72. 阿蘇と熊本城
著者:近藤 純正
2007年6月1日午前中に阿蘇の中岳を見学し、午後には熊本城を観光した。
(2007年6月10日完成)
もくじ
1.阿蘇山測候所の見学
2.阿蘇の中岳の観光
3.熊本城の観光
1.阿蘇山測候所の見学
阿蘇五岳(根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳)のなかで、現在も
活発に火山活動を続けているのは中岳である。火口の周囲は4km、
火口の西1km余の標高1,142mのところに阿蘇山測候所がある。
阿蘇山測候所は1931年11月5日に創立し、気象や火山活動の観測が
行なわれてきた。気象データが気候変動の解析に利用できないかを検討して
いる農業環境技術研究所の桑形恒男さんと九州沖縄農業研究センターの
丸山篤志さんが現地を見るということで、筆者も同行させてもらう
ことになった。
訪問日2007年6月1日の前日、丸山さんが見学したい旨を阿蘇山測候所の基地
事務所(阿蘇市黒川110)に電話で伝えてあった。
JR阿蘇駅の近くにある基地事務所に到着する。そこからは松島正哉所長と
江藤さんが山上にある測候所局舎まで案内してくれた。
山上にある気象観測露場は開けたところにあり、観測環境はよいのだが、
桑形さんが作成した図(以下の図では年平均値のみ示す)によれば、
特に、毎日の最高気温について、
(1) 近年、最高気温の年平均値が急上昇している
(2) 1940~1960年のころも最高気温の年平均値が高かった
(3) 上記(1)(2)の傾向は、特に7~11月の月平均値でも顕著である
(4) この10年間ほどについて4~6月と、9月に月平均値の上昇が顕著である
これらの原因を探ることが今回の阿蘇山訪問の目的である。
阿蘇山測候所における毎日の最高気温の年平均値の経年変化、
桑形恒男博士の作成による。
松島所長から伺ったことを要約すると次のとおりである。
測候所庁舎は開設当時は木造
1958年から庁舎はかまぼこ型
2001年から現在のコンクリート庁舎となる
以前の庁舎は露場西側の一段低いレベルにあったが、現庁舎(局舎:無人)
は反対側の南東側にある。
測候所の南側にあるロープウエー駅舎などは、すでに1965年にはあった。
測候所の東側、その他の駐車場は1974年には舗装されていた。
近年の大きな火山活動として、1979年6月~1980年1月、及び1989年~1991年
がある。
大きな火山活動では火山灰が周辺に20cmほど積り、草木(低木)
は灰で覆われる。
以上を総合しても、近年最高気温が上昇する明確な原因を掴むことはできな
かった。筆者の想像では、この測候所における気温など長期変動は、濃度の高い
火山ガスや火山灰が降るような火山活動に影響される可能性がありそうだ。
つまり、周辺一帯の緑の草木(低木)による地面の被覆率が火山活動によって
変動し、それが特に最高気温に影響を及ぼしているのではあるまいか。
もし、そうだとすれば、観測される「気温」は多くの情報を含むパラメータ
であることに驚く。つまり気温は、CO2など温室効果気体の増加
による地球温暖化、それとは別の原因で生じる地域的な気候変動、観測所
のごく近傍において例えば樹木の枝を切り落としたことや、道路が拡幅・舗装
されたこと、燃料革命により里山での薪炭生産が衰退し観測所周辺の樹木の
繁茂(里山の荒れること)などの社会的変化、さらに火山活動の変動までが
気温変動としてに現れることだ。
2.阿蘇の中岳の観光
2年前の2005年4月23日(土曜日)にも阿蘇にきたが、当時は火山活動が盛んで
火口付近は立ち入り禁止であり、離れたところにある火山博物館付近から
見学した(「42.天草・島原・阿蘇・
青島」の章の最後の節「5.阿蘇」を参照)。
筆者は高校2年生の昭和25年(1950年)に修学旅行で長崎、雲仙、熊本、阿蘇、
