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5. 土佐七色の里への旅

土佐和紙は927年の頃、献上品として献納した史実から 千年余も前にすでに製造されており、また土佐日記の紀貫 之が土佐の国司として入国したとき(930~934年)製紙業 を奨励したと伝えられています。1591年の頃、土佐成山村 において新之丞と養甫尼と安芸三郎左衛門の3人が協力し て和紙の色紙を漉いたのが土佐七色紙(とさなないろし) の創製とされています。1601年、安芸三郎左衛門が土佐国 主・山内一豊に色紙を献上したことから、土佐の御用紙制 度がはじまったと言われています。ただし、土佐七色紙の 創製年については、資料によって数年の違いがあります。



5.1 旅への動機

七色紙創製の時代のことを、父・近藤利一が昭和25(1950)年に紙芝居 「御用紙物語」として作ってあった。当時、父・利一は成山小学校の校長、 母・郷は3・4年生の複式学級の教諭(昭和23年4月~25年3月)をしていた。

母の記録によれば、4年生4名に紙芝居を発表させるため、紙芝居の前書き 文を作成し、絵は父の原画を元として生徒に大きく描き直させ使ったよう である。

私は、紙芝居を小学生に何処で発表させたかを知りたくて、後掲の小森武 さんを通して小森美枝さんや近藤芳子さんから話を聞いてもらったところ、 小学校4年生は近隣の町村をまわり、七色紙のふる里・成山を紹介した そうである。当時は交通 が不便なゆえ他村で宿泊したこともあったが、それが楽しい思い出として 残っているという。こうした、ゆとりのある総合教育の授業を父や母が 実践していたことに感心した。

記録によれば、1950年当時、神谷(こうのたに)村の成山小学校には52名 の児童がいたが、1985年以降、児童数はゼロとなり小学校は廃校、 その跡地に「土佐七色の里」(多目的施設)ができている。 なお、神谷村は昭和29(1954)年に伊野町に合併された。

今回、父の「御用紙物語」をホームページに公表したいと考え、その前に、 私は「土佐七色の里」を歩いて訪ねることにした。仁淀川に沿う国道194号線 から成山へは、伊野仁淀川橋の近くの谷地区から入る道と、神谷奈呂地区 から入る道があるが、当時を偲ぶために、紙芝居の前書きに記されている道、 つまり後者に沿って歩くことにした。

5.2 紙芝居の前書き(昭和25(1950)年の記)

 私たちの生れた成山は土佐製紙の原産地として今もなお、その名が 知られています。これから製紙の由来について発表いたします。 先ず、成山にいたるまでの道案内をご説明させていただきます (地図を使う)。

きれいな仁淀川に沿って、伊野からのバスは右に曲がり左に折れて 典具帖紙の産地・神谷村へと進みます。川をへだてて左に高く見える 波川の城は、のちほど出てきます波川玄蕃(はかわげんば)の守(かみ) の城跡(しろあと)でありまして、今もなお、ながめ見る人に深い おもいをよびおこさせます。約15分ほどして神谷橋の西づめでバスを 降ります。

ここからは山と山にはさまれた小野(この)の谷川に沿って足をはこびます。 道々、紙の原料となるコウゾの皮などの紙草を洗う女の方や、草を積んだ車を 引く青年たちに会い、 また、紙すき歌をうたう紙漉きさんの元気な声を右に左に聞き、 目にしみるようなまっ白な紙板を眺めながら奥へ奥へと進みます。 (紙板とは、漉きあがった和紙を刷毛を使って、幅90センチメートル 高さ2メートルほどの木の板に張り付け、庭に立てかけて乾燥させるために 用いる板。) 小野の橋あたりからは谷川の水音はますますさえて、谷あいの眺めは 深山を思わせます。

前田の橋を渡り右に大きく曲がると、あと5分間ほどして成山への 近道にさしかかります。このあたりは蛇紋岩(じゃもんがん) の地質で、秋はあたりに生えているドウダンツツジが松やその他の 雑木林の緑にはえて目もさめるような錦(にしき)を織ります。

また、この地質特有のコケリンドウやウメバチ草など咲き乱れ、 道を行く人の目を楽しませてくれます。

	『秋の成山もみじのにしき 黄金色なす田んぼ道』
という紙すき歌はこの眺めをうたったのでしょう。

やがて小学校の前を通り峠にむかって登りますが、 その山の中ほどに清水が湧き出ているところがあります。 この清水川のきれいな水は御用紙を漉いた時代に紙草を晒(さら) したところでありまして、夏は冷や水を求めて村人がひと息入れる ため集まり休みにくるところです。一年中切れることなく清水が 湧き出ています。

