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2. 伊豆・石廊崎への旅

平塚から小田原、真鶴、熱海、伊東、伊豆高原、下田、 伊豆半島先端の石廊崎までの歩き旅の記録です。

2.1 高麗山
2.2 金時山の思い出
2.3 石橋山古戦場
2.4 真鶴と湯河原
2.5 熱海の海岸
2.6 錦ケ浦と伊東
2.7 伊豆高原
2.8 熱川温泉と稲取温泉
2.9 竜灯の崎
2.10 河津
2.11 金山跡と白浜
2.12 下田
2.13 石廊崎

2.1 高麗山

私は遅い速度だが、三浦半島の先端まで行き、長距離を歩く 自信がついた。こんどは西側の伊豆半島の南端まで行って みたくなった。距離は2倍半ほどあり、なめらかな線では 100キロ、道程では寄り道や回り道も含めれば150キロはある。

平塚から西に向かって国道1号線を進み、大磯の花水橋 から西に200メートルほどのところで右折、 高来(たかく)神社の鳥居に入り、高麗山に登り始める。 「関東ふれあいの道」の立て札がある。

休み休みに30分間の「女坂」の急坂を登ると山頂の 大堂にたどり着く。 以前ここには、大堂の建物があったが今はない。 ベンチの脇に「高麗と若光」の説明板がある。

『昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、 相模国をはじめ東国七州の高麗人 (こまじん)を武蔵国に移して高麗郡をおいた。 奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、 日本に難を逃れた人も多くその中に王族のひとり高麗若光もいた。 若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化して この山のふもとの化粧坂(けわいざか)あたりに住み、 この地に高度な文化をもたらした』とある。

高麗山の山頂から尾根つたいの道では、年配の夫婦、 ひとり歩きの男や女、子供連れの一家などに会う。 見知らぬ者同士が「こんにちは!」と声を掛け合うのは 気分がよい。私はこのコースを何度となく歩いている。 道端の木々には名札が付けられている。 クヌギ、イヌシデ、ネムノキ、アラカシ、ミズキ、 マユミなどは私には珍しい名前である。

やがて浅間(せんげん)山に着く。小さな神社「浅間社」 があり、説明板には、『江戸時代、雲をぬいて天高く そびえる富士山を神とした信仰が広まった。 しかし、富士登山は費用と日数がかかり、女人禁制でも あったため、浅間社を富士山の見える高台や山頂にまつり、 そこにお参りすることにより願いが富士山に通じ ると、庶民の間にひろまり厚い信仰を集めた』とある。

私は、浅間の名がつく神社や地名があちこちにあることを 不思議に思っていたが、この説明から訳がわかった。

すぐ西にテレビ塔の見える湘南平に着く。

ここへは北側から自動車道もあり、いつも大勢の人が遊びに 来ている。展望台に登ると、相模湾が一望できる。 北西方向に富士山、東には横浜方面、視程がよい日にはベイブリッジ も見えるらしい。眼下には平塚市内、大磯、やや遠方には プリンスホテル、その手前には戦後の総理大臣・吉田茂の旧邸 がある。

ひと休みしたのち、もと来た尾根伝いの道を200メートルほど戻って、 大磯へ降りて行くと、途中に古墳時代の横穴群があった。



2.2 金時山の思い出

再出発である。旧吉田邸と国道1号線をはさんだ北側に 大磯城山公園がある。
朝、展望台に登ると金属板で作った鳥瞰図があり、どれが 富士山、金時山、・・・等々が説明されている。 伊豆の山々がよく見える。私は、あの伊豆の南端を目指して いるのだ。

小田原市に入ると、幅広い酒匂川がある。橋のたもとからは 富士山は山頂部分しか見えなくなった。

箱根の山々と金時山を見て、昨年(2001年)秋の11月11日に 登ったときのことを思いだした。 金太郎のふる里・足柄山とは足柄峠、金時山など、 箱根の山々を指す呼び名である。金太郎が生まれたのは 今から1000年余の前のことである。

標高1213メートルの金時山の頂上から見た景色は 素晴らしかった。金時山は、神山(1438メートル) や駒ケ岳(1357メートル)などの箱根火山をとりまく 外輪山の最高峰であり、 西方には富士山、愛鷹連峰や駿河湾、南には足元に 仙石原、芦ノ湖、白い噴煙を上げる大涌谷や箱根の山々、 東には相模湾、遠くには南アルプスを望むことができた。

