境川
遊行寺より瞽女淵まで
サイクリング
境川は武蔵国と相模国の境をなす2級河川である。遊行寺より下流の境川の
川辺は七里ヶ浜に近いため、散策によく使う。しかし遊行寺より上流は距離があるため散策には向かない。こうして永らく未踏の地だった。しかし今月には熊野の小辺路を2日連続して
歩くことになっている。2日続けて水平距離で10km、高度差700mを歩かなければならない。そのための体調整備のためにとサイクリングを始めた。ブロ
ンプトンを組み立て久しぶりに自転車にまたがった。気軽に片手で坂道を下り始めてブレーキ操作に失敗し転倒した。それでも江ノ島に立ち寄った後、辻堂まで
車検済みジープを受け取りに出かけた。これで自信を得て2017/9/30もサイクリングを継続し、境川を瞽女(ごぜ)淵
まで遡上した。2012/10/11に横須賀水道道(み
ち)をサイクリングした際、境川を渡った境川に瞽女(ごぜ)淵があることを知ったので5年越しの
課題でもあったわけである。
瞽女淵の由来は延宝年間(1673〜81)、この辺りの淵に瞽
女が落ちて死んだため、そう呼ばれたという。明治期15年の地図をみれば境川は蛇行していた。北西から流れ下ってきた境川が遊行
寺やウィートリッヒの森のある丘陵にぶつかって方向を南西に変え、今度は遊行寺前の藤沢宿のあった砂洲にぶつかって再び南方向に変えるため、この辺りは水
がよどんでちょっと雨が降れば洪水がしばしば発生していたのだ。
それから160年
位あと、弘化4年(1847)に一人の浪人が、この瞽女淵のあたりにきたとき、目の前には、切れた堤防からあふれた水で、池のように変わった田畑の風景が
広がり、
働く百姓の姿もなかった。長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、どうせどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命
を投げ出そうと決心した。次の日の朝、村人は堤の上に置かれた大小の刀と紙片を発見することとなった。紙片は書置きで、そこには「この村を水害から救う為
にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい」との遺志が書かれていた。村人は人柱になった侍の冥福を祈った石仏を建立し、瞽女淵の土手番様と呼
ぶ ようになったという。瞽女淵之碑や土手番様の碑は
河川改修後は西俣野村の花応院近くの自然段丘に移設されてかっての淵を見下ろしているという。
昼近くになって、家を出る。境川土手沿いのサイクリング・ロードは東海道線と藤沢市役所に完全に遮断されている。やむをえず藤沢駅地下道を徒歩で北側に抜
けるが、遊行寺までは境川沿いのサイクリングロードはない。遊行寺前でようやく境川の土手道に入ることができる。遊行寺のある丘陵と遊行寺前の藤沢宿の
あった砂洲を境川が浸食したため深く、ところどころに段差があって早瀬になっている。サイクリング・ロードは国道1号の下をくぐり、横須賀水道道の水道橋
を過ぎてもどこまでも北上している。横浜市水道局用アクアダクトが境川を横断しているのが見える。
立石というところで西俣野の崖下の古道を行くことにする。崖は厚木米軍基地のある台地(灌漑用水がないため水田はない)の東端にある。境川が浸食して作っ
たものである。地元の氏神の神明神社、小御嶽神社を過ぎて御嶽神社までくると、藤沢市教育委員会が作成した、文化財ハイキングコースの説明版があった。そ
こに西俣野の文化財として御岳神社、花応院、瞽女淵・土手番様、閻魔堂跡、左馬神社、小栗塚、土震塚(すなふるい)、御
所ヶ谷、将田(ませだ)などがリストアップされている。
瞽女淵・土手番様は実際にあったことのようだが、熊野路に付帯する小栗判官照姫伝説は浄瑠璃、歌舞伎、説教節のフィクションの世界なのだ。小栗判官・照
天(照手)姫物語のモデルは応永の
乱
(1422〜1423)のとき、足利持氏に反乱するも負け、1423年、居城の小栗城で自刀して果てた小栗満重の子助重とされる。実際の小栗城は常陸国小
