36.善光寺と松代

近藤 純正

2004年11月9日、長野市の善光寺から松代(まつしろ)を訪ねてきました。 松代へ向かう途中には川中島古戦場があり、松代では松代城(復元)、真田邸、 佐久間象山宅跡、そして戦時中に建設された地下大本営跡などがありました。

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善光寺
善光寺事務局発行の案内パンフレットによると、善光寺は日本最古の 仏をまつる霊場であり、642年の創建とある。これまで11回の火災に遭った が全国の阿弥陀如来(あみだにょらい)を慕う人々によって復興されてきた。

500円の拝観料で(1)本堂内陣・お戒壇めぐり、(2)善光寺資料館、(3)経蔵 (重要文化財)を巡ることができた。(1)は地下の真暗闇の通路を手探りで 巡った。経験したことのない、真暗闇であった。(3)では、お経の収納庫を 廻すと一切経すべてを読んだと同じ高徳が得られるといわれている。 私は鎌倉の長谷寺でも廻したことがある。

六地蔵は人が生死を繰り返す六つの世界(六道)におられて人の苦しみを 救ってくださる、と説明されていた。六つの世界とは、地獄、餓鬼、畜生、 修羅、人間、天道の世界を指している。


国宝・善光寺本堂

六地蔵

鐘楼、冬期長野オリンピック開会を告げた梵鐘

地震塚(1847年善光寺地震)


鐘楼(しょうろう)は本堂の右手(東)にある。1996年には、この梵鐘 (ぼんしょう、重要美術品、1667年鋳造)の響きが、環境庁から 「日本の音風景百選」の一つとして認定された。また、1998年の長野で 開催された冬期オリンピックには2月7日午前11時に、世界平和の祈りを込めて、 この梵鐘がオリンピックの開会を告げた。

鐘楼の近くには地震塚がある。これは1847年5月8日に起きた善光寺地震 (推定マグニチュード7.4)の犠牲者数千人の霊がまつられている。 石碑には次の内容の説明がある。

発願主・土屋人輔は上田の人で、大地震発生時、十里(40km)の道を 使用人らとコメ・みそ・衣類などを大八車に積んでかけつけ被災者の救済と 共に犠牲者をねんごろに葬った。

丸善発行の「理科年表」によると、善光寺地震の被害範囲は高田から松本にいたる 範囲で5767人、つぶれた家は約1万4千。全国からの善光寺の参詣者 7,000~8,000人のうち、生き残ったものは約10%。また、別の資料によると、 善光寺は本堂以外の建物と、門前町が焼失した。

川中島古戦場跡
古戦場跡の八幡原史跡公園に掲げられた説明板によれば、川中島合戦は 1553年~1561年の13年間にわたって行われたが、広く知られている合戦は 1561(永禄4)年の戦いを指す。越後(新潟県)の雄将・32歳の上杉謙信と 甲斐(山梨県)の智将・41歳の武田信玄が戦い、八幡原は大修羅場と化した。

1561年9月10日(旧暦)、上杉謙信は武田信玄の本陣に切り込み、 不意を突かれた武田信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという。そのときの 二人の一騎討ち像があった。

この合戦において、盆地にできた夜霧と関係する説明は次のように なっている。
9月9日の夜遅く霧の中、上杉軍は妻女山の陣から下り、川を渡って対岸 の川中島に移った。10日、夜が明け霧が晴れると武田軍の前に上杉軍が迫ると いう状態になっていた。

いっぽう妻女山の上杉本陣に向かった武田の別働隊の前には敵の姿がなかった のだが、川中島での両軍の戦いの声に気付いた武田の別働隊は、山を 下り川を渡って川中島に到着し、上杉軍を背後から攻撃する形となる。 これによって、それまでの武田の敗色は一変して、上杉方は劣勢となり敗走 で合戦は終った。

川中島は千曲川と犀川に挟まれた広大な平らな肥沃地である。川からの 水蒸気の影響も重なってこの合戦時の夜霧を濃くしたのだろうか。


武田信玄・上杉謙信一騎討ちの像

首塚


一騎討ちの像の近くには「首塚」(くびづか)がある。
この大合戦後、武田方の海津城主・高坂弾正(こうさかだんじょう)が 六千余の戦死者の遺体を敵味方の別なくあつめ、手厚く葬った塚である。

この処置に感激した越後(海に面する新潟県)の上杉謙信は、後年、塩不足に 悩む武田信玄に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚・塩にあらず」 と塩を送り、首塚の恩に報いたといわれる。このことから、「敵に塩を送る」 が生まれた。