頂上はほとんど満員の状態で、年配の人々が過半数を しめていた。富士山を背にして記念撮影するのに適当な場所 に「天下の秀峰・金時山」の標識があり、人々は、 金太郎のマサカリを担いだポーズで、写真に納めていた。
金時山からの富士山

2.3 石橋山古戦場

小田原から海岸に沿って早川を過ぎ、山が海にせまる地形が 続きはじめたころ、石橋山古戦場跡の案内矢印があった。 ちょっと寄ってみよう。鉄道トンネルの上を登って行くと、 段々畑にみかん園が続き、佐奈田霊社がある。

与一塚や石橋山古戦場と彫った石碑があり、 また、『治承4(1180)年に源頼朝が挙兵した所であり、 佐奈田与一は15騎で75騎の平家軍と戦った。 与一は敵の将を組み敷き討とうとしたが、短刀に付いた血が 固まり短刀がさやから抜けず手間取っているうちに駆け つけた敵のために25歳の命を散らした。 十年後に頼朝はここを訪ね、しのび涙を流した』とある。

古戦場からもとの自動車道に戻り歩き進むと、 山が迫り歩道はなく、下は絶壁となる。波打ち際に散在する 大きな岩で磯釣りをする人々が小さく見える。根府川駅 が間近になり、少しだけ余裕のできた道路脇に「地平天成」 と彫った大きな記念碑がある。

『ここは大正12(1923)年の関東大地震のとき大崩壊 して小田原・熱海間が交通遮断になった』という内容が 書かれている。なるほど、将来も、大崩壊の起きそうな海岸地 形に見えた。

午後3時、根府川駅前のテントでミカン売りをしていた女性に、 「真鶴まで行きたいのですが、途中には歩道はないですか?」 と訪ねると、ないという。夕方は危険だと判断し、この日の旅は ここまでとした。



2.4 真鶴と湯河原

日の出とともに根府川駅から歩き始めた。日の出はいつ見ても 美しく、しかも同じではない。 右や左に曲がる道を進むと、眼下の白糸川鉄橋をトンネルから 出てきた新幹線が高速で渡り、またトンネルへと消えた。

集落があり表札「大野」の掛った門柱の脇に「天正庵跡」 があった。『天正18(1590)年、豊臣秀吉の 小田原戦役の際、諸将の労を慰めんとして、 利休らに命じて大野屋敷内に準備をさせて、秀吉みずから 茶を点じ、徳川家康ほかに給わり、・・・躍れ躍れと興じ た』とある。

真鶴が前方に見えて、坂を下りていくと、車を止め、 脚立に立ち高級カメラを構えたカメラマンが2人いた。 「列車を待っているのですか?」と聞くと、そうだという。 私はここがよい場所なのかと考え、彼らに付き合うことにした。

10分間ほど待つと、音響が前方の下から聞こえてきた。 オレンジとグリーン色の湘南電車が現れるものと予想していたのに、 意外にも、上り寝台列車ブルートレイン15両が S 字形に なってカメラに入った。カメラマンたちは、珍しくなった ブルートレインを追い、時間を計算して待っていたのだった。

真鶴駅前から港へ向かって降りていくと、遊覧船第1便が 10時に出るという。心地よい音量で音楽が流れている。 だれかが「加山雄三だ!」という。乗客は私、アベック、 娘と父親、子連れの夫婦、ほかに若者3人連れである。

半島の反対側まで30分かけて海上から眺める。 真鶴半島は相模湾に3キロほど細長く突き出ている。 岬の先からは細長い岩礁が続き、最先端には3つの 山の形になった「三ツ石」がある。

港へもどり、再び岬の先へと歩く。 この半島は樹齢350年以上の松やクス・シイなどの 原生林で覆われている。林道には野鳥もいる。 小さな窓をつけた野鳥観察小屋があった。 若者が足早に私を追い越して行った。

