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4. 四国遍路、土佐から伊予へ
高知県南国市にある紀貫之の屋敷跡から歩きはじめて、 足摺岬を経て、愛媛県宇和島市までの歩き旅の記録です
4.1 紀貫之邸跡から「はりまや橋」へ
4.1 紀貫之邸跡から「はりまや橋」へ
2002年1月26日、高知県の土佐電鉄後免停留所から北に向かって歩きはじめた。
南国市国分にある紀貫之邸・国府跡にくると、最近整備された公園に
「国府の碑」「紀貫之邸跡」があった。
説明板に、『貫之は30歳代の若さで、「古今和歌集」の選者・序文の
著者をつとめ、王朝屈指の歌人としてその名をはせていた。土佐の国司
に任ぜられたのは60歳過ぎであった。4年間の国司の任務を果たして、
934年12月には京の都へ発つが、そのときの船旅日記を綴ったのが、
かな文字による日記文学「土佐日記」である。
都へ帰る直前に、
京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、
情愛、哀傷を日記のいたるところににじませている』の内容が書かれていた。
その一首が「土佐日記の碑」に、『みやこへと、おもふをもののかなしきは、
かへらぬひとの、あはれなりけり』と彫られていた。
まもなく雨が降り始めた。そこから500mほど西方に歩いて第29番札所
「国分寺」に来ると、雨の中、数人の参拝人がいた。国分寺から畑の中の
遍路道を西に進み、途中から国道32号線を南下し、貫之が舟出した地点を
探しに行った。
高知市大津小学校の校庭に「貫之舟出の地」の記念碑が
あった。また、土佐電鉄舟戸停留所の近くに設置された説明板に
『紀貫之が国司の大任を終え帰国第一歩をふみだしたところである。
土佐日記の12月27日の条に「大津より浦戸をさして漕ぎ出づ」とある』
と記されていた。
国府からこの舟出の地まで歩いて2時間ほど、直線距離では5kmほどあった。
再び北の方向へと歩く。大津小学校の北側に「大津ふれあいセンター」
があり、その入り口に高い柱「大津地区水害記録碑」があった。
道路面から1.5mのレベルに「1972年9月15日国分川決壊最高水位」の線、
さらにそれより85cm高いレベルに「1998年9月25日集中豪雨最高水位」
の線が刻されていた。
そうだ、この付近は千年の昔は海であり、
現在でも低地ゆえ、大雨時には浸水する地域である。紀貫之の時代、
高知市の市街部の大部分は浦戸湾が広がり、五台山、かつら島、
比島、高知城のある山は、湾の中の島であったといわれている。
遍路道にもどり高知市一宮、第30番札所「善楽寺」にくると、
観光バスで巡る遍路の団体に出会った。私のハイキング姿に対し、
一行は白装束に、菅笠を冠り金剛杖と数珠を手にしている。
彼らは本堂、大師堂、その他の堂に礼拝し、灯明と線香をあげ、
持鈴を振り、経を唱えている。
その後、納経所に入っている。混雑しなくなったころ、私も納経所に入り、
「遍路はここで何をするのですか?」と訊ねると、本堂と大師堂に
礼拝したのち、納経帳で墨書授印するという。納経帳を準備して
いない人は、各寺ごとに準備されている用紙に墨書授印してくれる
というので、300円だすと、B4大の和紙の右半分に墨書授印がある。
墨書は独特の文字で書かれ読みにくいが、梵字と本尊名「阿弥陀如来」、
寺名「土佐一ノ宮」らしい。朱の「四国第三十番」印が右上に、
「土佐一宮善楽寺」印が左下に、阿弥陀如来を標示する梵字印が
中央に押されている。和紙の左半分には詠歌『人多く、たちあつまれる、
一ノ宮、昔も今も、さかへぬるかな』が印刷されていた。
これら墨書授印と詠歌は寺ごとに違うと聴く。
墨書授印は八十八ヶ所の全部で頂かなくてもよいという。
また、「遍路はいつから始まったのですか?」と訊ねると、
空海(弘法大師、774~835)を慕う人々が歩き始めたのが興りで、
江戸時代よりもっと昔からあったようだ。
善楽寺の隣には土佐神社があり、節分の行事の準備が調っていた。
由緒によれば、土佐神社は「しなね様」と称えられ、土佐の総鎮守である。
古代から在ったらしく、戦国時代の長宗我部元親のときに本殿などが
