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3.揺らぐ「食」の背景には =近藤純正=

以下の約1,400字の文章は、高知新聞社
から掲載の許諾を受けたものである

食が問題化するのは、気候変動と社会的な原因によ る。いずれの場合でも、平和な世界と儲(もう)け第一主義を 排除した社会であれば問題は深刻化しない。

昨年の秋から冬にかけて2つの食問題がニュースに なった。1つは12月下旬、米国の西海岸で牛海綿状 脳症(BSE)に感染した牛が見つかり衝撃が広がった ことである。BSEは1986年に英国で初めて報告さ れて以来、2001年9月には日本でも確認されてい る。

牛がBSEの病原体に汚染された肉骨粉を食べて感 染が広がったとみられるが、まだ感染経路は明らかで ないという。たった一頭の牛が世界から注視の的とな り、人々の食卓にまで影響を与える時代である。

もう1つは、低温と日照不足から水稲の生産が10年 ぶりの不作となった。10年前の93年には大凶作とな り、全国でコメ不足をきたし、人々の不安感から自由 米の価格が高騰し、コメを買う人々が行列をなす光景 もあった。そのときは、終戦前後の食糧不足の時代を 思い起こした。

わが国では江戸時代半ば以前には、凶作・飢饉(き きん)の大半は干ばつと洪水によるものであり、現代 の発展途上国の姿に似ていた。

戦国時代から、天下太平となった江戸時代の幕藩体 制下においては、各藩は自国の安全と発展のために河 川の改修、灌漑(かんがい)、森林保護を行い、干ばつ と洪水は時代とともに克服されてきた。災害の苦しみ を克服するのに、300年もかかったのである。

土佐では江戸初期、野中兼山(けんざん)が物部川 の山田堰(せき)、仁淀川の八田堰、松田川の河戸堰(こ うどせき)など、用水路の建設と新田開発を行なった と伝えられている。日本各地を歩いていると、こうし た灌漑と洪水防止策の跡に出会うことがある。

先人の努力によって、大規模な干ばつと洪水は克服 されたが、冷害だけは残っている。東北地方では冷夏 の影響を受けやすく、とりわけ天保の飢饉は悲惨であ った。

この時代、仙台藩涌谷(わくや)で書かれた花井安 列の天候日記と他の記録によれば、1836(天保7) 年にはコメは平年の1割も収穫できず、住民の約4分 の1が餓死している。同年の関東や関西ではそれほど の減収ではなかったが、全国的な飢饉となる。大塩平 八郎が幕府に反抗し大坂で乱を起こしたのは、この翌 年の春のことであった。

昨年の秋、戦国時代の城跡を訪ねた際、安芸市立歴 史民俗資料館に展示された年表の中に、大塩の乱と同 じ年に土佐でも飢饉が発生したとあった。

東北地方に残された古記録を分析してみると、大規 模な冷夏による凶作・飢饉は40~50年ごとに集中 して頻発している。凶作・飢饉の約6割はその直前に 世界的な大噴火(噴煙が成層圏に数年間滞留するよう な噴火)が起こっている。

ただ例外的に、昭和初期から戦中に頻発した凶作は 大噴火と対応しないが、三陸沖の海水温度の低温時代 と一致している。

海洋における漁獲量の豊凶も長期の海洋変動と関係 する。気候や海洋変動による食糧不足で生じる社会の 混乱は、人間の英知によって防がねばならない。
(高知県吾川郡伊野町出身・神奈川県平塚市中里49 の6)

―2004年1月28日付高知新聞朝刊『所感・雑感』に掲載―
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