岬の展望台にくると、バスや車を連ねてやってきた大勢 の観光客で賑わっていた。

展望台には、幕末の台場の遺跡として、 『江戸時代の末期、外国船が日本の近海に現れるようになり、 小田原藩では、この真鶴岬ほか合計5ヶ所に砲台を築いていた』 と記されている。右手には湯河原・熱海の海、南には伊豆大島、 左手には相模湾が一望できる。

これを詠んだ与謝野晶子の歌碑があり、 『わが立てる真鶴岬が二つにす、相模の海と伊豆の白波』 と彫られている。裏面には、『晶子はしばしば来遊し、 昭和6年12月に社中一同ときて歌会を催し・・・・ 真鶴を世上に紹介した』とある。

真鶴駅前にもどり、バス道路を進むと、湯河原市街の 入口に小道地蔵堂があった。『石橋山の合戦で敗れた 源頼朝が、僧の純海にかくまわれた。その恩に報いる ために頼朝は土肥山中に新御堂を建てて純海に与えた。 のち、本尊の地蔵石像は現在地に移した』とある。

湯河原のはずれに、「静岡県熱海、伊豆半島入口」の標識が見え、 いよいよ伊豆に入ったことを知る。 有料道路と旧道の分かれ道で、釣り道具を自転車に載せた 俳優の藤岡琢也さんに似た人に会う。 「熱海までは、この山を越えるのですか?」と聞くと、 その人は驚いて、「へえ! 歩くのですか?熱海までは かなりの距離がありますよ。山は越えなくてよいの ですが、坂を30分くらい登れば、あとは1時間半くらいで 熱海です」と教えられた。

真鶴岬先端から見ると、 湯河原と熱海はすぐ隣のようだったので、私は1つの崎を 過ぎれば熱海だと思っていたが、途中には見るものもあり、 湯河原から2時間もかかって熱海に着いた。

2.5 熱海の海岸

夕刻の海岸に降りて行くと、道路の南側は広く なり公園として整備され、海浜はきれいな細砂が広がっていた。 歩道をかねた格好のよい防潮堤が造られていた。

熱海湾に突き出た遊歩公園「熱海ムーンテラス」があり、 4本の灯柱が照らしている。灯柱には星をちりばめたように 輝くミニ電球が埋められている。空からは十三夜の月が輝 きを添えていた。テラスの先端近くには、 糸を垂らした釣り人たちのシルエットがあった。 この光景に私は心の安らぎを覚えた。
熱海のムーンテラス
水平線上に初島と大島が見える。観光船が音もなく、 沖あいの防波堤のところで右に折れて波止場へと帰港している。 そのうしろに錦ヶ浦があり、熱海城が見える。しばらくして、 北向きに目を転じると、斜面に並ぶ温泉ホテルの夜景がある。 所々に暗闇のホテルがある。平日でお客が少ないためなのか、 時代の移り変わりのせいなのか。

東海岸に向かって歩くと、名所「お宮の松」がある。 記憶は定かではないが、松は30数年前の姿よりは かなり成長していた。大きい松と小さい松が寄り添っている。 次のような内容が記されている。

もとの松は江戸時代前期の1645年頃、老中松平伊豆守信綱が 植えさせた松の1本であった。明治30(1897)年から 読売新聞に連載された尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に、 主人公の貫一とお宮の泣き別れの場面として熱海海岸が登場し、 また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行した。 そうして、「金色夜叉」の碑が建てられた。

この碑には紅葉の門人であった小栗風葉の句 『宮に似たうしろ姿や春の月』が刻まれたことから、 この松はいつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の名所となった。 観光地としての発展にともない、自動車の排気ガス、 その他の事情により、「お宮の松」は枯れだした。 そのため、熱海市では2代目「お宮の松」の選定を始めた。 熱海ホテルにあったクロマツが「お宮の松」として選ばれ、 国際興業の社主・小佐野賢治氏より寄贈を受けた。

2代目「お宮の松」を寄贈した小佐野賢治氏とは、 元総理大臣・田中角栄氏の親友であり、1976年に 発覚した多額のわいろ事件で日本中を驚かせた人物である。 この事件で田中角栄氏は逮捕されることとなった。

