25.義経まつり

近藤 純正

鎌倉市西端の海岸近くの腰越(こしごえ)に満福寺があります。
源義経(みなもとよしつね、1159~1189)は平家打倒の活躍で評判が 高まりましたが、兄・頼朝との不和が深まりました。 義経は鎌倉の近くまで来たのですが入れてくれず、腰越にとどまりました。 兄・頼朝の勘気を晴らすために、とりなしを依頼する手紙(腰越状) を送ったのです。しかし頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が 続きました。満福寺は義経が腰越状を書いた所と言われています。

トップページへ 展示室案内へ 前の展示室へ 次へ


2004年4月17日、13時から満福寺において義経慰霊法要が行なわれ、 14時からパレードがありました。さらに15時から歴史舞踊奉納 が満福寺において行なわれました。

歴史舞踊奉納
桃山流富士舞の家元・桃山玉秀さんが「静御前」の舞、社中の桃山玉穂さん と桃山玉栄さんが「五條の橋」の舞、江藤玉紅さんが「平 敦盛」の舞 を奉納されました。

舞の始まる前に各ナレーションが流されました。
クリックして「ナレーション」の文章をご覧 になり、プラウザの「戻る」を押してもどってください。
ナレーション「五條の橋」 ナレーション「平 敦盛」 ナレーション「静御前」
「ナレーション」の文章は桃山流 富士舞家元の桃山玉秀さんの許可を得て掲載しました。


「五條の橋」

「五條の橋」

「五條の橋」

「平 敦盛」

「静御前」 <吉野山 峰の白雪踏みわけて>

<入りにし人の あとぞ恋しき>

<静や静 しずのおだ巻きくり返し>

<昔を今に なすよしもがな>

平敦盛(たいらのあつもり、1169~1184)は16歳のとき、一の谷の源平合戦 で熊谷直実に討たれました。そのとき直実は、自分の子と同じ 年格好の美少年をふびんに思いました。この後、世の無常を感じて直実は 出家したのです。



義経慰霊法要と義経まつりのパレード

義経慰霊法要

桃山流富士舞の家元と社中

鎌倉高校の吹奏楽団

鎌倉高校生徒

腰越小学校生徒のよさこいおどり

ミス鎌倉

トップページへ 展示室案内へ 前の展示室へ 次へ