	『名さえ清水の川霧晴れて 歌で紙草さらす群』
こんな紙すき歌が「道しるべ」に書かれています。

急な坂道を約300メートル登ると「坂の峠」に着きます。 見渡すかぎり広々とひらけた眺め、遠くには太平洋が潮なりをたてています。 谷底から立ち昇る煙は木炭を焼く煙です。

この峠は「仏が峠」と申しまして、この地に伝わる物語を これから紙芝居によってご説明させていただきます。

5.3 出発

2003年7月5日、私は、県交北部交通バスにて神谷の叉白(またしろ) 停留所にて下車、8時から歩き始めた。 昭和25(1950)年の記では、神谷橋から小野の谷川に 沿って北の方向へ入る、と記されていた。今回はその旧道を見ながら、 新しい車道を歩くことにした。

神谷中学校と神谷幼稚園の間を通る車道が 成山へ通じると聞く。紙芝居の前書きにあった紙漉き風景は、 もう見ることはできない。歩き始めて25分ほど経つと岩に砕ける 谷川の轟音が聞こえてきた。曲がりくねった舗装の車道は、素晴らしい ハイキングコースである。

少し開けたところに畑があり、おばあさんが畑仕事をしていた。 谷川に架かる橋が見え、その手前で分かれ道となっている。 紙芝居の前書きに「前田の橋を渡り、右に大きく曲がる」とあったので、 ここで確かめることにした。「ここは前田ですか?成山の七色の里へは どう行くのですか?」と尋ねると、「はい、ここは前田です。成山へ 行くには左の道でなくて、橋を渡って右へ進んでください」と教えられた。
前田の分かれ道
谷川もここで二つに分かれ、その一つは北の方向へ、他の一つは東の成山 の方向へと延びていた。観光ガイドマップでは、谷川と道路との 関係が違っており、さらに七色の里への道はまったく違った経路と なっている。これまで私は地図を参考にして方々歩いているが、 地図の不正確さに時々出くわす。

前田の橋から成山へは一本道で、途中に近道もあり案内板もあると 教えられた。進路の右側にある深い谷川の向かいに段々畑が見え、 ほとんどが放置状態となっている。山間農村部における過疎化の姿が ここにもあった。

私は、昨年2002年の冬に伊豆の河津~下田への旧道を歩いたときの ことを思い出した。 伊豆河津町縄地地区では1600年の頃、金山があり8,000軒の家と9つの寺が あったが、現在は120軒ほどで寺は一つしか残っていない。舗装された車道 では、人にも車にもめったに会わなかった。

5.4 七色の里(記念の建物)

歩きはじめて1時間45分が経過。数軒の人家があり、その中に人家より 少し大きめの屋根が見えた。道で女性に出合ったので、私は上の方を 指差して、「七色の里はあれですか?」と尋ねると、そうだと教えられた。 9時50分、万歩計1万歩で「土佐七色の里」に着いた。
七色の里
「土佐七色の里」の戸・窓は閉められていたが、周囲の多くはガラス戸 であり、ひと回りして内部の様子をうかがうことができた。玄関にある 二重の戸の一つ目は開き、そこには成山の本村の今・昔の写真が掲げら れていた。公衆電話機が設置され、管理人宅の地図と電話番号が掲示 されていた。電話をしても出ないし、管理人宅へ行っても留守であった。

昔の成山のことを聞くために、その他のお宅に行っても留守であった。 仕方なく峠の方向へ歩き始めると、農作業から帰る途中の女性(安部さん) に会う。私が成山を訪ねたわけを話すと、きょうは旧暦6月6日で、 峠にある神社の「ぎおん祭り」だという。最近は人口も減少し、 昔のような祭りは開けなくなったが、形だけでも残すための、年に一度の 行事で、皆さんが集まっていると聞いた。

「昔の紙草を晒していたという清水川はどこにありますか?」と 尋ねると、安部さんは前方の水タンクの方向を指して、 「いまは水道の水を取り、峠にも水は揚げていますが、以前はあそこで 紙草を晒していました」と教えていただいた。 脇道に入り、清水の湧き出ているところに行ってみると、水は僅かしか 流れていない。旧道はここを通り、紙草を晒す人、冷や水を求めてくる 人の姿が想像できた。