「お宮の松」のそばに「貫一とお宮の像」がある。 マント姿で下駄を履いた貫一がお宮を右足で蹴り離している。 この像の背中から十三夜の月が照らしていた。

金色夜叉のクライマックスとされている前編第8章は、 次の文章から始まっている。 『打ちかすみたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、 ほの白き海はひょうぼうとして限りを知らず、たとえば 無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の 音も眠げに怠りて、吹きくる風は人を酔わしめんとす。』 昔の無声活動写真の時代、弁士のこの語りに観客は酔い、 感動したことであろう。



2.6 錦ケ浦と伊東

日の出前の熱海ムーンテラスには、その先端へ、 日の出のほうへと歩く新婚らしい2人連れがあった。 私は海岸沿いの旧道を南へ向かって歩き始めた。

短いトンネルを抜けて錦ヶ浦にくると、竜宮城を連想させるような 風景があった。海面近くには波による見事な造形美の絶壁、 急斜面には自然と調和した人工の階段が踊り場でつながり、 レンガ造りの美しい歩道脇の梅の木には花があった。

この風景は、写真ではとても表現できそうにもない。 こんな道を歩いている私は嬉しかった。岸から離れた岩礁では、 すでに釣りをする人々がいた。

赤根崎では、雲の切れ目から海面に放射する太陽光が 全反射してきてまぶしい。3時間余りで伊東市の入口を 示す標識があった。御石ケ沢トンネル(536メートル) 内の歩道幅は70センチほどで、車の走る轟音で怖さを感じた。

宇佐美城址の手前から階段を下っていくと旭光山行蓮寺と 書かれた寺の庭に出た。庭から道路に降りる20段 の石段の上から3段目に「大正12年関東大震災つなみ浸水地点」 と刻まれた石標があった。持参していた、ポールペンほどの 簡易水準器と1メートルの巻尺を使って目測してみると、 石標のレベルは海岸の防潮堤より約1.7メートル高い ことがわかった。

あとで伊東市役所生活安全課に行って聞いたことだが、 1977年の市の調査によれば、過去の津波記録が 6つの寺に残されていることが判明し、市内の数箇所に 「つなみ浸水地点」の石標を設置したという。 私は、こうした重要な仕事をした伊東市を誉めたい。 沿岸各地の市町村でも、住民の目にふれる場所に過去の 津波記録を明示し、災害時の避難の目安に役立てて欲しい。

海を見ると、白い砕波帯が長さ1キロの弓状の曲線につながり、 3重になって次々と砂浜に寄せていた。この海岸が遠浅の せいであろう。防潮堤にいた男性に「この波はきれい で面白いですね」と声をかけたことから、会話が続く ことになった。

50歳のこの男性は、3年前に脳梗塞で 半身不随となり、身体障害者1級と認定された。 リハビリによってかなり良くなったが、話すのは少し変だと言う。 しかし、私にはまったく気付かないほどに手足も、 話すことも回復している。心臓や脳梗塞で悪くなった人は、 のんびり暮らし、歩くことがよく、東京から車でこの海岸に 遊びにきているという。

午後1時ころ伊東海岸に到着した。 美しいオレンジビーチには地元出身の木下杢太郎(も くたろう)の歌碑があり、「海の入日」として、 『浜の真砂に文かけば、また波が来て消しゆきぬ、 あわれはるばる我おもひ、遠き岬に入日する』とあった。 詩の前半からは、私は子供のころ波で崩される 砂の城や舟を作って遊んだことを思い出した。

杢太郎の歌碑のことを知りたくて、観光案内所で教わった 木下杢太郎記念館に行き、資料を調べてみると、この詩は、 少し東南にある新井の磯付近で、杢太郎24歳のとき、 はるか北の丹沢大山に映る夕日の影を見ての作であるらしい ことがわかった。

新井から川奈港へ向かう途中に汐吹岩がある。 ここでは外洋からうねりの峰が押し寄せるごとに、 海食洞穴内の空気が圧縮されて海水を霧にして高く 吹き上げている。
汐吹岩
この沖約700メートルには手石島がある。 1989年には近くで海底噴火があったが、島は形成さ れなかったことを思い出した。この日は、川奈駅までくると 日暮れがせまっていた。



2.7 伊豆高原

川奈駅から小室山(標高321メートル) へと歩いた。きれいに整備されたつつじ園には 「小室山を詠ふ」の歌碑に、俳句大会で選ばれた 5つの俳句の一つに、『つつじ燃ゆ伊豆の近か富士親しらす』 がある。

