飛鳥井雅親 あすかいまさちか 応永二十三〜延徳二(1416-1490) 法名:栄雅 号:柏木

新古今集撰者飛鳥井雅経を祖とし蹴鞠・和歌で名高い飛鳥井家の出。雅世の長男。弟の雅康(二楽軒宋世)を猶子として家学を伝え、没後は長男の雅俊(敬雅)が家を嗣いだ。
右衛門督・参議・権中納言などを経て、寛正元年(1460)正二位に叙せられ、同七年(1466)、権大納言に至る。文明五年(1473)、出家して法名栄雅を号す。
父に歌道を学び、家督を継ぐ。正長元年(1428)以後、内裏・将軍家の歌会に参加する。文安三年(1446)の「文安三年詩歌合」、宝徳元年(1449)頃の「後崇光院仙洞歌合」などに出詠。将軍足利義政の親任を受け、義政の執奏により寛正六年(1465)、後花園院から勅撰集撰進の院宣を賜るが、応仁の乱のため実現に至らなかった。兵火を避けて近江国柏木に隠棲の後、文明末年には帰京して歌壇の重鎮として活動、文明十四年(1482)の足利義尚主催「将軍家歌合」では判者を務めた。
正広尭孝宗祇ら他の宗匠とも交友を持ち、後花園院・足利義尚・三条西実隆を始め、内裏・将軍家・公家・地方大名の歌道師範として幅広く活躍した。書道飛鳥井流(栄雅流)の祖。家集には嫡男雅俊の編になる『亜槐集』、飛鳥井雅章編と推測される『続亜槐集』があり、また『雅親詠草』『飛鳥井雅親集』などの名で伝わる詠草がある。注釈に『古今栄雅抄』、歌学書に『筆のまよひ』がある。新続古今集に五首。

「亜槐集」群書類従240(第14輯)、私家集大成6、新編国歌大観8
「続亜槐集」私家集大成6、新編国歌大観8
「入道大納言雅親卿百首」続群書類従392(第14輯下)
「雅親詠草」私家集大成6
「飛鳥井雅親集」私家集大成6

関連サイト
阪本龍門文庫善本電子画像集 飛鳥井榮雅詠草
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/150/

  2首  1首  4首  2首  3首  3首 計15首

帰雁

しるべとや越の白根にむかふらむかすめど雁の行すゑの空(亜槐集)

【通釈】目印として越の白嶺へと向かうのだろうか。霞んでいるけれど、雁の飛んで行く遥か前方の空よ。

【語釈】◇越(こし)の白根 加賀白山。名の通り常に雪で覆われる白い山とされた。

【補記】雁は北陸の上空を過ぎて常世の国へ帰ると考えられた。「し」音の連なる初二句、「かすめど雁の」と「か」音の頭韻を踏む第四句、「かすめど…ゆくすゑのそら」と再びさ行音が重なる下句。韻律にも細心の注意が払われている。

【参考歌】俊恵「林葉集」
桜咲く山べをすぐる雁がねは越の白根を越えぬとや思ふ

夜花

おもかげはくらき軒端にみゆれども花に月まつ春のうたたね(亜槐集)

【通釈】面影だけは暗い軒端にありありと見えるのだけれども――うつつの花を見ようと月の出を待つ、春の転た寝よ。

【参考歌】式子内親王「続古今集」
夢のうちもうつろふ花に風吹きてしづこころなき春のうたたね

夏烏

木をめぐりねぐらにさわぐ夕烏すずしきかたの枝やあらそふ(亜槐集)

【通釈】塒の林で、木を廻って騒ぐ夕方の烏よ。涼しい方の枝を争うのだろうか。

【補記】夏の夜、納涼を求める心は烏も同じかと興じた。

【参考歌】九条良経「秋篠月清集」
雲ふかき深山の里の夕闇にねぐらもとむる烏なくなり

立秋風

一葉ちる桐の立枝に秋をはや見せも聞かせもわたる朝風(亜槐集)

