101. 大地震の跡:江の島と鎌倉
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昔、湘南海岸の江の島には東隣りに並んで聖天島があった。その聖天島は、大正12
(1923)年の関東大地震で隆起し、江の島と陸続きになった。これは昨年12月
に知った。この大地震では、相模湾沿岸の小田原から三浦半島城ケ島にかけて1.8m
ほど隆起したという。
写真101.1 聖天島。昔、江の島の隣にあった聖天島が関東大地震で隆起して江の島と
陸続きになり、さらに東京オリンピックの際に周辺が埋め立てられた。前章の
「100.湘南の江の島」の写真100.4に同じ。
写真101.2 聖天島の案内板に引用されている昔のえはがき、左端に並んでいるのが
聖天島(出典は「みゆネットふじさわ」)。
江の島のヨットハーバーの近くの案内板には昔の絵ハガキの写真が展示されている。
その写真は片瀬海岸東浜から撮影したもので、出典は「みゆネットふじさわ」と
書かれている。昔の橋は木製であり、現在の広い埋め立て地はなく、聖天島と江の島が
独立していた。
2012年1月4日、東浜の同じ場所から眺めても、高さ二階建ほどの聖天島は
ヨットハーバーなどに遮られて見えない。東浜に沿って鎌倉の方向へ歩くと小高い
小動岬があり、頂上の展望台から眺めても見えない。
写真101.3 小動神社の展望台から撮影した江の島。
小動岬は江の島と稲村ケ崎の中間にある。稲村ケ崎は新田義貞が鎌倉攻めのときの
突破口である。小動岬の頂上には小動神社があり、案内板には次のような説明がある。
小動(こゆるぎ)の地名は風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂に
あったことに由来する。・・・・新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願した。
鎌倉大仏は鎌倉時代の1252(建長4)年から10年前後の歳月をかけて造立された
という。数年前に知ったことだが、殿舎は明応地震の1498年9月20日の大津波
で流出したままである。
私が最初に鎌倉大仏を見学したのは数十年も前のこと、殿舎がないのを不思議に
思っていた。その後数回は参拝したことがある。津波のことを知るために、
もう一度見学することにした。
写真101.4 鎌倉の大仏。手前から右のほうに並んでいるのは明応地震前に建てられて
いた大仏殿の柱を支えていた礎石(白の矢印で示す)。
大仏は台座を含む高さは13.4m、仏身高11.3mである。大仏の胎内に入ると、
建造や殿舎の倒壊のことなどが細かく銅版に書かれているが、薄暗くて読み難い。
そこで大仏の隣にある御朱印受付窓口で聞いてみることにした。
佐野さんによれば、大仏の置かれた現在の標高は14m、海岸からの距離は800m
であるが、明応地震当時の標高は11m、海岸からの距離は500mであった。
殿舎が倒壊したので津波の高さは標高より高く14~15mはあったであろう。
殿舎の大きさは50m平方、高さは40mであった。発掘調査によれば、
その殿舎の柱を支える礎石は56個あり、のちに大仏の横に一部が並べられている。
観光客が休憩するときの腰掛かわりに使っているのがその礎石である。礎石は六角形で、
直径は160センチ前後、高さは50センチほどである。
関東大地震では、大仏は前方に45センチ滑り、台座は右後側が9センチ、前側が
45センチ地中に潜り込んだ。大仏の背中が猫背のように見えるのは頭部が前に傾いた
ためで、内側から強化プラスチックで補強してある。また台座と仏像の間には
ステンレス板を敷き、地震時には仏像が前後に滑る免震構造に改修してあると
説明していただいた。
明応大地震で14~15mの津波が鎌倉を襲ったことは記録から分かっていたが、
津波対策は、それより低い津波が想定されていた。ところが、2011年3月11日
の東日本大地震を契機に、鎌倉でも津波対策が見直されているようだ。
理科年表によれば、明応大地震による津波は紀伊から房総の海岸を襲い、死者は
伊勢大湊で5千人、伊勢志摩で1万人、静岡県志太郎で2万6千人である。
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