これを読み、私は20歳代の学生時代、夏休みにも 故郷へ帰らず研究に夢中になっていたころ、 いまは亡き母からの手紙できた、『ぼんぼりのかげ堀に ゆれ城まつり』の句を思い出し、歩きながら反復すると、 何かこみ上げてくるものがあった。

一碧湖にくると、釣りをするボートが数隻見えた。 船着場の脇に石碑があり、「この湖には昭和35年 皇太子殿下(現天皇陛下)がアメリカから持ち帰られた フルーギルが放流され、釣り人たちの遊漁資源として・・・・」 という内容が記されている。この時代、外来種の放流は 生態系に重大な影響をもたらすという可能性が、 まだ理解されていなかったのであろうか。

湖を半周したところの歌碑に、 『初夏の天城おろしに雲ふかれ、みだれて影す伊豆の湖』 (与謝野鉄幹)とある。きょうの対岸の上空には未発達の 積雲が3つ、4つと浮かび、それが湖面に映っていた。

伊豆高原のバス道路の歩道を1歩1歩と登っていると、 同年輩の男性が私を追い越してから、振り返り話し掛けてきた。 男性は東京で定年後、ここに移り住んでいるという。 800戸ほどの別荘・住宅があり、みなさんゴルフや歌会など で楽しんでいるという。

右手に赤褐色の肌をした大室山(581メートル)が見える。 この色は、山肌には樹木がなく、枯草で覆われていることによる。 毎年2月の第2日曜日には山焼きが行なわれるそうで、 夏の山肌は鮮やかな緑色に覆われるだろう。

大室山は約5,000年前に噴火してできた、比較的に新しい山 であり、噴火口の直径は300mと聞く。 この付近一帯はその昔、噴火活動が盛んであった。 それらの溶岩流でできた緩斜面上に造られた国道135号線を下った。

伊豆高原駅に着くと、広場では 若い男女のグループと中年女性が集まっている。 やぐらに「美足の湯」とあり、みんな素足を湯に入れている。 私も仲間に加わり、足を暖めた。私は若い男女に向かって「みなさ ん高校生ですか?」と聞くと、「24歳から30歳ですよ!」 と笑いながら答えた。こんどは、中年女性が「きょうの湯は 普段ほど熱くないですね」と話し掛けてきた。



2.8 熱川温泉と稲取温泉

強風が止み好天となった。 都会風の造りの伊豆高原駅とクスノキの大木をあとにして、 国道135号線を南に向かった。やがて歩道は右か左かの 片方だけとなる。常緑樹に覆われた高原道路の脇には古い 溶岩が転がっている

伊東市赤沢を過ぎて東伊豆町に入ると、山が迫り歩道はなく、 白線の外側の歩行幅はほんの僅かとなる。すぐ下に巨大な ライオンが海に座った形のライオン岩があり、波打ち際 にはたくさんの岩が転がっている。私が小学生のとき、 通学路の沖あいに、同じ名前の岩があったことを懐かしく 思い出した。

北川(ほっかわ)温泉の南にあるトンネルを歩くの は危険なので、国道から離れて海岸道路に入った。 立ち並ぶ温泉ホテルの中に、ちょっと格好のよいホテルがあり、 映画で見た「千と千尋の神隠し」にでてくる高層の湯屋を連想 した。

海岸道路から山の旧道に登っていく途中で歩行中の若い男女に会った。 歩き旅の者かと想像し、声をかけると、彼らは中国人であった。 香港から遊びに来て、京都、奈良、・・・・ 方々を巡り、この温泉のホテルに滞在しているらしい。 林の中のありふれた植物が、彼らには珍しいのであろうか、 男性はそれらをカメラに納めていた。

熱川温泉街が見え、急坂を降りると、猿と並んだ太田道灌の 像があった。『昔、武将の太田道灌がこの地に立ち止まると、 猿や猪が川のほとりに湧き出る湯にて傷をいやす姿を見 て、「熱川」と命名し、自らも疲れを癒した。 そうして、この地より江戸城築城のための石切出しを決めた』 とある。

