104. 宮古の高潮と津波

著者=近藤 純正
岩手県の宮古市で、アイオン台風による過去の高潮のことをはじめて知り、また 昭和8年3月3日早朝に起きた三陸海岸大津波のことを書いた小学生の作文が吉村昭 の本に掲載されていることも知った。 (完成:2012年5月31日)

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二〇一一年三月十一日の地震・津波で宮古市が被災し、中止になっていた市民講座 「気候変化と暮らしー歴史資料に学ぶ」が一年後の二〇一二年五月一五日に再開される ことになり、三度目の宮古訪問である。

この市民講座の後で、鍬ヶ崎下町の標高四三メートルに設置されている無人の観測所 (旧宮古測候所)の見学会も開催した(「気候観測応援会」の 「A16. 宮古観測所、2012年5月15日」を参照)。

その前日、私は観測所の機器が設置されている露場近くで風速を測った後、歩いて ホテルに帰る途中、市役所の北約一〇〇メートルにある上水道送水場の西側で記念碑 「災害洪水位標」を見つけた。

災害洪水位碑
写真104.1 宮古市役所の北方100mに建てられた災害洪水位標。

向かいのお店の方によると、この記念碑は昨年の地震・津波で倒れて、直したもの だという。近くには大きな川がないのに洪水があったことを不思議に思った。

よく見ると、アイオン台風による高潮(昭和二三年九月一六日)の水位目盛が最上部 にある。終戦後に次々と来襲した台風で大災害があったことを思い出した。その アイオン台風によって宮古市が高潮で浸水したことを始めて知る。

水位目盛には順番にカスリン台風による高潮(昭和二二年九月一五日)、チリ地震 津波(昭和三五年五月二四日)、キティ台風による高潮(昭和二四年八月三一日) が刻まれている。

昨年二〇一一年の大津波はどの高さまであったかを訊くと、「家の二階最下部の高さ だったので、津波は記念碑の頂上付近」と説明していただく。記念碑は道路面から 一段高いミニ公園にあり、津波の凄さに驚く。

測候所の見学会の翌日、浄土ヶ浜から浄土ヶ浜大橋をタクシーで急いで回った。 浄土ヶ浜大橋から東方を見ると、津波で破壊された防潮堤の一部が見えた。

浄土が浜大橋から
写真104.2 浄土が浜大橋から東方を撮影、眼下に津波で破壊された防潮堤の 一部が見える。

測候所に戻り、露場付近で風速を二時間ほど観測すると風も弱まったので観測中止。 元測候所長の豊間根正志さんの案内で津波観測所跡(昨年の津波で壊れて現在は移転) と、浄土ヶ浜へ行く。

浄土が浜
写真104.3 浄土が浜。

後方の山のふもとに大海嘯記念碑がある。海嘯はカイショウ、またはツナミと読む。 これは昭和八年の三陸大津波の後、当時の東京朝日新聞社が集めた義援金で一年後に 建立、次の五つの教訓が刻されている。

大地震の後には津波が来る。
大地震があったら高い処へ集まれ。
津波に追われたら何処でも高い所へ。
遠くへ逃げては津波に追いつかれる、常に逃げ場を用意しておけ。
家を建てるなら津波の来ぬ安全地帯へ。


大津波記念碑
写真104.4 昭和8年の大海嘯(ツナミ)記念碑。

この津波記念碑の隣には「一九六〇年五月二四日チリ地震津波記念碑」があり、次の ように刻まれている。

地震がなくても潮汐が異常に退いたら津波が来るから早く高い所に避難せよ
宮古ロータリークラブ




注: 海嘯(かいしょう)は「地震にともなう津波」、「台風による大波や 高潮」などいろいろな意味に使われているようである。広辞苑によれば、もともとは、 「河口に入る潮波が垂直な壁のようになって河を上流に向けて逆流する現象」とされて いるが、津波も陸に近づくと垂直な壁のように押し寄せることから地震津波も海嘯と 呼ばれたようである。
台風による荒狂った大波も同様に海嘯と呼ばれ、1902(明治35)年9月28日に相模湾 一帯に被害をもたらしたときの高波の恐怖を伝える絵巻「小田原大海嘯」が神奈川県 足柄地域の開成町民センターで展示されているとの新聞報道(6月2日付)があった。



宮古から帰宅して間もなく、岩渕恵子さんから次の内容のメールがきた。

『一五日の測候所見学会のとき、見学会に参加されていた岩田育子さんのお母さん (現在九〇歳)は田老地区の方で、昭和八年三月三日の大津波で震災孤児になった方 です。昨年震災後有名になった吉村昭の「三陸海岸大津波」に、小学生だったお母さん の作文が載っています。私は昨年、偶然その本を読み、とても胸を痛めた記憶がまだ 新しかったので、車で岩田さんを測候所にお連れするとき、偶然にその作文の方が、 岩田さんのお母さんと知り、とても、興奮してしまいました。』

筆者・私は、岩田育子さんに電話して、お母さんの作文が牧野アイのお名前で掲載され ていることを知る。この本は当初「海の壁」という題名で出版され、その後、 新題名で出版されたとのこと。

早速入手したく、書店に行くと文春文庫の「三陸海岸大津波」(四五九円)が本棚に たくさん並んでいた。

私は一気に読み終えた。牧野アイさんは家族七人を失い唯一人残され、悲惨な内容の 作文である。本書には吉村昭の取材記事があり、津波当時の田老村の有様も書かれて いる。私が特に注目したのは次の内容である。

明治二九年の大津波後、県庁から五項目からなる「地震津波の心得」というパンフ レットが一般に配布された。その心得の一つに「津波は、激しい干き潮をもって 始まるから、潮の動きに注意せよ」がある。

田老村(現在は宮古市に合併)では昭和八年三月三日早朝二時半頃の地震後、人々は 灯を手にして、戸外に出て津波の前兆現象「干き潮」に注意していたが、見出せ なかった。彼らは家に帰り、冷え切った体を温めるため炉の火を起こし、もう一眠り しようと、ふとんにもぐりこんだ。

当時の常識を信じたため大きな犠牲がでたのである。

「ことわざ」や「常識」、「心得」は参考になるが、完全ではないので、最終的な 危機管理はひとり一人の臨機応変な行動が重要である。

岩田育子さんによれば、二〇一一年の大津波で、またお宅は流されたが、身近な方々 は命だけは助かったとのこと。苦労が続くことでしょうが、頑張って暮してほしいと 祈りたい。

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