清水川の近くに案内板があり、土佐七色の里まで0.2km、 峠まで1.1kmとある。この距離はゆるい勾配の車道の道のりである。 紙芝居の前書きには「ここから約300メートルの急坂を登ると峠に着く」 とあり、旧道はかなりの急坂だったことが想像できる。私は50余年前、 一度だけ峠のほうから成山へ来たことがある。

その時の風景を思い起こすために坂の途中で成山の本村を振り返ると、 谷筋に沿って造られた段々畑の水田には稲が植えられ、北側の斜面には 数軒の人家が見える。しかし、昔見た風景はまったく思い出せず、 私は完全に忘却している。
本村を望む

5.5 仏が峠

清水川の近くから25分間ほど歩いて、ちょうど11時、万歩計1万4600歩 で峠に着いた。ここからの眺めは紙芝居にあった通り、素晴らしい。 梅雨休みのかすんだ視界ながら、南には太平洋が見える。

いま、この付近は「成山和紙の里公園」として整備されており、和紙の 原料となるコウゾ(楮)やミツマタなどが植えられている。

新之丞記念碑はすぐに見つけられた。記念碑には「紙業界の恩人新之丞君碑」 と刻まれており、大正5(1916)年9月建立とある。この記念碑の台座の 南側に接して小さな石のお堂があり、中に小さな石の仏があった。 これが紙芝居に述べられている石の仏だろう。
新之丞記念碑
記念碑のそばに、伊野町によって作られた案内板「土佐七色紙の伝説」 があり、次のことが書かれている。

次の『 』の案内文の掲載は、いの町の許諾を受けたものである。

『慶長初年(1596年)の頃、成山村の小道で、突然の病に苦しむ 伊予国日向谷村の新之丞という旅人がいた。哀れに思った養甫尼と 安芸三郎左衛門家友が介抱し全快した後、3人は協力して和紙の色紙を漉いた。 数年を過ぎて新之丞は帰国することになり、別れのあいさつを交わし、 この坂の峠に来ると見送りに来ていた安芸三郎左衛門家友が背後から 斬殺した、というものである。それは、紙漉きの技術が他の土地に もれることを防ぎ、村民の利益を守ろうとする戦国時代の背景があった。 このときの色紙が、土佐七色紙の起源といわれている。後の慶長6年 (1601年)、安芸三郎左衛門家友が土佐国主・山内一豊にお目通りを 許された時、持参した色紙が悦ばれ、徳川将軍の献上紙になった。 その後、土佐藩は成山村、伊野村に24戸の御用紙漉き家を指定し、 色紙の秘密を守った。安芸家は十石給地を受け、製紙の役職を明治維新 まで勤めている。大正8年(1919年)、土佐和紙生産の功を賞して、 従五位の追贈を受け墓碑は横藪にある。』

この内容は伊野町の郷土史研究家の故・岡田明治氏によると聞く。

新之丞記念碑の広場より数メートル高い位置に八坂神社があり、 村人たちが「ぎおん祭り」のために周辺一帯を掃除していた。 最近改修した神社には木製の札が数枚あり、もっとも古そうに見える 札には「文政七年奉献金麻」(文政7年は1824年)と書かれていた。

掃除中のひとりに、私が成山を訪ねたわけと、父と母のことを話した。 母・郷が紙芝居の前書きに付記してあった小学校4年生の中平恵くん、 小森美枝さん、谷節子さん、近藤芳子さんのことを尋ねると、 「いまは4人とも他所に出て成山にいないが、自分は小森美枝の 兄・小森武です」という。そして私の名前も姉・妹・弟のことまでよく 知っていた。武さんは私と同じ昭和8年生まれであるので、父の小学校の 教え子ではないはずだ。

不思議に思い尋ねると、父・利一は当時青年団の人たちとも親密にして いた関係で、退職後も小森さんたちが伊野の自宅をしばしば訪ねた。 その当時、私は仙台の大学にいて伊野には居なく、小森武さんのことは 知らなかったが、私のことは父から聞いて知っていた。何という 奇遇!この日、成山へ歩いてきたことが幸運だった。

現在の車道は新之丞記念碑のある広場の南側を通っているが、旧道は その記念碑のすぐ北側にあり、成山へは急坂を降りていた。 「また峠に戻ってきます」と告げて、私は紙芝居に出てくる高森山 (うばが森)へ行くことにした。