再興され、山内一豊家の時代、2代藩主忠義が増築して土佐の国最上の
祈願所になった。
土佐神社から比島の西を通り、JR高知駅の南玄関を経て「はりまや橋」
に着いた。はりまや橋は江戸時代の僧侶・純信とお馬の恋物語で
有名になった場所である。平成5年に江戸時代の木造りの橋が再現され、
橋のたもとには純信・お馬の像が建てられている。この橋のすぐ近くでは、
国道32号線と55号線が交差し、土佐電鉄の路面電車が南北と東西に
走っている。
私の記憶では、昭和初期、この下には堀川があり、現在の高知大丸百貨店
の南まで延び、舟上で暮らす人々の舟が停泊していた。
4.2 五台山から桂浜へ
遍路の旅の2日目、私は、はりまや橋から五台山に向かう。
菜園場町の堀川に沿って進むと立札があり、『江戸時代に藩の
菜園場があった場所』とある。また、「高知港堀川浮き桟橋」が
川岸に沿って長く繋がり、釣り舟用のボートが整然と並んでいた。
青柳橋にくると、欄干には土佐の名物「土佐犬、長尾鳥、坊さん、
かつお、くじら」の彫刻が飾られていた。
五台山の登り口から車道を少し進んだのち、「遍路道」の道標に
したがって小道に入る。頂上近くにくると「伊達兵部墓」があり、
おや?と思った。説明板に『仙台藩主伊達正宗の実子・兵部は三代藩主
綱宗の実子・亀千代の後見人となり、藩政を補佐していた。側近の
原田甲斐が刃傷事件をおこしたので、兵部はその責任を負って
1671年に山内家預けとなり、1679年58歳で病死した』とある。
兵部は伊達藩から遠方の土佐藩に預けられ不遇に終ったが、
立派な墓に祀られていることに驚いた。
そばには『蝉しぐれ、兵部の墓に触れてみる』(米子市岩村邦雄)
の立札と「仙台市民墓参植樹」(1987年)の標柱が建っていた。
五台山展望台に登ると、眼下に浦戸湾がある。紀貫之が舟戸から出て
最初の寄港地が浦戸である。浦戸は最遠方にある半島の左端である。
浦戸の太平洋側には桂浜がある。
31番札所「竹林寺」は、観光バスや乗用車できて参拝する人々で
賑わっていた。並びには新しい五重塔がそびえていた。説明板によると、
『もとの三重塔は明治32(1899)年の台風で倒壊したが、1980年に
五重塔として復興した。塔の起源はお釈迦様の霊骨を祭る墳墓に始まり、
当初、土饅頭形がインド、中国、日本へと伝播するに伴い日本では三重、
五重の層をなす塔姿に変わった』とある。
植物学の基礎を築いた牧野富太郎博士を顕彰するためにつくられた
牧野植物園に入り一巡したところに掲示板がある。『この路はふもとの
長江から竹林寺への、東からの参道で「お馬みち」として知られている。
1855年のころの昔、長江のいかけ屋の娘「お馬」がいた。お馬の母は
竹林寺の坊さんたちに洗濯の注文を受け、寺に出入りしていた。
お馬も、時には母に代わってその用を足していたので、坊さんたちを
知るようになった。特に純信とは深い仲になった。このことが、
いつしか「よさこい節」に歌われ広く知られるようになった』とある。
「お馬みち」を降りて行ったが、途中の分かれ道で間違って左の山道に入り、
次の第32番札所「禅師峰寺」へは遠回りになってしまった。
山道の途中で農作業をしていた人に道を教わったのだが、その人は
心配し軽トラックで追いかけてきて、こう行けばよいと再度案内してくれた。
そして、「車に乗りますか?」と親切に言ってくれたが、私は「ありがとう。
歩きたいので」と答えてお断りした。
遍路コースに入り、案内矢印にしたがって新道を進み、トンネルを抜けると、
新興住宅地の前面に沼があった。湖面には渡り鳥が浮かび、10人ほどの
子供たちが釣りをしていた。湖岸歩道は整備され、「石土池ハス通り」
の立札があった。ハスの季節には、一面の花が咲き旅人を楽しませるだろう。
小道を登り「禅師峰寺」に着くと、観光バスで登ってきた50人ほどの
団体が参拝していた。本堂の前や周辺には大きな奇岩があった。
奇岩の南側は自然の展望台であり、眼下にビニールハウス群、
その前方に高知新港、その西に桂浜・浦戸が見えた。
寺から降りて、西に進んだ。この付近には食堂がなく、小店に入って
アンパンを食べながら聞くと、ビニールハウスでは、おもに「ししとう」
を栽培し、全国に送っているという。
