出羽弁 いでわのべん 生没年未詳

従五位下出羽守平季信の娘。はじめ上東門院彰子に仕え、のち後一条天皇中宮威子に仕える。長元八年(1035)関白左大臣頼通歌合に出詠。長元九年(1036)中宮は崩じ、その皇女一品宮章子内親王に仕える。のち、六条斎院(禖子内親王)に仕え、永承三年(1048)以後頻繁に催された同斎院主催の歌合にたびたび出詠した。源経信の若い頃の恋人。
後拾遺集初出。勅撰入集十六首。自撰かとされる家集『出羽弁集』がある。『栄花物語』著述に関与したとされ、続編の作者にも擬せられた。

雪のあしたに、出羽弁がもとより帰り侍りけるに、贈りて侍る

おくりては帰れと思ひし魂のゆきさすらひて今朝はなきかな(金葉473)

【通釈】あなたを送り終えたら帰って来るように、と思っていた私の魂は、まだ雪の中をさ迷っていて、戻りません。今朝の私は死んでしまったように過ごしています。

【語釈】◇ゆきさすらひて 動詞「ゆき」に雪の義を掛ける。

【補記】出羽弁の家から朝帰りした源経信に贈った歌。経信の返しは、「冬の夜の雪げの空に出でしかど影よりほかに送りやはせし」(金葉)。あなたの姿が見送ってくれたことは知っていたが、魂までが送って来てくれたことは知らなかった、ということ。

菩提樹院に後一条院の御影を描きたるを見て、見なれ申しけることなど思ひ出でてよみ侍りける

いかにして写しとめけむ雲ゐにてあかず別れし月の光を(後拾遺593)

【通釈】どのようにして写し留めることができたのでしょう。空の彼方にあって、満足に見ることも出来ないうちに、別れてしまった月の光を。

【語釈】◇菩提樹院 後一条院の墓所。京都市東山。◇後一条院 一条天皇の第二皇子敦成親王。母は上東門院彰子。長和五年(1016)即位し、長元九年(1036)四月十七日、二十九歳で崩御。在位中に亡くなったが、喪を秘し譲位の儀を行なった。◇御影 肖像。◇雲ゐ 空。宮中を暗喩。◇月の光 故院を暗喩する。

【補記】『栄花物語』紫野の巻に見える歌。「御堂には故院の御影を書き奉りたり。似させ給はねど、御直衣姿にて御脇足におしかかりておはします、いとあはれなり」。同書はこの歌の作者を「御女にて、女御殿の人の腹なりける中納言殿」としている。

後朱雀院の御時、中宮かくれさせ給うける御忌の比、時雨のしける日、彼宮にさしおかせ侍りける

まして人いかなることを思ふらむ時雨だに知るけふのあはれを(玉葉2329)

【通釈】時雨さえ今日の悲しさ知って、涙のように降りそそぎます。ましてや人は、どのようなことを思って涙を流しているのでしょうか。

【語釈】◇中宮 後一条天皇の中宮、藤原威子。道長の娘。長元九年(1036)九月六日、疱瘡により崩御。三十八歳。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日