73. 長崎の観光
著者:近藤 純正
2007年6月2日の午後、島めぐり遊覧船で軍艦島(端島)を見学したあと、
大浦天主堂、平和公園、浦上天主堂などを巡った。(完成2007年6月10日)
2007年6月2日、JR熊本駅9:10発の特急「有明10号」に乗車、鳥栖で特急
「かもめ」に乗り継ぎ、11:54長崎に到着した。駅前の案内所で地図をもらい、
軍艦島巡りの遊覧が13:30に長崎港ターミナル浮桟橋から出航することが
わかり、電話で乗船の予約をした。周遊は100分間(3,000円)で15:10には
もどるという。
軍艦島
港めぐり遊覧の前に、長崎港ターミナルビル2階に展示された軍艦島の歴史
を読む。その概要は次のとおり。
軍艦島(端島)は、その昔、草木もなく地質は水成岩からなる第三紀層の瀬
であった。そこに10m内外の岸壁を築き、その中にコンクリートの建物
を上に積み重ねた人工の島である。長崎より18.5kmの海上に浮かぶ端島は、
1810年に石炭が発見され、その後明治3年(1870年)に天草の人・小川某が開発
砿に着手したと記録されている。端島は総面積0.1平方km、周囲1.2km、
東西は160m、南北は480mの孤島である。戦艦「土佐」に似ていることから、
「軍艦島」と呼ばれている。
1890年:三菱の経営となる
1916年:日本最初の鉄筋高層アパート完成
1921年:長崎日々新聞が「軍艦島」として紹介
1934年:端島小学校校舎が完成
1948年4月1日の人口=4,526人(炭鉱国家管理の3年間時限立法施行)
1960年の人口=5,267人
1970年の人口=2,910人
1974年1月15日、端島砿が閉山、4月20日から無人島となる
1960年のころ最大人口となったが、燃料革命の時代に入るや、急速に
人口も減っていったことがわかる。
遊覧船「マルベージャ号」には団体の観光客も乗船している。男性ガイドの
じょうずな案内で、三菱重工業長崎造船所立神工場、女神大橋
(2005年12月に開通、海面から橋げたまでの高さ=65m)、神ノ島教会、
沖ノ島天主堂、高島の風力発電所などを眺めながら軍艦島の北側に到着。
反時計回りに遊覧。島の南西方向からの眺めが大正時代の軍艦「土佐」に
似ていると案内された。軍艦島は海底炭鉱の島であり、製鉄用原料炭
を供給し、日本の近代化を支えてきたのである。
狭い島に高層アパートが林立する姿は、世界的にめずらしく、現在長崎市
では「世界遺産」登録への気運が盛り上がっているという。
軍艦島(その1)
左:左側の白色6階建ての4階までが小学校、その上が中学校であった。
右:この写真が軍艦「土佐」に似ているという。
軍艦島(その2)
左:中央部には木造の建物があったが、現在は崩れて残骸が残っている。
右:島には神社もあったという(望遠写真)。
軍艦島は、燃料革命の1960年代に石炭産業の衰退とともに人口が激減して
いったのであるが、この時代は、その他の面でも日本の変革期であった。
つまり、日本の所得倍増論(池田勇人自民党総裁・総理大臣提唱、1960年7月)、
東京オリンピックの開会(1964年10月)、東海道新幹線の開業(1964年10月)、
列島改造論(田中角栄自民党総裁・総理大臣、1972年6月提唱)などで代表
されるように、1960年代から1980年にかけて全国的に建設ブームがあり、都市
化が一段と進んだ。同時に、多くの気象官署における年平均気温に都市化の
影響が見出せる時代である。
このことは「K35.基準5地点の温暖化量と
都市昇温(2)」の図35.3や、「K32.基準
3地点の温暖化量と都市昇温」の図32.6に示した。
軍艦島からの復路では、右手(東側)に三菱重工の100万トンドックを間近に
見る。
長崎港ターミナルビルに近づくと右手の山腹に国宝・大浦天主堂が
見えた。
三菱重工の100万トンドック、右の写真の左の端に工事中の
船が見え、それに近づいたとき撮影したのが左の写真である。
大浦天主堂とグラバー園