案内板では峠から15分とあったが、 その通りであった。高森山は玄蕃の妻・養甫尼が寂しさを慰めるために、 南に見える波川玄蕃の城を眺めたところである。そこには小さな石の お堂があった。山頂からの視野は峠からよりも広く感じた。

眼下には太平洋に注ぐ仁淀川と、仁淀川橋、JR鉄橋、仁淀川大橋、 さらに伊野や波川の街並み、遠方に高知市が見えた。春野町~土佐市 に架かる仁淀川大橋は昨年の1月、四国遍路の歩き旅のとき渡った橋である。 波川玄蕃の城址の方向は生い茂った樹木に遮られて、残念ながら 見えなかった。視界がよい日には室戸岬や石鎚山も見える、と案内板に あった。
高森山から仁淀川を望む

5.6 悲恋物語

峠に戻り、八坂神社から数メートル下にある芝生の生えた広場に目を 向けると、隅に地蔵堂がある。その扉の上に木板が掛けられ、 次の内容が書かれていた。

次の『 』に引用した文章の掲載は成山・小野活性化の会代表、
いの町小野の森本信利氏の許諾を受けたものである。

『天保12(1841)年7月7日、天神様境内での悲恋。 "村次"という容姿に優れ、心も優しい若者がいた。ひそかな慕情を焦がす 乙女多く、中でもわが命と慕う"須波"、"お佐意"、"お純"の3人娘は 仲睦ましい友であった。ゆえに苦しんだ。"村次"を友にゆずるも悲し、 取りあげるも悲しと。村次とて今生でとげるすべなき恋ならば天国にて 結ばれんものと、ひそかに宮の境内に集うのだった。今生最後の身の粧いも 終った3人の乙女は愛しい男と死の旅に出る。村次は3人を斬り、 切腹したが死にきれず実家に兄を尋ね、とどめを頼んだが、兄は 「ここでは娘達に義理が立たぬ」と、よろめく村次を坂道に押し上げて、 3人の娘の居る境内に連れて行き、手に手をとらせ「仲良く行け」と 言ってとどめを刺してやったと伝えられている。 (平成6年4月、活性化の会筆)』

お堂の中には5体の地蔵がある。そのうち右端の地蔵には大正5年と 刻まれており、どこかの道端に置かれていた地蔵がここに移設されたと 思われる。他の4体の地蔵には天保と刻まれており、3体は女性の衣装で あるので、"須波"、"お佐意"、"お純"の3人娘を表わすものであろうか。
地蔵堂

5.7 ぎおん祭り

成山の人たちによる付近一帯の掃除作業は終り、広場にござを敷いて 「ぎおん祭り」の酒を交わす準備をしていた。「せっかくだから 一杯飲んでいきませんか」と誘われ、私も加えていただいた。 「土佐七色の里」の管理人・西内チエコさんも参加しており、 お宅が留守だったわけがわかった。
ぎおん祭りの人たち
現在の成山は本村と北成山を合わせて23軒である。今年のぎおん祭りは 北成山の人たちが当番である。北成山の人たちと本村の数人を合わせた 12軒の人々に会うことができた。皆さんは、私が父・利一の顔に似て いるという。

小森武さんから、昭和25年当時のぎおん祭りの様子も教えていただいた。 広場には、相撲の土俵の形がいまも芝生の起伏として残っており、 小学生は男女の区別なしで相撲をとったという。祭りには店も出ていた。 父は青年団の小森さんらを連れて高知の菓子卸から一粒1円の飴玉を70銭で 仕入れてきて商売のやりかたを教えてくれた、などの思い出話を楽しそうに 語ってくれた。

昭和前半の時代まで、どの村でも祭りは、その村の人ばかりでなく 隣の町村から親戚・知人たちが集まり、賑やかであったことを懐かしく 思い起こした。

5.8 幸運な旅を終える

私は、父と母が残してあった記録と、村人たちの思い出話しから昔の 成山を偲ぶことができた。この日は楽しかった思いをいっぱいに、 午後2時30分、峠の広場で成山の皆さんにお別れし、坂道を下った。 途中の横藪には「安芸三郎左衛門家友の墓」、「太刀洗いの水」、 養甫尼の住んでいたとされる「うば屋敷跡」があった。

峠から伊野仁淀川橋たもとまで5.6kmの道のりを70分間で下った。 この日の万歩計は合計2万8400歩を示していた。

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