皇嘉門院別当 こうかもんいんのべっとう 生没年未詳

村上源氏。大納言師忠の曾孫。正五位下太皇太后宮亮源俊隆の娘。崇徳院皇后聖子(皇嘉門院)に仕える。安元元年(1175)・治承三年(1179)の右大臣兼実家歌合、治承二年(1178)の右大臣兼実家百首などに出詠。養和元年(1181)、皇嘉門院崩御の折、すでに出家の身であった。千載集初出。勅撰入集計九首。小倉百人一首に「難波江の…」の歌が選ばれている。

摂政右大臣の時の百首歌の時、忍恋の心をよみ侍りける

忍び音の袂は色に出でにけり心にも似ぬわが涙かな(千載694)

【通釈】忍び泣く声は袖の袂で抑えたけれども、その袂は涙に染まって、思いが色に表れてしまった。心は恋の辛さを隠そうと必死なのに、涙は心に合わせてくれないのだ。

【語釈】◇摂政 九条兼実。皇嘉門院の異母弟にあたる。仁安元年(1166)、右大臣就任。◇色に出でにけり いわゆる血涙のために袖が紅く染まってしまったことを言う。◇心にも似ぬ この「似る」は、適合する・相応じる、といった意味。

【補記】俊成の家集『長秋詠藻』によれば、治承二年(1178)五月末に給題された百首歌(完本は散佚)。心は忍び通そうとしても、袖は血の涙に染まる。忍ぶ恋をめぐる心身の葛藤を切々と詠む。

【参考歌】平兼盛「拾遺集」
忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

百首の歌よみ侍りけるに

思ひ川いはまによどむ水茎をかきながすにも袖は濡れけり(新勅撰667)

【通釈】思い川の岩間に淀んでいる水草を払いのけようとすれば、袖は濡れてしまう――そんなふうに、あなたとの仲が淀んでしまったので、思いを手紙に書くにつけ、私の袖は涙で濡れてしまった。

【語釈】◇思ひ川 恋心を川に喩える。また筑紫の歌枕でもある。後撰集の「筑紫なる思ひそめ川わたりなば水やまさらむ淀む時なく」から、後世、大宰府天満宮近くを流れる染川(そめがわ)と同一視された。◇いはま 岩間。「(思ひを)言はむ」の意を掛ける。◇水茎(みづぐき) 筆・筆跡。水草の茎の意を掛ける。

【補記】初二句は「水茎」を導く序詞の役割を果している。「よどむ」「水」「ながす」「ぬれ」など、川の縁語によって、恋文を書きながら涙を流す女心を詠んだ。詞書の「百首歌」は不明。

【参考歌】橘俊宗女「金葉集」
めづらしや岩間によどむ忘れ水いくかをすぎて思ひ出づらむ

後法性寺入道前関白家百首歌よみ侍りける、初逢恋

うれしきもつらきも同じ涙にて逢ふ夜も袖はなほぞかわかぬ(新勅撰787)

【通釈】嬉しい時も辛い時も、流すのは同じ涙であって――今までは辛くて涙を流してばかりいたけれども――あなたと逢えたこの嬉しい夜にも、私の袖はやはり乾かなかった。

【補記】詞書の「後法性寺入道前関白」は九条兼実。治承二年(1178)の右大臣家百首に詠進した歌。題「初逢恋」は初めて思いを遂げた恋、初めての情事を詠む。恋の辛さに袖を濡らした夜々を経て、初めての逢瀬にも嬉し涙で袖を濡らしている。

摂政右大臣の時の家歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる

難波江の(あし)のかりねの一よゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき(千載807)

【通釈】難波江のほとり、蘆を刈って拵えた小屋での、たった一夜の仮の契り――そんな、蘆の一節(ひとよ)のような果敢ない情事のために、澪標(みをつくし)ならぬ身を尽くし、命が尽きるまで恋し続けることになるのだろうか。