外洋に面した高知新港は完成に近く、また、新道も完成しているように
見えたが、船が帰港していない。種崎から、海面上かなり高い位置に、
浦戸湾口をまたぐように架けられた浦戸大橋を渡ると、右向き矢印で
遍路道の案内があったが、そのまま直進し、桂浜へ寄り道する
ことにした。
車道から小道へ入り、龍王岬へ降りていった。この岬の頂上には小さな
神社があり、東に続く桂浜から振り返って眺めると絶景である。
桂浜を東に歩いて行くと、多数の観光客に会った。大町桂月記念碑があり、
その説明板に、『桂月(1869~1925)は高知市出身。雅号の桂月は月の
名所桂浜に因み、桂浜月下漁郎を縮めたもの。桂月は終世、
酒と旅を愛した。「見よや見よ、みな月のみの、かつら浜、海のおもより、
いづる月かげ」は大正7年の作』とある。
私はこの記を読み、青森・秋田県にある十和田湖が桂月によって
広く紹介されたことを昔の十和田湖で知ったことを思い出した。
桂浜東端の龍頭岬後方の高台には坂本龍馬の銅像がある。コンパスで
像の向いている方向を調べてみると、真東ではなくて、東北東寄りであった。
坂本龍馬の偉大さは、明治維新の他の志士たちと違って、幕府を倒した後の
日本の方向を考えていたことと、思想の違いに関係なく多くの人々と接し
自分の味方につけたことだという。先日のNHKテレビによると、
歴史を動かした人物で人気の第1位は織田信長、第2位は坂本龍馬と
なっていた。
桂浜から旧道を経て浦戸にくると、昔、浦戸湾の巡航船桟橋があった
付近の海岸には高い防潮提が築かれ、長浜まで続いていた。
長浜にある第33番札所「雪蹊寺」の手前200mまできて、
この日を終えた。
4.3 長浜から高岡へ
長浜の第33番札所「雪蹊寺」に参拝し、農村地帯を新川川に沿って
西に向かった。もともと新川川は、これから向かう仁淀川から引かれた、
大きな農業用水路の一つである。
長浜から、およそ1時間半ほどで第34番札所「種間寺」に着いた。
本堂は改装中であった。広い駐車場はあるが、参拝者は見えない。
入り口の店に入り昼食になるものを頼むと、暖かい焼き芋を渡してくれて、
「お茶は自由にお飲みください」と勧められた。
それから1時間ほどで、長い仁淀川大橋にきた。橋の上では吹き
飛ばされそうなほどの強い北風が吹いており、体を縮めて渡った。
前方5kmの左手に石土ノ森と皿が峰、その中腹に第35番札所
「清滝寺」が見える。それらの山に隠れて見えないが、大きく蛇行する
仁淀川の上流10kmほどに私が幼年時代を過したところがあり、
懐かしく思った。
高岡の市街を過ぎて、山麓から登りはじめた。車道からの分かれ道の標柱に、
『寄せる波、滝の流れや峰の風、自然音楽へんろは楽し』
(へんろ道保存協力会)とある。遍路の実感がよく表わされていると思った。
仁淀川大橋から2時間弱で清滝寺についた。眼下に農村と高岡の市街が、
はるか南の山の間から太平洋が見えた。寺の広場では、テントを張り、
おじさんとおばさんが袋に入れたミカンを売っていた。
「ここで食べるのには一袋では多いので、50円ぶんください」と頼むと、
ミカンを7個もくれた。
食べながら話を聞くと、おばさんは、ここで30年余もミカン売りをしている。
この付近にはイノシシがよく出ると言う。人間を襲わないかと訊ねると、
イノシシは人間を見ると逃げると答えた。おじさんの語るには、
ふもとの農家では、以前はショウガを売りに行くと、帰りは新車で帰って
きたほど儲かったのだが、最近は中国などから野菜が輸入されるようになり、
不景気になってしまったそうだ。
テント横に消防車があるので、
なぜかと聞くと、火事になって呼んでも、登ってくるのに時間が掛かり
間に合わないので、いつも置いてあるという。同じ道を逆に下って、
高岡・宇佐の分岐点まで戻った。
4.4 高岡から須崎へ
高岡・宇佐の分岐点から宇佐の方向へと南下した。長さ838mの
新トンネルを抜け、海岸沿いの国道23号線に出ると、宇佐大橋が見えた。
これは新しく架けられたものらしく、車も通れるほどの大きな橋である。
橋を渡り30分ほど歩き、車道から分かれて進むと、第36番札所
「青龍寺」があった。
その手前、湿地を左に見る道端の崖に対の
