30.頼朝の弟・希義
近藤 純正
鎌倉の源頼朝墓所を訪ねたとき、頼朝には希義(まれよし)という
同じ母のもとに生まれた弟があったことをはじめて知った。
頼朝の父・義朝(よしとも)が平清盛(きよもり)に「平治の乱」
(1159年、平治元年)で敗れたあと、13歳の頼朝は伊豆の蛭ケ島へ、
3歳の同母弟・希義は土佐の介良(けら)へ、1歳の異母弟・義経(牛若丸)
は京の鞍馬へ流されたといわれている。
鎌倉の頼朝墓所にて=旅への動機
平氏追討の命令により1180年、頼朝が挙兵したころ土佐に流されていた
弟・希義(当時25歳)は兄の挙兵に参加しようとしたところ、1182年平氏方
に殺害されたと伝えられている。そのため、頼朝と希義はその後一度として
再会することはなかった。
1994(平成6)年、源頼朝公報恩会と源希義公顕彰会によって、兄弟の
悲哀を想い、互いの墓所の土と石を交換することによって800余年の時を
経て、死後の兄弟は再会していた。このことを鎌倉で知ったので、2004年
9月、高知市にある希義の墓所を訪ねてきました。
鎌倉にある源頼朝の墓所 |
希義の案内板 |
高知市介良(けら)の遠望
高知城の天守閣から、高知市介良を眺めてみよう。
東南の方向、高知市街の向こうにテレビ塔のある五台山が見える。
ここには四国八十八カ所第三十一番札所の竹林寺や、牧野植物園がある。
そこからやや左手の方向に介良が見える。介良は広く、標高158mの
小富士山を取り囲むように左から介良甲、乙、丙の地名がつけられている。
介良乙に朝峰神社がある。まず、朝峰神社の野村さんに案内していた
だいて希義墓地を訪ねた。
介良(けら)を訪ねて
介良は遠い昔、土佐で最も古い荘園の一つ、気良庄(介良庄、きらのしょう)
があった。現在の高知市内の主な部分が海であったころの介良庄は、
浦戸湾の奥まった所にある静かな入り江になっており、塩田郷とも呼ばれて
いたという。
朝峰神社から10分間ほど介良川に沿って下ると、「源希義墓所入り口・西養寺
跡入り口」の立札がある。山のほうへ歩き、傾斜になって数m登ったところで
右折し南へ行くと、希義墓所があった。相当古い墓石に見えるが800年余の
昔にしては立派だと思った。
翌日、愛善保育園の北側にある商店で、希義など歴史的なことに詳しいという
中島郷晴さん(もと学校の先生、94歳)を紹介していただいたので、訪ねて
いろいろな話を聞かせてもらった。
中島郷晴さんが若いとき古老から聞いた話によると、墓は山盛りの「塚」の形
であったという。「土佐一覧記」(1772~1775年)によれば、塚上に松が
・・・・とあることから、1903(明治36)年以降に現在のような
石積みの形に改装されたようだ。ところが、「高知県史談」(1894=明治
27年、文部省検定)の挿絵は現在の形になっている。
不確かなこともあるが、その他を総合すると、墓所が現在の形になったのは
明治時代の後半だとしてよいだろう。
記録が定かでないので、以下は伝説的な話となる。近森正博著「悲運の若武者
源希義」(平成5年発行)を参考にすると、1182年9月25日、希義は東に向かう
途中、長岡郡年越山、現在の南国市鳶ケ池(とびがいけ)中学校正門の北側
で殺害された。平氏の威光を恐れた村人は遺骸を放置したが、これを哀れんだ
僧侶・りんゆうは、遺骸をだびに伏した。
のちに僧侶・りんゆうは鎌倉の頼朝から介良に「西養寺」の寺領を与えられた。
西養寺は続いてきたが、明治の「廃仏寺釈」により消失することになった。
この時の住職は還浴し名を「西養二」(1882年=明治15年没)と改めた。
大きな寺を解体するのはもったいないとして、ここに寺子屋を開いた。厳格な
教育者であったという。
この寺子屋が現在の介良小学校の前身である。
希義墓地から戻ってくる途中の山すそに荒地となっている広い敷地がある。
これが西養寺跡(寺子屋跡)である。
この敷地の一段低い場所に大きな石碑があった。その説明板によれば、
「頼朝は正室・政子の父・北条時政の支援を得て初戦を飾るが石橋山の戦い
で大敗をし、現在の神奈川県真鶴から船で退いた。・・・・・」
真鶴が頼朝の再起出発の地であるので、そこで産する「小松石」を西養寺跡、
希義墓所の近くに最近、記念として設置したようである。
この寺子屋跡の北側に介良川をはさんで現在の愛善保育園が見える。そこには
介良尋常小学校があったところだという。
希義墓所 |
西養寺跡(一段高いところ全部) |
西養寺跡敷地の下に設置された小松石 |
愛善保育園(元の介良小学校跡) |
聖神社と澤本楠弥記念碑
高知市街から浦戸湾西岸の横浜には希義と由緒のある「聖神社」
(ひじりじんじゃ)があると聞き、行ってみた。海岸近くの高知市立横浜文化
センター入り口の前に小さな神社があった。説明板によれば、ここの蔵には
革かごが納められている。この革かごの中身は、伝説によれば、頼朝の
弟・希義が兄の挙兵を知り参加しようとしたが平氏方に殺害された。
その遺品を船で京に輸送中、暴風にあい船が転覆し、数々の遺品がこの地の
海岸に漂着したという。土地の人々がこれを集め、革かごに納め、薄幸の
源氏の若武者の霊を慰めたという。
再び介良を訪ねて、高知空港に向かう途中、南国市に近いところに
「澤本楠弥記念碑」があることを知った。介良は1972(昭和47)年、高知市
に合併される以前、介良村であった。記念碑脇の説明碑には次の内容が
記されていた。
澤本楠弥は1855(安政2)年に当地に生まれ、長じて初代介良村長、県議等
を歴任し、自由民権運動に挺身した。1887(明治20)年三大建白事件に参加、
一年有余の獄中生活後キリスト教に入信、同志とともに北海道開発を計画、
1897(明治30)年北光社副社長、のちに社長として土佐からの移民団を
引率しタンネップ原野に入植、開拓の指導と共に鉄道の開設、キリスト教会
の創立など私財を投じて理想郷の実現を目指した・・・・・。郷土発展と
北海道北見市発祥の礎を築いた・・・・・。(平成10年建立)
私は高知県出身でありながら、これまで介良のことをほとんど知らなかったが、
今回、源希義のことや澤本楠弥の偉業を始めて知ることができた。
聖神社 |
澤本楠弥記念碑 |