別府をまわったことがある。今回は57年ぶりに阿蘇の噴火口を見ることになる。
阿蘇中岳の噴火口(左)と避難小屋(右)
火口を覗くと、57年ぶりに昔の記憶がよみがえった。ただし、今回は火口底に
は青い水が溜まっており、これは昔と違っていた。
57年前、火口底には経路を探せば下りていけそうに思ったのだが、
そのときの案内人の話では、火口に身投げする人があると、それを引き上げる
のに大金が必要である、と聞いたことを覚えている。ショッキングなことは
忘れていない。
今回は火口底の右手(南寄り)から噴煙が出ているが、火山活動としては
穏やかであろう。活発な活動が始まると火口底の水の温度は上昇し、蒸発して
しまう。そうして噴火が盛んになるという。
今回は、丸山篤志さんの案内で、阿蘇の北側(阿蘇市)から登ったのだが、
帰途は南へ下って南阿蘇町を経由して熊本へ向かうことにした。道の駅で
昼食をとった。好天に恵まれ、そこから阿蘇五岳を眺めることができた。
レストランのデッキに鳥瞰図があったので、それを次の写真に重ねて
示しておこう。
南からの阿蘇の眺めは初めてである。
阿蘇の遠景(南阿蘇町から撮影)
熊本城
前回の2005年4月23日の訪問では城内には入らなかった(
「42.天草・島原・阿蘇・青島」の「4.熊本城と武蔵塚」を参照)。
今回は本丸へ行って、57年前の記憶を呼び戻すことにしよう。
頬当御門から入ると、さすが加藤清正の城、立派な大小天守閣が
そびえている。韓国からの修学旅行の生徒たちも多く、観光客で賑わっている。
入ってみると、内部はコンクリート造りとなっており意外であった。
熊本城天守閣、左の写真は宇土櫓から撮影
私は案内人に、「さすが加藤清正の城、立派ですね。私は1950年の
高校2年生のとき、今から57年前、本丸広場から熊本市街を見渡すことが
できました。城内には建物はほとんどなく、一つほどしかなかったとように
思いますが・・・・・」
案内人は、「西南戦争の明治年間、1877年に天守閣など主な建物は焼失
しました。この天守閣は1960年に再建されたもので、1950年当時は無かった
のです。400年前から残っている建物は宇土櫓(国指定重要文化財)であり、
それを57年前にご覧になったでしょう。宇土櫓は頬当御門を入って左手に
見えたはずです」と、説明してくれた。
私は頬当御門を入ってからは天守閣に気をとられ、宇土櫓に気付かなかった。
そこで、天守閣から宇土櫓を見ることにした。天守閣からは見下ろす高さに
宇土櫓があった。
熊本城宇土櫓、左の写真は天守閣から撮影
次いで、宇土櫓に入ると木造の建築である。火災にも遭わず、400年も保存されてきた
ことは感慨深い。先ほどの天守閣では多数の人々で賑わっていた
のだが、この宇土櫓に登る人数は僅かである。
最上層に居た案内人に向かって私は、「この城の重要文化財・宇土櫓も多数
の人びとに見学してもらうよう宣伝してはいかがですか。外国から
の観光客にもぜひ見てもらいたいですが・・・・・」と言うと、案内人は
「多数が宇土櫓に登ると建物が傷む、ほどほどでよい、・・・・・」という。
その通りだとも思った。宇土櫓の細部を見ると、所々補修してあり、金具
で補強もしてあった。木造建築物を保存することはたいへんなことだ。
熊本城入場券の裏には次の説明がある。
特別史跡 熊本城
熊本城は名将 加藤清正が幾多実戦の経験に基づき慶長6年(1601年)から
7年の年月を費やして築いた天下の名城であります。この構造は、かっては周囲
5.3kmに及ぶ広大な城域内に、大小天守を中心に櫓49、櫓門18、
城門29を数える実に雄大豪壮なお城でした。・・・・・
二の丸広場からは、天守閣も宇土櫓も長塀も見えると教えられ、二の丸広場から
行幸坂、行幸橋を経て熊本駅前へ向かう。
翌6月2日は長崎へ向かう予定である。
二の丸広場から撮影した熊本城