相馬黒光 そうま・こっこう(1876—1955)


 

本名=相馬 良(そうま・りょう)
明治9年9月12日—昭和30年3月2日 
享年78歳(玄祐院良誉黒光大姉)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園8区1種5側3番


 
随筆家。宮城県生。明治女学校卒。国木田独歩の妻佐々木信子は従妹。明治31年相馬愛蔵と結婚して新宿中村屋を創業。店を文化人のサロンに開放。荻原守衛、中村彝、エロシェンコ、ボーズらがあつまった。自伝『黙移』、回想記『滴水録』、随筆『穂高高原』などがある。







 今は主人なきアトリエに行き、中に這入って見ますと、故人の作品は今は累々たる屍のように見えるのでした。その中に絶作となった「女」が彫刻台の上に生々しい土のままで、女性の悩みを象徴しておりました。私はこの最後の作品の前に棒立ちになって悩める「女」を凝視しました。高い所に面を向けて繋縛から脱しようとして、もがくようなその表情、しかも肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方に廻したなやましげな姿体は、単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました。胸はしめつけられて呼吸は止まり、私はもうその床の上にしばらくも自分を支えて立っていることが出来ず、孤雁はまたそこに顔を掩うて直視するに忍びないのでした。
やがて私は孤雁の立会いでふるえる手を以て机の抽出しを開けました。中には鉛筆で余白がないまで書き記した日記のような帳面が入っていました。故人の遺言に拠り、一行も読まず、そのままストーブで焼こうと致しましたが、ああいう手帳のような紙は、なかなか焼けないものです。もしも燃え残りの紙片のために故人の秘密が人に知られるようなことになってはと、一枚一枚丹念にちぎっては焼き、ちぎっては焼き、眼には一字も見ず火中に投じ尽し、如何に探るとも一切を甲斐なき灰としてしまいました。孤雁は私の冷酷な仕様を詰るように「イブゼン」の『ヘダガブラー』だと言って泣き、暫くの間死のような画室の静寂を破るものは孤雁の歔欷ばかりでありました。

(黙移)



 

 養蚕事業家の相馬愛蔵と結婚して新宿に中村屋を創業、本業のほか、「中村屋サロン」と呼ばれる芸術家や文学者の集う交流の場をつくり、萩原守衛、中村彝、エロシェンコ、ボースらと親交を結んだ。
 長男安雄は〈黒光ぐらい生涯を通じて自己の思いの儘をやってのけた人は稀であろう。総ての言動が自己中心に為されている。少なくともわが邦の女性として、且また人の妻女でこれ丈け自由奔放に振る舞った者は珍しい〉と書いている。
 昭和30年3月2日、北の風が時を刻んで冷え冷えとした空気を断ち切っていく。良(黒光)は逝った。明治30年、明治女学校を卒業した良は22歳、馬の背に揺られて信州に嫁入ってから半世紀が過ぎていた。



 

 先週来の名残雪が一握り、逆S字型の石踏みの傍らに転がっている。枯れ芝草の墓地に、土饅頭の上に据え置かれた自然石の碑がある。「相馬家墓」、それ以外の文字はない。揮毫は「中村屋サロン」のメンバー会津八一、墓は安雄が建てた。
 黒光は夫愛蔵の後を追うようにその翌年亡くなるのだが、さらに長男安雄も黒光の死の翌年に亡くなっている。
 思えば黒光の周りには数多くの愛憎が取り巻いた。萩原守衛、中村彝、木下尚江、松井須磨子、ロシア人の詩人エロシェンコやインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース、皆、黒光のまえに逝った。奔放な輝きは年月と共に放逸し、壮絶な哀しさは否応なく満ち、そして引いていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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