松代城
長野から犀川を渡り川中島古戦場跡の八幡原史跡公園を過ぎ、松代大橋を 渡ると長野市松代町松代に到着する。

松代城は1560年、武田信玄が上杉謙信の攻撃に備えて築城したものである。 川中島合戦では、武田軍がこの城(当時、海津城と呼ばれる)に集結して 出陣した。上杉謙信が陣を構えた妻女山はすぐ目と鼻の先である。 初代城主は前記の高坂弾正である。江戸時代になってから、真田信行が 上田城から初代・松代城主として移る。以来、真田氏10代が続く。

発掘調査の後、現在、門や石垣などの復元工事が行なわれた。二の丸には 桜の木があった。春には桜の名所として賑わうだろう。


復元された松代城太鼓門と石垣

松代城本丸


真田邸と佐久間象山宅跡
1600年に行なわれた関ヶ原の戦いで上田城主の真田昌幸は次男・信繁(真田 幸村)と共に豊臣方に、長男・信行は徳川方に分かれて戦った。そのため、 負けた昌幸と信繁は高野山に流され、のち次男・信繁(真田幸村)は大阪の陣で 戦死。長男・信行は父の上田領を与えられ、のちに初代・松代城主となる。

真田邸は新御殿跡ともよばれる。1862年に参勤交代の制度がゆるめられ、 それまでの江戸詰めが義務であった藩主の妻子が在国へ帰ることを許された。 9代藩主・真田幸教は、その母を松代に迎えるために1864年にその居宅を 建設した。母は松代に1864年10月に帰ったが、翌年の1月、参勤交代の制度が 旧に復することとなり、また江戸に戻ることとなった。そのため、100日間 ほどしか松代の居宅で暮らすことができなかった。

真田邸は1966年に松代町に譲られた。1981年に国の史跡指定をうけた。 これは江戸末期の庭園を有する御殿建築として貴重なものとなっている。 これに隣接して文武学校がある。


真田邸入口

真田邸

文武学校

佐久間象山宅跡(878平方メートル)


佐久間象山は1811年2月11日に松代の藩士の子として生まれた。6歳のとき から学問・武術を習う。23歳で江戸で学び、3年で帰り、藩の子弟に経書や 漢学を教える。

41歳で江戸で塾を開き、勝海舟、坂本竜馬、吉田松陰など明治維新の英才 を輩出。開国論を唱える。吉田松陰の密航事件に連座して投獄される。

1864年3月、徳川幕府の招きで上洛し、開国・公武合体論を主張し大いに 画策したが、同年7月11日京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年54歳。 象山宅跡に隣接して象山神社がある。

地下壕と松代地震センター
象山神社から南の方へ行くと、松代象山地下壕がある。入場無料で入れる。 この地下壕は、第2次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘 のうちに、大本営と政府各省等を松代に移すという計画でつくったものである。 地下壕は素掘りのままである。約9ヶ月の間に延べ300万人の住民と朝鮮人が 強制的に動員されて工事が行なわれ、多くの犠牲者を出したといわれている。

大本営とは戦時または事変において設置された天皇直属の最高機関。第2次 大戦時の大本営から発表された報道は、嘘だらけで、日本側は大敗していても 米・英軍に大打撃を与え、わがほうの被害は軽微なりと国民をだましていた。

松代地下壕は象山、皆神山、舞鶴山の地下に碁盤の目のように掘り抜かれた。 その延長は10km余に及び、全工程の75%の時点で終戦となり、工事は中止 された。

舞鶴山の地下壕は現在、気象庁精密地震観測室となっている。


気象庁精密地震観測室

天皇ご在所予定跡(写真中央の部屋)

地下壕跡を利用した地震記録室入り口

松代アメダス、気象観測所


1号庁舎は天皇関係施設(現松代地震センター)、2号庁舎は皇后関係施設 (現精密地震観測室)、3号庁舎は宮内庁関係施設(現展示室)として 作られたものである。

気象庁精密地震観測室:
地下大本営予定地跡を利用して、1947年5月に創設された。 現在、国内のみならず全世界的地震の監視と精密な地殻変動の観測を 行なっている。

松代地震センター:
1965年8月3日から始まった松代群発地震は1966年4月17日には1日間で 有感地震661回、無感地震6119回、合計6780回を記録した。当時は大きな 社会問題となり、1968年2月に「松代地震センター」が設置された。

松代群発地震の当時、私は野尻湖で湖面蒸発の研究をしており、仙台からの 行き来の途中で松代の近くで宿泊したことがある。その夜、何度も地震が あり、恐怖を感じたことを今でも覚えている。いま、新潟県の中越地震後、 その余震を経験している人々も、恐怖を感じていることだろう。

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