地蔵がいくつも並んでいた。あとで聞くと、対の地蔵は、それぞれ本尊
と大師さんを表わし、88対ある。つまり、ミニの八十八ヶ所がある。
地元では80を略して、「八ヶ所さん」と呼んでいる。こうしたミニの
八十八ヶ所は寺によっては存在するという。
参拝ののち、宇佐大橋まで戻り、国道23号線を西に進んだ。
浦の内湾は奥深く、入江が重なった形である。3時間余りも歩いて、
やっと湾の最奥部(黒潮ラインの国道47号線との合流点)に着いた。
さらに2時間余ののち、18時、暗くなってJR須崎駅に着いた。
4.5 須崎から窪川へ
5日目、JR須崎駅から窪川を目指した。国道56号線に出るために、
駅から線路に沿って200mほど歩き右折すると、「津波の碑」があった。
『須崎港は県下随一の良港であるが、古来しばしば津波災害を被っている。
宝永4年の津波(1707年10月28日)、昭和21年の南海地震津波
(1946年12月21日)、チリ地震津波(1960年5月23日)では堀川が
導入した高潮で大被害を受けた。常に津波災害の誘因となった堀川を
埋め立てて、万一に際し市民の城山への避難道路とした』とある。
私の記憶では、現在、東西に走るこの広い道路は、昭和21年頃は堀川であり、
津波が東から堀川を逆流し、須崎市に大災害をもたらした。
当時の堀川の面影はなく、広い避難道路・小公園になっている。
さらに防災用の大型電光掲示板が設置され、この日は天気情報を流していた。
国道56号線に入り、安和を経て、3時間ほどで久礼に達した。
そこから山また山の坂道を2時間ほど登り七子峠に着くと、
小雪が舞っていた。
七子峠から1時間ほどの所に、樹高10mのツバキの大木
「影野のお雪椿」がある。『ここは影野の開拓者・池内嘉左衛門の
屋敷跡である。池内氏の娘・お雪は、影野の西本寺の若僧順安と
恋仲となったので、お雪の父は順安を俗にもどさせてお雪と夫婦にし、
地頭職を継がせた。夫婦は仲むつましく里人たちをも愛したが、
二人には子供がなかったので、彼らの死後、里人たちは椿を植え
二人の供養を毎年行なってきた。この椿の樹齢は350年、1981年』とある。
店に「イノシシ、イノブタ」の大看板がある。この付近の山では
イノシシをわなで捕らえ、また、養殖したイノブタの肉を売っているらしい。
七子峠から3時間余で窪川駅前の民宿についた。
4.6 西南大規模公園
遍路の6日目、私は日の出前7時に窪川の民宿「村の家」を発った。
この民宿は前日、宇佐の青龍寺入り口の広告板で見て予約してあったものだ。
5分ほど歩いて、第37番札所「岩本寺」にくると、ローソクが
5本も灯され、すでに数人が参拝を済ませたようであった。
ここから次の足摺岬にある38番札所までは、四国八十八カ所中の
3大長距離の1つで、80~90kmもあり、私の足では3~4日もかかり
そうである。国道56号線に入ると、周囲の田んぼは霜で白一色になっていた。
窪川は高原盆地のゆえ、夜間冷却が大きいのだろう。
昼夜の温度変化が激しく、美味しいコメがとれる所として知られている。
自転車に乗った小学生が向こうから通学してくる。歩道には防護柵が
設けられ、花を植えた鉢が取り付けられていて、道行く人の心を和ませ
目を楽しませてくれる。鉢に貼られた文字を見ると、「福祉施設の生徒
さんで作った花です」とある。「まあ!生徒さん、ありがとう。」
1時間ほどで、案内板「大観峰登山口。太平洋を一望し室戸岬、
足摺岬が展望できる絶景」があった。10時ころ拳ノ川峠を過ぎると、
蛇行する下り坂となり、トンネルを次々と抜けていく。
しばらくして、
水が豊富な伊与木川を右に見る。道路脇に、「伊与木川の大うなぎ」
の説明板があり、昭和初期の頃までアユ、フナ、コイ、イダ、ナマズ、
エビなど多数の魚が棲んでいたとある。大うなぎは、この藤縄から
下流の馬路あたりに多く、長さ1.5m重さ30kgほどのものが捕れた
こともあるという。
そうだ、どこの川にも魚が、山には鳥獣が、
海には魚介類がたくさんいて、私はそれらを捕らえたりしたものだった。
標識「河口まで4km、中村まで27km」があった。
「くじらウオッチング」の看板があったので、佐賀漁協に立ち寄ると、
シーズンは5~10月、4時間の乗船賃4,500円、くじらが見える確率は