太田道灌とは、室町中期、江戸城など諸城を築いた武将である。 道灌は遠出のある日、にわか雨にあい、蓑かさを借りようと 農家にかけこみ、声をかけると、出てきたのは娘で あった。娘は外へ出て行って手にしてきたのは蓑ではなく、 山吹の花一輪を差し出した。

しかし道灌はその意味がわからぬまま、蓑を貸してもらえぬ ことを悟り帰途についた。その夜、道灌は近臣から、 『七重八重、花は咲けども山吹の、みのひつつだに、 なきぞ悲しき』の和歌があることを教えられた。 その娘は、蓑のひとつもない貧しさを恥じたものだが、 しかし、なぜこの歌を知っていたのかと、 道灌は己の不明を恥じ、この日から歌道に精進 するようになった。

片瀬温泉と白田温泉を過ぎて友路トンネル(425メートル) にくると迂回路はない。トンネル内に歩道はなく、 少し登り坂で、白線とトンネル壁の距離は僅かしかない。 自動車が次々ときて、まるで両眼を光らした怪物に 襲われるように思えた。一部の運転手は私に気づき速度を 落とすが、中には猛スピードですれすれに通り過ぎる車もある。

私は緊張のあまり、鼓動が高まり休み休みにしか進めなくなった。 その昔、唐の玄奘三蔵が辛苦の旅をして天竺に辿り着いた ことと比べられないが、ふと、そんなことを想像してしま った。

稲取温泉の漁港の近くに「栗田」の表札が掛った家があり、 玄関の両脇に直方体の大きな石が2つあった。 説明板には、『この築城石は稲取の畳石として知られた ものである。徳川家康の命令によって江戸城大修築が 続いたとき、課役大名の土佐藩主・山内忠義(山内 一豊の甥、2代藩主)の石丁場がこの地に置かれていた』 とある。畳石の寸法を測ってみると、断面は1.3メートル 平方で長さは3メートルである。

2.9 竜灯の崎

今井浜の手前から、海岸沿いの旧道へと入る。 竜灯の崎(竜ケ鼻)の石碑には、『いまから700年余り前、 鎌倉大地震のとき、波とともに怪しい炎が発生し一晩中消えな かった。それを村人は神社へ御灯明を上げに来た竜神で あろうと話し合い、以来、竜神を信仰するようになった』 とある。

この大地震は1293年5月の永仁の鎌倉地震を指すも のだろうか。大地震のときの発光現象はよく聞くが、 真実なのかも知れない。また、竜灯の崎の地形が竜の鼻に 似ていることのほかに、大昔の人々は、津波の波頭が逆巻いて押し 寄せるのを見て驚き、それを竜にたとえるようになったのか。 そうして沿岸各地に、竜神伝説として残っているのではないだろうか。

2.10 河津

今井浜から河津浜への旧道はきれいな遊歩道に整備され、 楽しそうに散歩する2人連れがあった。河津浜、海岸遊歩道、 右手の奥へと連なる伊豆の山々は夕暮れ色を見せていた。

浜辺に近い川岸の歌碑には、『いづくまで、ゆく鴨ならむ、 夕波の、高まる沖に、一羽なやめる』(中河幹子)とある。 この情景は、私も見て同じ思いをしたことがあり、 河津の印象を深くするものとなる。

川岸の緋寒桜(ひかんざくら)のつぼみは開花直前までに膨らみ、 1輪、2輪の花が咲き、菜の花も半分ほどが咲いていた。 まもなく桜祭り、菜の花祭りで、東京・横浜方面からの人々も 来て賑わいをみせるだろう。

案内板には『河津桜は緋寒桜と早咲きの大島桜の自 然交配種と考えられている。特徴は、開花期が早く、 花も大きくよく開き、1月下旬からつぼみがほころび始め、 3月上旬まで淡いピンク色の花を咲かせる。この桜の原木は町内 田中の民家の庭先にあり、町名にちなみ「河津桜」と名づけられ、 昭和50年には「町の木」に指定された。町内の河津桜は この原木から広められ、昭和49年から平成9年3 月まで約7,000本が植えられて・・・・・』とある。

2.11 金山跡と白浜

朝、河津から下田を目指して旧道を歩く。ペンションや住宅地を 過ぎると、あとは幅5mほどの舗装された一本道となる。 出合ったのはジョギングの人、側溝に集まった落葉を堆肥用に 袋詰めする人であった。

