思い出してください。

返し

朝日とも月ともわかずつかのまも君を忘るる時しなければ(金葉687)

【通釈】あなたは朝日に私を思い出し、私は月にあなたを思い出せとおっしゃる。しかし、私は束の間もあなたのことを忘れるときなどありません。ですから、朝日とか月とか、分けて考えることなどできませんよ。

【語釈】◇経平卿 通俊の父。公実には母方の祖父にあたる。

遠妻は野辺のはつ草かりそめの夢のうちにも逢ふぞうれしき(堀河百首)

【通釈】萌え出た野辺の若草を刈り初(そ)める――その「かりそめ」の夢の中でだって、離れ離れの妻と逢えるのは、嬉しいことだよ。


最終更新日:平成15年10月26日