栗御厨(現在の茨城県筑西市)にあったわけである。フィクションとはいえ、京から大坂を経て熊野三山への参詣に利用された「熊野街道」は別名「小栗街道」
とも呼ばれ、大阪城のある上町台地の稜線筋につけられた道は御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。
更に北上するとついに花應院についた。この寺には小栗判官照手姫縁起絵巻と地獄変相十王図が伝来
し、例年一
月・八月のニ回閻魔祭りを行い、時代絵巻のご開帳と共に、貴公子小栗・美女照手姫の奇想天外な物語と、地獄の様子が花應院と西俣野史跡保存会により絵説き
されているという。この辺り一帯の小字を御所ヶ谷という。照姫の館はこの御所ヶ谷にあったとされる。昔、この辺りに遊行道場があり、遊行寺と相模原当痲寺
を行き来する時宗僧の通り道になっていた。近隣の人を集め、地獄絵を使って善悪を説き布教していたなごりだろう。時宗は各地に熊野信仰を広めており、地方
に熊野社を見るとそこにかつて時宗寺院があったのではないかと推測するという。こうして熊野権現は不浄を嫌わない神であるという伝承が広められるように
なった。こうした中で、ハンセン病患者たちからも来世への救済を求めて熊野詣を志す者が多く現れたと推察される。
花應院
品川越して大
森や鶴見、神奈川後にして、行くは横浜その次は程ヶ谷越して戸塚宿や大阪上がり手二番坂女殺しと早過ぎて、、藤沢宿へと着きぬれば此処に旅路の疲れをば、
直して北に一里哉、今、其場所をと尋ぬれば、西の俣野は御所ヶ谷と字(あざ)を為す。乾の御門前ゑと来たりける。
ー西俣野・小栗判官一代記より
花應院の前には乳牛を飼育してミルクを採集している元名主が経営する飯田牧場なるものがある。瞽女淵の記念碑はこの飯田牧場より一段下がった自然土手にあ
るはずと飯田牧場の北側の路地に入るも見つからず。じつはこの路地を左に曲がれば飯田家の墓地に閻魔堂跡と小栗墓塔と刻まれた角型石塔があったはず。瞽女淵の記念碑は南側の路地を入っ
た先の大成工業のはずれの自然土手にあった。ここはまだ小高く、河川改修を終えた境川の土手が見える。
瞽女淵の記念碑
はて土手番様は何処と探すが、脇にある頭の欠けた石仏がそれかどうか?
土手番様?
ここから境川の土手にもどる。丁度、境川に宇田川が合流している。宇田川の右手が東俣野だ。この東俣野の龍長院付近は照姫を遊女として置いていたという横
山大膳の館があったとされているところだ。
境川に東から宇田川が合流
遠くの丘の上に建つ搭はかって横浜ドリームランドが経営していたホテルエンパイヤだ。現在は横浜薬科大学の図書館棟になっている。
小栗を埋葬したと言う小栗塚と復活したという土震塚(すなふるい)を探そうと土手道を少し北上し、県道403号の坂を上
る。右手に障害者施設である「湘南ゆうき村」の脇に「伝承小栗塚の跡」なるものを発見。
伝承小栗塚の跡
道の西側の畑の中の「さかき」の下に地獄におちた小栗が蘇生した土震塚があるんだそうだが、良くわからない。左馬神社は境川沿いに多く見られる鯖(サバ)
神社の一社で、全部で十二社ある。佐婆、佐波とも書く。祭神は左馬頭源義朝。源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためとい
われている。「七サバ巡り」、「サバ参り」あるいは「相模七左馬」といって疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪病除けになると言われた。
将田(ませだ)は北窪河内の田んぼで小栗の乗った荒馬の鬼栗毛(おにかけ)が厩栓棒(ま
せんぼう)をくわえて逃げ、それを捨てたところとか。厩栓棒とは馬小屋の入り口にさし渡す棒のこと。
そのまま坂を上ると最寄りの駅は小田急江ノ島線の六会日大前だが、丘の上でラーメンの昼食をとり、横須賀水道道の急坂をブレーキパッドが焼き切れないように注意しながら下り、サイクリングして帰宅。
October 1, 2017
Rev. June 28, 2018