上のほうでは、強風で木々の葉が裏返しにされて白くなり、 うねりとなって山頂へと移動している。この旧道 では風はなく、小鳥の鳴き声が聞こえる。こんな道を 私ひとりが歩いているのはもったいないと思った。

一時間ほどで、玉田山地福院というお寺の前にきた。 説明板に、『慶長年代(1,600年の頃)には縄地金山が 隆盛した。当時8,000軒の家があり、9つの寺があった。 しかし金山奉行・大久保長安の死後、縄地金山は衰退し、 8つの寺は移転・廃寺となったが、この地福院は この地にとどまった』とあり、多くの住民がいたことに 私は驚いてしまった。

通りかかった農家の女性が話し掛けてきた。 この付近からは畑も少し、家は10軒ほどしか見え ないが、この地区には120軒ほどあるという。 話の内容から、この女性は64歳前後である。 「戦争中にアメリカ軍機が飛来したとき、山の穴に逃げた」 と語る。そうだ、私も同じような田舎に住み、山腹に 防空壕を造って避難したことを思い出した。

旧道から下って国道に出て、坂戸浜から白浜海水浴場を望むころ、 海がきれいな淡青色に見え、沖縄諸島のさんご礁の海を思い浮かべた。

白浜では、弱い風でも白色細砂が動いていた。道路脇の防砂柵に 『平成15年第58回国体ビーチバレー競技会場』とあった。 砂浜の防砂柵を点検していた人に聞くと、砂は季節によって 海のほうへ、陸のほうへと大きな移動を繰り返すという。

板見の坂道で崖下を見ると、海の淡青色は海底にたまった 白色細砂によって、濃い色は岩礁によって作られ ていることがわかった。
白浜沖
道路脇の立札に「三穂ケ崎遺跡」とある。脇道に入って行くと、 『崎の先端の岩場からは祭祀遺物の勾玉、丸玉、臼玉などが 発見されている。5世紀頃の人々は海の彼方に存在す ると考えた神を祭るため、この崎の先端で神事を行なった ものと推定される。祭祀を営む例は海に面した南伊豆地方に 多い』とあった。

2.12 下田

下田市街部が近づいてきた。外浦口では立派な歩道の 増設工事が、さらに、柿崎海岸では大規模な公園整備の 工事が行なわれていた。

左手には、小公園があり銅像のよう なものが見える。逆戻りして行くと、弁天島に海食洞穴、 公園に吉田松陰と金子重輔の像、1854年3月来航当時の ペリー艦隊7隻が湾内に分散して停泊した配置図があった。

説明板には『吉田松陰は弟子・金子重輔と共に、弁天島の ほこらに身を隠し、夜になって小舟を漕ぎだした。 海外の事情を知るために渡航すべく、ポータハン号に向かった』 とあり、また、松陰と重輔が必死になって荒海を小舟で ポータハン号に向かう場面が描かれた大きな絵画があった。

私は吉田松陰については、長州の小さな村塾の教師で、倒幕の志士・高 杉晋作らを育てた人物であることしか知らなかった。 松陰は密航を頼んだが、ペリー提督には日本の法律を破る ことはできない、として断られた。松陰は自首して牢獄に入れられ、 1859年に処刑されている。

吉田松陰の密航という壮図を偲び 詠んだ窪田空穂の歌碑に『心燃ゆるものありて踏む夕波の 寄り来て白き柿崎の浜』(大正9年秋の作)とある。私も 明治維新という激動の時代に生きた人々を偲ぶことができた。

下田湾は奥深く、赤根島、犬走島、ミサゴ島などが天然の 防波堤の役目をしている。この湾内では、客を乗せた黒船の 観光船が巡っていた。

下田港の西海岸から町の南部にかけて残る、吉田松陰拘禁の跡、 ペリー上陸の碑、了仙寺(和親条約付録下田条約の調印式が 行なわれた寺)、長楽寺(日露和親条約の締結、日米 和親条約批准書の交換が行なわれた寺)、開港100年を記念した 開国記念碑を巡ることができた。



2.13 石廊崎

下田の国民宿舎のおじさんから、「石廊崎まで歩いて 1日では行けないかもしれません」と言われたので、 私は朝5時半、まだ真っ暗闇の中を下田から石廊崎へ向けて出発した。