【通釈】桐の立ち枝から葉を一枚ふわりと散らせて、はやくも秋の風情を見せかつ聞かせながら、庭を渡って行く朝風よ。

【補記】立秋の朝風が早速秋の風情を感じさせてくれた。桐の葉は「桐一葉」と言われて衰亡のきざしの象徴ともされるが、大きな葉が一枚ずつふわりふわりと落ちるさまは閑寂とした風情がある。

【本歌】和泉式部「千載集」
人もがなみせもきかせも萩の花さく夕かげのひぐらしのこゑ

野萩

みだれあふ花より花に露ちりて野原のまはぎ秋風ぞ吹く(続亜槐集)

【通釈】乱れて交じり合う花から花へ露が散る――そんなふうにして野原の真萩に秋風が吹いているのだ。

萩 鎌倉市二階堂にて
 マメ科ハギ属の小低木の総称。写真はミヤギノハギ。夏から秋にかけ、紅紫色の花をつける。

草花露

風わたる野べの千草におく露のいくたび花の色にちるらん(亜槐集)

【通釈】風が渡って行く野辺――千草の花に置いた露は、異なる花の色に幾たび染まって散るのだろうか。

【補記】亜槐集巻五、秋部。花から花へ、風に吹かれてうつろう露は、それぞれの花の色に染まって散ってゆく。続く一首「露ふかみ花はむもれて野べはただ色の千種の玉をしくころ」も豪奢な秋の野の美を描く。

【参考歌】藤原定家「続後撰集」
うつりあへぬ花の千草にみだれつつ風のうへなる宮城野の露

永享八年二月廿三日、石清水社法楽百首続歌に、虫

きりぎりす夜をへて秋やさむからし枕のかべに声のちかづく(続亜槐集)

【通釈】秋の夜も日数を経て寒いらしい、蟋蟀の声が次第に枕のある壁の方に近づいて来る。

【補記】永享八年(1436)、作者二十歳の作。『詩経』国風「七月」に「十月蟋蟀 入我牀下(十月蟋蟀 我が牀下に入る)」とあるように(→資料編)、きりぎりす(カマドコオロギ)は秋が深まるにつれて人家に身を寄せてくる。慕うようにあわれに鳴くその声を、人は「枕のかべに」耳を寄せて聞いているのである。

【参考歌】上西門院兵衛「久安百首」
きりぎりすかべの中にぞこゑはする蓬が杣に風やさむけき

朝時雨を

おどろきてまたつぐ夢の末もなし朝けの窓は打ちしぐれつつ(亜槐集)

【通釈】はっと目覚めたきり、続けてまた見る夢の末尾もおぼえが無い――明け方の窓には激しく時雨が降って過ぎ。

【補記】時雨に眠りを醒まされる趣向はありふれているが、夢の続きを見る手がかりがないとの歎きを「またつぐ夢の末もなし」と言いなしたのは巧みである。

【参考歌】徳大寺公孝「続千載集」
ふかきよのね覚の夢の名残までまたおどろかす村時雨かな

時雨

ながめわぶるこころの空を夕時雨むなしきいろに染めて過ぐなり(亜槐集)

【通釈】悄然と物思いに耽る心の空を、夕時雨がはかない色に染めて通り過ぎてゆくよ。

【補記】時雨は木の葉を紅葉させると考えられたが、思い悩む我が胸中を過ぎる夕時雨はただ「むなしきいろ」に心を染めるばかりだと言う。文正元年(1466)、撰歌所に献った百首歌。作者五十歳。

後朝恋

きぬぎぬの夢のうき橋たどりきて命あやふき程をとへかし(亜槐集)

