湯浅芳子 ゆあさ・よしこ(1896—1990)


 

本名=湯浅ヨシ(ゆあさ・よし)
明治29年12月7日—平成2年10月24日 
享年93歳(秋香院妙露日芳大姉)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



ロシア文学者・翻訳家。京都府生。早稲田大学中退。昭和2年から5年まで、宮本百合子とともにソ連に滞在。帰国後プロレタリア文学運動に参加。ロシア文学の翻訳・紹介に尽力。戦後は婦人民主新聞の編集長。翻訳に『桜の園』『幼年時代』『かもめ』『伯父ヴァーニヤ』『森は生きている』などがある。






  

 チェーホフが一九〇一年に書き、一九〇二年、モスクワ芸術座で初公演された「三人姉妹」は、家庭における俗物根性の逞しく毒々しい生命力が、まともなもの、美しいもの、をしだいに破滅に追いこんでいくさまを描いている。これは今日の人間杜会の全様相に実によく似ているではないか。今日まで「三人姉妹」を上演するとき、ここまで思い至ったひとはなかった。チェーホフの未来を望む眼の鋭さは驚異以上である。
 夫を廃人同様のものにさせ、家のあるじであった姉妹たちを家から追い出すところまで漕ぎっけたとき、この俗物根性の権化ナターシャは言う。「じゃ、明日になったらわたしはもうここに一人ってわけね。(溜息をっいて)いいつけるわ、まずこの樅の並木を伐るように、それからほらこの楓……毎晩これが実に美しくないの……」
 この心醜い俗物が美を云々することほど滑稽なことはない。今日の杜会にこれに似た画は至る処にある。〝住宅難の緩和″に名をかりての宅地造成が美しい樹々を伐りはらい、山を崩して鉄砲水の原因をつくり、多くの人々の生命をうばう。しかし洪水の公報はひとつもそれにふれず、天災。の。ことく報告する、いま騒がれている公害のそもそもの原因は何か、なにもかもすべて私利私欲を追うことを生き甲斐とする俗物根性から出ている。そしてこの俗物根性の温床は、実にめいめいの家庭にあるのだ。

(狼いまだ老いず)



 

 昭和2年12月15日夕刻、厳寒のモスクワ駅北停車場に二人の女性が降り立った。
 湯浅芳子と中條(のち宮本)百合子、約3年間に及ぶソビエト滞在が始まった。芳子はロシア文学、百合子は自己変革と、以後の人生にとって決定的な時期をおくることとなるが、帰国後、芳子はナップに所属しプロレタリア文学運動に参加。チェーホフの『桜の園』などロシア文学の研究や紹介に尽力した。
 同性愛者であった芳子、百合子との愛と別れ、愛憎に重なる二人の苦く懐かしい思いも、平成2年10月24日、芳子の死によって総てが終わった。平成23年、浜野佐知監督の芳子と百合子の恋愛を描いた映画『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』が製作された。



 

 田村俊子と湯浅芳子、このふたりもまた愛憎の糸につながっている。
 俊子の七回忌に芳子が徹頭徹尾尽力して建てた「田村俊子の墓」がこの寺にある。その墓の隣に苔衣を纏った石の観音様が建っていた。
 潤湿な土庭に散り落ちた椿の花弁、添えられた菊花が清寥にして凛とした感情を呼び起こす。一時期生活を共にした山原鶴(たず)が 生前に建てた墓石、湯浅芳子もこの観音様に抱かれて眠る。因縁の宮本百合子と湯浅芳子を巡り合わせた野上弥生子も眠る北鎌倉東慶寺。陽は昇り陽は沈み、季節は幾たびとなく過ぎ去って、谷深く緑陰濃い墓地にそれぞれの因縁でつながれた湯浅俊子、田村俊子、山原鶴、野上弥生子、そしてまた陽は沈んでいく。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    湯浅芳子

   由起しげ子

   夢野久作