下田の市街を南下し、下田南高校のところで国道136号線に入り、 トンネルに来て驚いた。 自動車用トンネルと並んで歩行者専用トンネルがあり、 明るい照明もあり、壁には下田の小・中学生による魚の絵が 全面にきれいに描かれている。

脇道に入り入田浜に行って見ると、すでに日の出前から 数人がサーフィンをしていた。 私は「なんと熱心な人たちよ!」と驚いてしまった。 そう思う私も、他人からは、「朝早くからわざわざ歩いて、 何ゆえに伊豆南端まで行くのか?」と見られるだろう。しかし歩けば、 刻々と変わり行く新鮮な景観があり、車の旅とは違った発見、 味わいと感動がある。

入田浜の朝
手石港を過ぎ、旧トンネルを出ると、立札「立行司初代・式守 伊之助生家」があり、今は民宿「鍋屋」をされている。 伊豆には温泉や高級ホテルも多いが、港や崎などが次々と つながり、磯釣りの客も多く民宿も所々にある。

この付近にくると、自動車の途絶える時間が多くなり、 歩行部分も広く造られていて歩きやすくなった。

やがて、数kmの彼方に尖った大きな岩礁群(蓑掛岩)が見える。 この付近では少ない土地でアロエが栽培されている。 道路脇に赤い花が一面に咲いたアロエ群落があり、「キダ チアロエ原生地」の札が立っていた。10時半頃、灯台のある崎が見え、 あれが石廊崎灯台に違いない、もう少しで伊豆南端に到達できる と思った。

アロエセンターでは観光バス4台、乗用車10台ほどが駐車し、 多くの人々がサービスのアロエ入りのお茶をごちそうになり、 土産を買っていた。もともとアロエは胃腸薬らしい が、効能書では便秘、高血圧、低血圧、かぜ、糖尿病、・・ に効用があるとある。

バス道路から分かれてトンネルの手前で左の道に入る。 深い入江の静かな石廊崎港から坂道を登って行くと、 石廊崎測候所と石廊崎灯台があった。測候所は3人交代で勤務して いるという。

測候所の風を測る塔を見上げると、風速計支柱と並んで受信用アンテナ らしい細いポールが立っており、これが風向きによっては風速測定 の邪魔になると思ったので、そのことを所員に伝えておいた。
石廊崎灯台
灯台は無人のようである。崎の先端部にくると、 強風が吹いていた。断崖には石室神社があり、その土台は 千石船の長さ12メートルの帆柱でできている。神社の床 にガラスがはめられ、土台となった帆柱が見える。その昔、 この沖を通りかかった千石船 が大きな波浪に悩まされ、石廊権現に帆柱を献納して荒海が 凪いだという由来が書かれていた。

風で飛ばされないように、手すりを頼りに最先端へ行くと、 1メートル立方ほどの熊野神社が岩間にあった。 強風にもかかわらず、次々と参拝客があり、若い2人連れもやって くる。

この小さな神社の由来として、『昔、長津呂(石廊崎の旧称) に娘が住んでいた。娘には、沖あいの神子元島(みこもとじま) に恋人がいた。娘は人目をさけ毎晩のようにこ の岬に来て、恋人のいる島に向かって、狼煙を焚いて、 お互いの安否を確かめ合っていたが、ある晩から恋人からの 応答が途絶えがちになった。娘は不安にかられ、ある月夜に両 親の引き止めるのも聞かず、島に向かって小舟で漕ぎ出した。 折からの季節風で、娘の細腕では進むことができなくなった。 娘は航海の無事を熊野の神に一心不乱に祈った。その 甲斐あってか奇跡的に娘は島に着くことができ、 恋人との熱き再会を果たした。のちに、娘が火を焚いたところに 熊野権現が祀られ多くの人々から縁結びの神として信仰をあつめ ている』とある。

この場所から神子元島は、伊豆七島の利島の手前、南東方向に岩礁とし て見える。

相模湾沿いの歩き旅の夢は、こうして1月12日の正午、最終目的地 への到達で成就した。私の心臓は半分の能力しかないが、 体力、脚力共に大きな自信をつけて帰途についた。 (2002年1月12日)

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