【語釈】◇旅宿逢恋 旅宿に逢ふ恋。旅の宿りで逢った相手との情事(遊女の身になっての詠か)。◇難波江(なにはえ) いまの大阪市中心部あたりには、水深の浅い海や、蘆におおわれた低湿地が広がっていた。その辺を難波潟とか難波江とか呼んだ。「難波江の蘆の」までが「かりね」を言い起こす序のはたらきをするが、同時に難波江は「旅宿」の舞台でもある。◇かりね 刈り根・仮寝の掛詞。「仮寝」は旅の仮の宿での眠りであると共に、ゆきずりの人との仮初めの情事を暗示する。◇一よ 一節(よ)を掛ける。「節」は蘆の縁語。◇身をつくしてや 澪標(みをつくし)を掛ける。澪標とは、舟の航路を示すため打ち込まれた杭。ヤは疑問・詠嘆の助詞。係り結びにより結句が連体形になる。
【縁語】蘆の縁語―刈り・根・節(よ)。難波江の縁語―澪標・わたる。

【補記】詞書「摂政右大臣の時の家歌合」とは、千載集奏覧当時の摂政九条兼実が右大臣だった時、すなわち仁安元年(1166)〜文治五年(1189)までの間に催された兼実家の歌合ということ。この時の歌合の完本は見つかっていない。因みに皇嘉門院別当が仕えた皇嘉門院は兼実の異母姉にあたり、この縁から別当は兼実家の歌合にしばしば出詠したものらしい。

【鑑賞】「難波わたりの旅寝はさらでもあはれ深かるべきを、思はずの契(ちぎり)にあかぬ名残のかなしさを思ひわびて、葦のかり寝の一夜ゆゑとおきて、身をつくしてやと言へるさま、優なるべし。能々(よくよく)所のさま、人の名残などを思ひ入れて見侍るべきにや」(応永抄)。

【他出】定家八代抄、百人一首、歌枕名寄、題林愚抄

【本歌】元良親王「後撰集」
わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
    伊勢「新古今集」
難波潟みじかき蘆のふしのまも逢はで此の世を過ぐしてよとや

【主な派生歌】
志賀のうみや暮れ行く春もふかきえに身をつくしてや又も相ひみむ(藤原家隆)
難波なる身をつくしてもかひぞなき短き蘆の一夜ばかりは(藤原定家[続後拾遺])
思ひ侘び身をつくしてや同じ江に又立ち返り恋ひわたりなむ(藤原成実[続後撰])
いかさまに身をつくしてか難波江に深き思ひのしるしみすべき(京極為兼[新後撰])
夢にてもみつとないひそ難波なる蘆のかりねの一よばかりは(藤原為道女[続後拾遺])
忘るなよさらぬちぎりぞ我も旅人もかりねの一夜なりとも(飛鳥井雅親)

後法性寺入道前関白家に、百首歌よませ侍りける中に

帰るさは面影をのみ身にそへて涙にくらす有明の月(玉葉1448)

【通釈】帰り道は、貴女の面影だけを身に添えて、涙に有明の月も見えなくなりました。

【語釈】◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。

【補記】治承二年(1178)、九条兼実主催の右大臣家百首。後朝(きぬぎぬ)の歌。「明け方、女のもとから帰った男が、女に贈った歌」という趣向のもとに詠んでいる。

後法性寺入道前関白家百首歌に、般若心経、色即是空々即是色

雲もなくなぎたる空の浅緑むなしき色も今ぞ知りぬる(続後撰608)

【通釈】雲ひとつなく晴れ、風もなく穏やかな空の薄藍色――その儚い色を眺めていると、「色即是空…」という教えも今わかったのだ。

【語釈】◇後法性寺入道前関白 九条兼実。◇色即是空々即是色 現象界の物質的存在には固定的実体がなく、かつまた固定的実体がないことによってこそ現象界が成り立っている。◇空の浅緑 浅緑は浅い緑色でなく、浅葱色。薄い藍色。澄み切った青空の色などに言う。

【補記】治承二年(1178)、九条兼実主催の右大臣家百首。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成23年11月23日