100. 湘南の江ノ島
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2011年12月4日快晴、湘南海岸の茅ヶ崎から江の島まで歩く。午後は久しぶりに
江の島へ渡る。いつも観光客でにぎわっている。空気も澄んでいるので島の頂上にある
展望灯台に登り、360度の展望を楽しみたい。
南に伊豆大島、時計回りに箱根の山々と富士山、午前中に歩いてきた湘南海岸、
片瀬海岸、さらに七里ガ浜、稲村ケ崎から鎌倉方面、遠くに逗子、葉山、三浦半島、
はるかに房総半島まで見渡す。
写真100.1 江の島展望灯台から見下ろした弁天橋と対岸の藤沢片瀬海岸、橋の右側が
東浜。
眼下には弁天橋と対岸の藤沢市片瀬海岸がある。右よりに鎌倉時代から明治時代の
名所・旧跡。以前に私が訪ねたこともある龍口寺、日蓮の処刑場跡、日蓮聖人法難700年
を記念して寄進された白亜の仏舎利塔などが小さく見える。
片瀬海岸東浜の沖には、白帆のヨットが何隻も遊んでいる。この展望フロアの高さは
42メートル、海抜は102メートル。
展望灯台は藤沢市が管理する公園「コッキング亭」の中にあり、展望灯台は江の電の
運営とのこと。公園内には藤沢市の友好都市であるカナダ・ウインザー市の
「ウインザー広場」、アメリカ・マイアミビーチ市の「マイアミビーチ広場」、
長野県松本市の「松本館」、韓国保寧市の「保寧広場」、中国昆明市の「昆明広場」
がある。
写真100.2 コッキング苑内の昆明広場、背後に展望灯台。四阿(騁碧亭・ていへきてい)
は藤沢市の友好都市の中国昆明市から寄贈されたあずまや。
昆明広場に建てられた中国風のあずまや中国昆明市から贈られたものという。案内板に
よれば、昆明市との都市提携の仲立ちとなったのは、中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲
家である聶耳(ニエ・アル)である。彼が来日した1935年、藤沢市鵠沼(くげぬま)
海岸で遊泳中帰らぬ人となった。その若き死をいたんだ多くの藤沢市民により、
1954年に記念碑が建てられた。こうした市民の好意は中国人民を感動させた。
それ以降、両市の親善が深められ、1981年11月に友好都市提携の調印式が行わ
れた。
この説明板に書かれた記念碑を探したが見つからず、公園入り口の係員に尋ねても不明。
後で片瀬江の島観光案内所に電話で訊くと、記念碑は鵠沼海岸2丁目18にあるとの
こと。昆明広場に書かれた説明文が不十分である。
この公園「コッキング亭」はイギリスの貿易商のサムエル・コッキング氏が明治2年
(1869年)に来日、横浜に貿易商会を設立、後に江の島頂上部に別荘を建築、
その大庭園であった。
コッキング亭を出ると、前庭には先ほど大道芸をしていた女性がいたので、尋ねると、
またはじめるという。スピーカーからの軽快な音楽に合わせて巧みな芸を始めた。
2つずつ繋いだ4個の輪を巧みに動かし、それぞれが独立に動いているように見える。
最初、見物人は遠くから見ていたが、芸が進むにしたがって見物人は大勢となってきた。
熱中してきた芸人の話術に皆引き込まれていく。
江の島には名所旧跡が多く、一日では回りきれない。私は江の島には何回か来たことは
あるが、ふもとのヨットハーバー界隈を見学したことはない。
行ってみると、聖火台に似た物がある。オリンピックのマークと1964年の文字が
刻まれている。昭和39年の東京オリンピックの聖火台である。ヨット競技が
ここで開催された。ヨットハーバーには現在約千隻のヨットが収容されていると
書かれている。
写真100.3 1964年東京オリンピックで江の島ヨットハーバーに作られた聖火台。
弁天橋のほうへ引き返す途中、宮城県の松島で見たような小さな岩山がある。
周囲が波で浸食されている。
不思議に思って案内板を読むと、この岩山は、もとは
海に浮かぶ二つの岩からなる聖天島だったが、大正12(1923)年の関東大震災
の時に隆起して、江の島と陸続きになった。その後、東京オリンピックのヨット
競技会場の整備のために付近が埋め立てられ、現在のように聖天島の上部だけが丘
となった。
写真100.4 聖天島。昔、江の島の隣にあった聖天島が関東大地震で隆起して江の島と
陸続きになり、さらに東京オリンピックの際に周辺が埋め立てられた。
その案内板には昔の絵ハガキの写真がある。弁天橋の片瀬海岸側から撮影したもの。
昔の橋は木製である。現在のヨットハーバーなどの広い埋め立て地はなく、聖天島が
江の島から離れている。
もらったパンフレットを後で読むと、昔は江の島へは潮が満ちてくると片瀬海岸から
舟で渡るか、人足の背負いに頼っていたが、明治24(1891)年に初めて木製の
橋が架けられ、現在の弁天橋と並ぶ車道の江の島大橋は東京オリンピックに合わせて
造られたとある。
江ノ島のふもとに沿って食堂や土産店、屋台が並んでいる。江の島名物サザエの
つぼ焼2つで千四百円、江の島名物焼きハマグリ2つで千六百円、北海道産天然
ホタテ焼2つで千三百円、いかの丸焼六百円。観光客は匂いと、夕方の食欲に誘われて、
焼き上がるのを並んで待っている。
弁天橋にくると、ちょうど日没。観光客が橋に並んで日没の夕日に染まる富士山を
カメラに何枚も何枚も収めている。だれもが撮影したくなる美しい景色。視野の中
に観光船が入って欲しいのだが、タイミングが合わない。
写真100.5 富士の日没を撮影する弁天橋の上に並んだ観光客。
片瀬海岸に近づくと弁天橋のたもと、片瀬漁港と富士山が重なる場所で風景画を
描いている画家がいた。その絵には江の島遊覧の観光船が描かれている。
写真100.6 日没の富士を描く画家の佐藤輝明さん。
すでに完成した江の島、鎌倉などの絵を百円ショップで売っている額縁に入れ
並べている。代金千五百円だというので江の島の絵を記念に購入。写真では一枚に
収まらない江の島入口の青銅の鳥居とその脇にある江の島アイランドスパ(江の島温泉)、
江島神社辺津宮の鳥居と端心門、頂上にある展望灯台が一枚に収められている。
話しかけると、「絵は写真では表せない表現が可能です」と宣伝する。
私もまったく同感である。四国遍路を歩いたときのこと、窪川の第37番札所
「岩本寺」から次の足摺岬の38番札所に向かう途中、佐賀港を過ぎ坂道を登ると、
眼下に広がる大パノラマ、とても写真では表現できない。そこには『これを絵に、
うつしてみたし、かすむ島。安政5(1858年』と書かれた案内板があったことを
思い出した(「4.四国遍路、土佐から伊予へ」の
「4.6 西南大規模公園」を参照)。
江戸時代に描かれた広重の絵でも同様である。現在地に行って比較すると、写真では
表現できない特徴を広重の絵はよく表現している。
画家の佐藤輝明さん(昭和22年4月生れ)は水戸出身で現在は横浜に在住と聞く。
来年はニューヨークで絵を描くという。いま描いている絵も私が公表してもよいという
許可をもらった。
写真100.7 佐藤さんから購入した江の島の絵。手前は青銅の鳥居(藤沢市指定文化財)
の右は江の島アイランドスパ(江の島温泉)、奥に江島神社辺津宮の鳥居と端心門、
頂上展望灯台が描かれている。
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