【通釈】朝の別れののちに見る夢の浮橋を辿って来て、命が危うい程に恋しがっている私を訪ねてよ。

【補記】浮橋は、水面に筏や舟を並べ、その間に板を渡して橋の代りとしたもの。「夢の浮橋」とは、その浮橋のようにはかない、夢の中の通い路を言う。亜槐集巻三所収の「詠五十首」。女の立場で詠んだ歌。

相互忍恋

袖の色のまづ()が方にみだれましおなじ涙をしのぶもぢずり(亜槐集)

【通釈】袖の色は先ずどちらが先に乱れるだろうか。古歌の「しのぶもぢずり」よろしく、同じ涙を忍ぶあなたと私と。

【補記】題は「互いに忍ぶ恋」の意。袖の色が乱れるとは、涙によって袖の染め色が褪せること(この涙は忍ぶ涙なので、血涙ではないだろう)。「みだれ」は下記本歌によって「しのぶもぢずり」の縁語。

【本歌】源融「古今集」
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれむと思ふ我ならなくに

百首歌たてまつりし時

ぬれつつもとふべき人の心かはそをだにくもれむら雨の空(新続古今1233)

【通釈】雨に濡れながらも訪れるようなあの人の心だろうか。それでも雲で覆ってしまえ、叢雨の空よ。

【語釈】◇百首歌 永享六年(1434)、新続古今集撰進にあたり後花園院に詠進した永享百首。作者は当時十八歳。

【補記】いずれ薄情な相手であるが、雨が降らなければやはり期待の心は兆す。それならいっそ雨になってしまえと空に訴えているのである。これも女の立場で詠んだ歌。

東山殿より夜ふけてかへりける道に、すてごの侍るが、なきやむをききて

あはれなり夜はに捨子のなきやむは親にそひねの夢やみるらん(続亜槐集)

【通釈】あわれなことだ。夜半、泣いていた捨子の声がやんだのは、親に添い寝する夢を見ているのだろうか。

【補記】「東山殿」は足利義政建立、東山文化の中心となる山荘。『続亜槐集』の排列からすると、文明十七年(1485)頃の作か。大乱後の京の荒廃ぶりも窺われる。

文明二年十二月廿七日仙院崩御の事、あくる廿八日柏木にてうけ給はりておどろき侍りし、をりふし風寒にをかされて老病たへがたきころにて、あくる正月にぞのぼり侍りし、其比おもひつづけ侍りし歌どもの中に

色香しる君もなき世にさく梅の花のうへまであはれなるかな(亜槐集)

【通釈】色香(風流の道)を熟知される君がおられない世に咲く梅の花――その花の身の上まで哀れを催されることです。

【補記】文明二年(1470)十二月二十七日、後花園院は宝算五十二にして崩御。雅親がこのことを知ったのは翌日近江国柏木(滋賀県甲賀郡水口町)の庵居でのことで、老病の身ゆえ京へ上ることもかなわなかった。掲出歌は、翌年正月ようやく上京した折に詠んだ三首の最初の一首である。続く二首は「月はなほ涙うちそへかすむなり雲がくれにし影さだかにて」「さすがみな歎きしづまるほどならば遅れてきくを哀れとはしれ」。

【本歌】紀友則「古今集」
君ならで誰にか見せむ梅の花色をもかをもしる人ぞしる
【参考歌】輔仁親王「金葉集」
うゑおきし君もなきよに年へたる花はわが身のここちこそすれ

寄矢祝をよめる

(よつ)の海しづかになりぬもののふの矢なみをさまる御代を待ちえて(亜槐集)

【通釈】四海波静かに、天下太平となった。武士の矢並がおさまる待望の御代が到来して。

【補記】「をさまる」には、並んだ矢が(使われずに)箙(えびら)に「収まる」意に、世が平和に「治まる」意を掛ける。制作年は不詳だが、応仁の乱終結後の作か。

【参考歌】頓阿「続草庵集」
玉津島玉ひろふより立つ波もしづかに成りぬ四方の浦風


最終更新日:平成17年05月08日