森 鴎外 もり・おうがい(1862—1922)


 

本名=森 林太郎(もり・りんたろう)
文久2年1月19日(新暦2月17日)—大正11年7月9日 
享年60歳(貞献院殿文穆思斎大居士)❖鴎外忌 
東京都三鷹市下連雀4丁目18–20 禅林寺(黄檗宗)



小説家・評論家・翻訳家。石見国(島根県)生。東京帝国大学卒。明治17年ドイツ留学、帰国後軍医学校教官となる。22年訳詩編『於母影』、23年『舞姫』翻訳『即興詩人』を発表。40年陸軍軍医総監。雑誌『スバル』に『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』などを発表。『阿部一族』『山椒太夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などがある。







  

 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコゝニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力トイエ此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
  大正十一年七月六日
                     
(遺言)



 

 鴎外の自宅〈観潮楼〉と呼ばれた東京・千駄木の家は定期的に歌会が催され、伊藤左千夫、上田敏、北原白秋、石川啄木、吉井勇、斎藤茂吉、与謝野晶子など会派の対立を超えて多くの歌人が参加した。
 軍医としての公的生活、文学者として私人としての生活、公私の矛盾による苦闘が生み出した独自の文学。その世界を確立した鴎外は、大正11年、腎萎縮と肺結核の重い症状により6月半ばから役所を休んだ。7月6日、大学以来の友人賀古鶴所に遺言の口述筆記をさせる。死は9日午前7時のことであった。死に顔を見た誰かが「衰へたる哲人の像を見るやうだ。」といった。
 遺骨ははじめ向島の弘福寺に葬られたが、昭和2年10月、三鷹禅林寺墓地に改葬された。また出生地である津和野の永明寺にも分骨された墓がある。



 

 三鷹・禅林寺の山門はすっきりと鮮やかであった。境内すぐ右手には谷口吉郎設計による白御影石の遺言碑が建てられている。
 寺の裏手にある墓は鴎外の戦闘的精神をあらわすように、中村不折の書による平体の力強い文字で、「森林太郎墓」と彫られていた。一切を打ち切る死が官吏からの訣別、「文学者」であることの宣言、石見人「森林太郎」をくっきりと浮かび上がらせている。
 はす向かいにはお香の匂いを漂わせている太宰治の墓があった。かって散策のおり、鴎外の墓に詣でて書いた〈こんなこぎれいな墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れない〉との一文に依るのだが、情死ということで檀家の反対がかなりあったと聞く。
 ——鴎外忌は毎年7月9日に行われる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    森 敦

   森 有正

   森 鴎外

   森田草平

   森田たま

   森 茉莉