50%だという。「くじらウオッチング」は室戸、宇佐、隣の大方の
漁協でもやっているとのこと。
佐賀港を過ぎ坂道を登ると、眼下に港、鹿島、厳島が、その遠方に
興津岬があった。『これを絵に、うつしてみたし、かすむ島。
安政5(1858)年』とあり、江戸時代の人も感動したであろう。
この雄大な自然公園では、ドライブの人たちも車から降り、270度の
風景を楽しむに違いない。
少し歩くと、大きな標識「西南大規模公園、
佐賀地区」があった。窪川を出て8時間後、前日予約してあった
大方町上川口の新築の民宿「日の出」に着いた。
4.7 上川口から久百々へ
朝7時に発つ。民宿の若奥さんが庭まで出てきて、
「少し歩くと遮るものがなくなり、海からの日の出が見えます」と、
見送ってくれた。浮鞭(うきぶち)海岸にくると、東の海から日が昇り
はじめた。
南には沖合500mにかけて、高さ10mほどに湯気が昇っている。
平野の上空には煙が棚引き、右から左へと流れている。
夜間の平野で生まれた冷気が海面上に流れ出て、暖気と混合し
海霧をつくったのであろう。
この日の予定は、これまでの旅で
多少疲れてきたので、約14km先の中村市街まで行き、近くの名所を
観光案内所で教わり、巡りたいと考えていた。
防潮提と歩道がきれいに整備され、説明板に『海がめの産卵する砂浜、
くじらの住みつく海です。離岸流(巻き出し)があるので、水泳は北の
浮津海水浴場で』とある。景色にみとれながら国道から離れ、
小さな松原大橋を渡り、松林内へと入っていった。
散歩する二人連れの女性、
犬と散歩する人にも会った。この散歩道があまりにも美しいので、
女性たちに、「地元の方ですか? この散歩道は素晴らしいですね」
と声をかけた。
浜に出てみると、数kmにわたる長い砂浜、足元には色とりどりの貝殻、
弓状につながり寄せる小波、立ち昇る海霧、それを射す太陽光、
西の空には下弦の月があった。途中から、大きな歩道と低木の植栽、
並行する蛇行の車道もある。日本一の素晴らしい遊歩道だ!
「名勝入野松原」の説明板に、『長宗我部元親(1585年以前の四国の支配者)
の重臣・谷忠兵衛忠澄が中村城代のとき、囚人を使って植樹した』とある。
松は当時からの何代目かであろう。こうした松林は全国に存在した
であろうが、宅地造成その他により、近年次第に消失していることは
残念である。
この道を1時間ほど歩いたのち、古い自動車道に入った。
車はほとんど通らない。もう中村へは行かず、田野浦漁港を経て、
11時半ころ「下田の渡し場」に来てしまった。
渡しの時刻も知らないまま来たのだが、12時に客がいるかを自動車で
見に来た船頭さんから「お四国(お遍路)さんですか?」と問われ、
そうだと答えると、10人ほどが乗れる4.8トンの渡船で四万十川の
対岸まで乗客一人の私を送ってくれた。河口では人々がアオノリを
採っていた。
所々に、直径4.5cmの遍路姿の「へんろ標識」が貼られてあると、
私は一人旅ではなくて、同行者もいるような気持ちになる。
13時半頃、長さ1,620mの伊豆田トンネルを抜けた。
15時のころ、
「民宿久百々(くもも)、4km先、海からの日の出が部屋から見える」
の看板に電話番号があった。途中に公衆電話がなく、予約できないままで
歩いた。
下ノ加江小学校にくると、校庭のブロック塀には平成11年度と12年度の
卒業生による素晴らしい絵が描かれている。まもなく13年度の絵も
描かれるだろう。田んぼでは野焼きの煙が立っている。
道を教えてくれた女性に「下ノ加江は、のどかな所ですね」と言うと、
「はい」と答えた。
16時20分に民宿「久百々」に着いた。おかみさんは、
「あの看板は風で飛び場所を変えた。ほんとうは5km」と、
言い訳をしていた。
この民宿には、ひげを伸ばした遍路が後れて到着した。
この7日間の万歩計は、
3万7千+4万+3万7千+5万7千+5万1千+5万8千+5万
=27万2千歩、1日平均3万2千歩。距離は約24+25+24+38+32+36+32
=約211km、1日平均約30kmであった。
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