宗 左近 そう・さこん(1919—2006)


 

本名=古賀照一(こが・てるいち)
大正8年5月1日—平成18年6月20日 
享年87歳 
東京都新宿区須賀町10–2 宗福寺(曹洞宗) 


 

詩人・評論家。福岡県生。東京帝国大学卒。『同時代』『歴程』に参加し、詩集『黒眼鏡』『河童』美術評論『反時代的芸術論』などを発表。昭和43年東京大空襲で焼死した母への鎮魂歌の長編詩集『炎える母』で藤村記念歴程賞受賞。ほかに詩集『藤の花』『縄文連祷』、評論『日本美―縄文の系譜』などがある。







シャラシャラシャラシャラシャラシャラシャラ 
鳴りやまぬその金属音はもうわたしがその破片を
見ていないにもかかわらず湧き立つ明るい炎の花を
まるで浮き浮きした楽器みたいに叩いていた
不思議に軽く酔いの廻りそうな心を打ちすえでもするかのように
わたしはむきになって火叩きを左右し上下していたのだが
左右し上下することによって逆にわたしは左右し上下されていた
思いがけずもとりもちみたいに粘るその油脂の炎の花は
左でやっと一つが消えるとすでに右でもう一つが花開いているのだ
シャラシャラシャラシャラシャラシャラシャラ
鳴りやまぬその金属音に嘲笑けられていると気付いたとき
いつのまにか母の正面にむいていたわたしは母の頭の
黒い防空頭巾にもう一つの花が炎える花びらを散らしているのを見た
はじめて驚きと怒りがわたしのなかで爆けた爆けたと同時に
オカアサンはりあげたに違いないわたしの声をわたしは聞けなかった
いきなりガオーッ凄じい光の風が右手の炎の繁みから捲きおこり
金箔の部厚い闇で母とわたしを遮ってしまったのだああ
北九州の田舎町きってのいちばん大きいのを持っているんだと
威張っていた父の位牌を呑みこんだままお通夜を朝明けまで
百目ローソクと灯油の灯の燃えさかるなかで奥深く輝いていた
派手好きの父の夢をみたして金箔のはりめぐらされている
北九州で一番大きいかもしれない仏壇の内部にのみこまれた
みたいになって黒い明るさできらめいているオカアサン
オカアサンオカアサーン
シャラシャラシャラシャラ
死んだ父の位牌みたいになって動けないでいるわたしの前の
オカアサーン


(『炎える母』・金箔の仏壇)



 

 昭和16年12月8日正午、旧制第一高等学校寄宿寮の大食堂で聞いた太平洋戦争開戦のラジオニュースによって〈背中にとりついた死〉は左近を恐れさせた。学徒出陣を逃れるためにさまざまな体を悪くする方法を探して、最後には精神病者のふりをしてまで招集を逃れたが、親しい友人たちは学徒出陣や空襲の戦禍によって死んでいった。昭和20年5月25日、東京大空襲によって町という町が炎の海と化した中で、母と二人手を取り合って逃げ惑ったすえに生き延びたのは自分一人だった。戦争が終わっても戦後は始まらず、左近は死んでいった者たちに許しを請うた。母への、戦没者への、深い断罪、祈りと鎮魂、平成18年6月20日午前0時37分、87歳で亡くなるまで、命の尊厳を問い続けて止むことはなかった。



 

 東京大空襲の火の海の中、26歳の左近と58歳の母が逃れもたれこんだ〈西が本堂の壁で南が離れの正面で東が隣接の墓地で来たが小高い庭園で囲まれているこの六メートル四方の空間〉、と『炎える母』に詠んだ四谷左門町宗福寺境内。火柱を上げ燃えさかる本堂ともう一方の人家、南と東の墓地の墓石の群れの間に身を置きながら天を仰いだあの悲惨な夜の光景は七十数年を経た今、何処にも残っていないが、灼熱の太陽の下、本堂東の墓石の間を下って下って、崖下の墓群れの中、本堂を見上げるように建つ「宗左近の墓」。〈こころのなかに/肉体がない/ように/わたしのなかに/こころがない/そして/ないこころのために/私が立っている〉(『炎える母』・序詞—墓)



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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