軍艦島遊覧が終り、こんどは国宝の大浦天主堂とグラバー園に向かう。
大浦天主堂の白い外壁、内部にあるステンドグラスは美しい。内部の写真撮影
は禁止なので、拝観券を次の写真の右側に掲げておこう。
国宝・大浦天主堂(左)と拝観券(右)
大浦天主堂は西坂で処刑された二十六聖人(後述)に奉げるために、1864年
フランス人宣教師により建てられ、日本に現存する最古の木造ゴシック様式
の教会である。大浦天主堂と二十六聖人のブロンズ像は互いに
向き合って造られているという。
拝観券(300円)の裏には次のことが記されている。
1863年12月:着工、1864年12月:竣工
1933年1月23日:国宝指定
1953年3月31日:国宝再指定
正式名称:日本二十六聖殉教者天主堂
つづいて、大浦天主堂の隣にあるグラバー園に入った。
ここからは港を見下ろすことができる。筆者が57年前、高校2年生のときの
修学旅行で眺めた風景を思い出してみたい。
入り口の管理事務所からは港の全景がほとんど見えないので、「ここからは
港は見えないのですか?」と尋ねると、「斜面の上のほうへ登ると見えます」
と案内された。動く歩道を乗り継いで、もっとも高いところにくると
長崎港の全景が見えた。そこには白亜造りの旧三菱第2ドック
ハウスがあった。
私は47年前に、この付近から港を一望したことは記憶にあるが、白亜の建物
は記憶になかった。そこで、隣にある第2ゲートでこのことを尋ねると、
このドックハウスは三菱造船の敷地にあった建物が現在地に移設された
もので、1950年当時はここにはなく、この敷地は畑であったと教えられた。
旧三菱第二ドックハウス(左)と、展示中の帆船模型(右)
57年前の風景を確認するために、旧ウオーカー住宅、オペラ「マダム・
バタフライ」で有名になったオペラ歌手・三浦環(たまき)の像を経て
下がっていくと、旧グラバー住宅・庭園があった。
旧グラバー住宅(写真2枚を結合し多少のひずみがある)
57年前に見た長崎港はこの庭園からの眺めだったのか!
眼下に見える海岸は、そのとき以後、埋め立てられて変化はあるかも
しれないが、港の風景は記憶に残る昔のままの形状であった。
長崎港(写真4枚を横につなぎ多少のひずみがある)
第1ゲートでもらったグラバー園の案内文と園内の展示を見て、
私はこれまで勘違いしていたことに気づいた。オペラ「マダム・バタフライ
(蝶々夫人)」は悲恋物語だが、実際の夫人ツルは幸福な人生であった。
オペラ「マダム・バタフライ」はジョン・ルーサー・ロングの小説を原作と
したもので、長崎を舞台に、アメリカの海軍士官ピンカートンの帰りを待ち
わびる蝶々夫人の悲恋が描かれている。
グラバーの妻ツルが接客のときに蝶の紋の着物を着ていたことから蝶々夫人の
モデルになったといわれている。
実際のグラバー夫人ツルは幸せな人生であり、家族の写真も展示されてあり、
案内パンフレットには次のように説明されている。
スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバー
は1859年、彼が21歳の時に開港と同時に長崎に来日、グラバー商会を設立。
幕末の激動の時代、坂本龍馬を始めとする志士たちを陰で支え伊藤博文らの
英国留学を手伝った。また明治以降は純経済人として、日本の近代科学
技術の導入に貢献した。・・・・・・
妻ツルとの間に子供があり、温かな家庭をつくり、仲むつまじく日本で終生を
過ごした。1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは、長崎市の坂本国際
墓地でツルと、息子夫妻とならび眠っている。
平和公園の周辺
夕方になったが平和祈念像のある平和公園はぜひ見ておきたいので、タクシー
を拾って運転手まかせの名所めぐりとなった。
筆者は、平和祈念像は原子爆弾落下中心地(爆心地)にあるものだと想像
していたのだが、平和公園は爆心地の隣にあった長崎刑務所浦上刑務支所の
