由起しげ子 ゆき・しげこ(1900—1969)


 

本名=伊原志げ(いはら・しげ)
明治33年12月2日—昭和44年12月30日 
享年69歳 
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園1区6号1275号 



小説家。大阪府生。神戸女学院中退。神戸女学院中退後、画家伊原宇三郎と結婚したが、のちに別居して作家生活に入る。『本の話』で戦後第一回の昭和24年度芥川賞受賞。29年『女中っ子』が映画化されベストセラーになる。『警視総監の笑い』『脱走』などがある。






  

 夜半に父はふと口をきいた。
 「七時になつたら部屋を掃き出してきれいにするんだ」
 姉と私は、はい、と云つたが父にきこえたかどうかは分らなかつた。姉が二十分ほど行火の上に顔を伏せていた間、私はじつと父をみていた。父は自分がどこにいるのかとでもいうように不思議そうにあちらこちら跳めた.そして手を目の前にかざすようにしてそれをみつめた。視力が無くなったのか、それを確めているように見えた。瞳が一點に吸いつけられたように動かない。それはローソクの灯で見ると灰色の濡れた球のようであつた。それからかざしていた手を左右に振りはじめた。それは次第に元氣よく速く動いた。私は慌てて姉をゆすぶつた。
 「お父さんがへんですよ」
 私は二本のローソクを四本にした。そしてやはり行火のところにいたさと子を起して森の小母さんを呼びにやつた。私と姉が視ている間じゆう、父は手をふり動かした。それは自分の力をためしているようでもあり無明の闇をわけてどこかへ歩いて行くようにも見えた。私達は固唾をのんでそれを見まもつていた。そんな動作は三四十分も續いた。そして伯母とさと子がはいつて來た時にはもう何もしなくなつていた。伯母はお醫者を呼びにいつたから直ぐみえるでしようと云つた。姉も私も、父があまりしずしずと大航海のあとで船が港へ戻つてゆくように、あの世へ旅だつてゆくのを見ていると、もうここまで來たいま、どんな人のカを加えてもそんなことは蛇足だという氣がした。
                                                               
(告別)



 

 昭和44年12月30日、糖尿病と脳血栓のため日本医科大学付属病院で亡くなった由起しげ子は、一時期、山田耕筰に作曲を学び、同門の近衛秀麿などが驚くほどの才能を発揮していたというが、大正14年に画家伊原宇三郎と結婚。高級住宅街の邸宅に住み、三男一女をもうけるも、終戦の年、四児を抱えて別居。のち神近市子らの勧めによって作家の道に踏み込んだが、精神的に高等な感覚に裏打ちされた文学は、戦前の近代作家にはなかったものであった。
 一種ちぐはぐな感じのする手前勝手な小説手法は酷評もされたが、坂口安吾は〈トコトンまで物分りが悪くなり、エゴイストになるのが、彼女の大成する道であろう。トコトンまで手前勝手になり、冷酷、センチ、最も雑然たる妖光を発散するがいい。〉と評している。



 

 いつものことながら目当ての墓を見つけるのは大抵のことではない。まして霊園の入口から遙か見上げたところにまで、整然と建ち並んでいる大霊園の墓群の中に迷い込んだら、もうお手上げという状態になる。帰りのバスの時間も気になりながら、ようやく辿り着いた〈私は、まだ、由起しげ子の取り澄ましたような気品は、信用していない。且つ、この婦人が、高名な画伯の夫人だと聞いて、よけい、賞をやりたくなくなった〉と芥川賞選考委員の舟橋聖一にけちを付けられた由起しげ子の眠る墓は、土手際に立つしきびの影に朝陽を遮られていたが、白く刻まれた「伊原家」の文字はかえって、くっきりと浮かび上がり、裏面にはしげ子、宇三郎の名が並記されている。遠い昔、別居した二人が一つ墓に納まっている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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