跡地に造られたという。公園の入り口でタクシー運転手が原子爆弾で崩れた
刑務所遺壁を教えてくれる。
公園に入ると、大きな平和祈念像がある。天を指す右手は原爆の脅威を、
水平に伸ばした左手は平和を、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈る心を
表したものだという。像の体形は力道山の体を模したものだという。
注:
力道山は元力士・関脇でありプロレスラーに転向し戦後の少年たちの憧れの
的となった人物、池上本門寺に墓所がある(「32.池上
本門寺お会式」を参照)。
平和祈念像、右の写真の中央の遠くに平和祈念像が見える
案内されて噴水「平和の泉」に行ってみると、その正面には碑があった。
碑には、原子爆弾の投下後、水を求める子どもの詩が刻まれている。
・・・・のどが乾いてたまりませんでした
水には あぶらのようなものが 一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとう あぶらの浮いたまま飲みました
―あの日の ある少女の手記から
「平和の泉」は、一滴の水も口にできず力尽きていった人々に
追悼の意を奉げるためにつくられたものだという。
この公園には各国から贈られた平和の像が数個ある。中国から贈られた
白い像の裏面には「和平」の文字が刻まれている。
平和公園入り口の長崎刑務所浦上支所遺壁(左)と、
平和公園内にある中国からの和平記念像(右)
再びタクシーに乗車、如己堂(にょごどう)・永井隆記念館に案内された。
永井隆博士(1908-1951)のことは、「長崎の鐘」や「この子を残して」
の著作でも有名である。藤山一郎が「長崎の鐘」を歌い大ヒット、さらに映画
にもなった。
永井隆は原爆で妻を亡くし、自分も白血病と闘いながら
死の直前まで原子病の研究を続けた。如己堂(にょごどう)・永井隆記念館の
入り口に、如己堂の名は聖書の「己の如く隣人を愛せよ」という言葉から
つくられた、と説明されている。如己堂は博士が生前2人の子供と共に
住んでいたわずか二畳一間の家である。
永井隆の功績に対し、如己堂の隣に「長崎市永井隆記念館」が建てられている。
永井隆如己堂
浦上天主堂は爆心地から北東500mと近いところにあり、原爆で崩壊した。
タクシー運転手が指差して、「あれは浦上天主堂双塔の片方の鐘楼ドームが
崩れ落ちたものです」と教えてくれた。
小高い丘の上に再建された浦上天主堂がある。倒壊した時に指が欠けた像、鼻
が欠けた像などが再建後の浦上天主堂の正面入り口に安置されていることも
教えてくれた。
パンフレット「1945・8・9あの日の証言(被爆建築物等・記念
碑めぐり)」には次のように説明されている。
・・・・・被爆前の赤レンガの壁面には84個の天使の石像が取り付けられていた。
原爆による浦上天主堂の倒壊とともにこれらの石像も瓦礫の中に散乱。・・・・
「悲しみの聖母」は指が欠け、「使徒ヨハネ」は鼻が欠けていた。これらは
正面入り口の両そでに安置されている。
浦上天主堂
この日の最後、JR長崎駅近くにある西坂公園に案内されると、日本二十六聖人
殉教地があった。豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって捕らえられた6人の
外国人宣教師と、日本人信者20人が処刑された場所である。1962年に、26人
が並ぶ等身大のブロンズ像が建てられたとある。
案内人のタクシー運転手に促されてよく見ると、ブロンズの足が地面から
離れている。これは天国に上る姿であるという。
明日6月3日に向かう平戸、生月島でもキリシタン弾圧の過去を見ることが
できるだろう。
日本二十六聖人殉教地
案内人のタクシー運転手の名札には「千年」という名前があった。私が「よい
お名前ですね」と言うと、「親が千年も生きるようにと、つけてくれた名前
です」とこたえてくれた。原爆が投下された平和宣言のまち・長崎に
ふさわしい名前である。