城 夏子 じょう・なつこ(1902—1995)


 

 

本名=福島 静(ふくしま・しずか)
明治35年5月5日—平成7年1月13日 
享年92歳 
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園文学者之墓 



小説家。和歌山県生。和歌山高等女学校(現・桐蔭中学校・高等学校)卒。女学校時代から詩や小説を投稿。卒業後上京し、『令女界』編集者となって童話や小説を書いた。大正13年『薔薇の小道』刊行。長谷川時雨に出会い『女人芸術』に参加。またアナーキストの影響で『婦人戦線』にも参加。『毬をつく女』『白い貝殻』『六つの晩年』『林の中の晩餐会』などがある。








 姉の家では、日頃仏壇に花を供へたり、線香をあげたりしたことはない。娘のさゆりがキリスト教の大学を卒へて洗礼も受け、今は牧師の妻となつてゐるので、亡つた義兄の時もさうしたやうに、当然姉も娘婿の手によつて、キリスト教の葬儀となつた。
 夜来の雨がかつきり上つて、水浅黄に澄んだ空の午前十時、黒いガウンをつけた婿の牧師によつて姉は埋葬されたのである。柩の上には白いカーネーションが盛り上るやうな豊かさで、十字架を描いてゐた。七絵はその柩の中に横たはつてゐる姉の骸から、魂だけが抜け出して、この聖らかに温かい姿の花の十字架になつたのだと、一瞬空想した。あの五十年前の、東京駅に立つて迎へてくれた姉の姿を、そつくりこの花の十字架に見たのである。すると、姉の香は案外わたしの眼に見えただけの冷たい人でもなかつたのかも知れない、案外姉は、わたしが姉を嫌ってゐたほど、私を憎んではゐなかったのかも知れない、と気づいた。人間とはそんなものかも知れない。所詮、他人の眼といふ光線のあて方次第で、如何やうにも変化して見えるものではないだらうか。かく言ふわたしだって、まあふり返つて見れば、自分で自惚れてゐたほどいい人間なんかではなかった。


                                                         
 (『六つの晩年』・「屋敷 土蔵 臺 湯殿 便所」)



 

 吉屋信子、中里恒子、瀬戸内寂聴など少女小説から出発した女流は多いが、〈うら若き日に薔薇を摘み、老いてもやっぱり薔薇を摘む〉薔薇をつみつづけた少女城夏子もその一人であった。『女人芸術』や『婦人戦線』に参加して活躍したこともあったが、67歳の時、画家であった夫の亡くなったあとひとり住んでいた西武沿線常盤台の薔薇とひなげしとのうぜんかずらとコスモスと百合と紅梅と白椿と八重梔子と桃に守られた家を処分して千葉県流山に新しく出来た高級老人ホームに移った。そこでの屈託のない老後のお洒落な楽しみ方や思いのままの天衣無縫な生活を綴ったエッセイは多くの読者の心を捕らえたが、幸福病にとりつかれたままの平成7年1月13日、愛おしんだホームで人知れずひっそりと逝った。



 

 この作家は本当に無邪気で奔放だ。〈人間は死ねば空の空、魂なんか遺るものか〉という主義で〈どうせ灰になって、一握りの骨だけ拾はれた上は、小さな箱に収められて、あっという間にこの好もしい町を去る〉と考え、既に設えてあった冨士を見はるかす美しい霊園の文藝家協会「文学者の墓」のように美しい墓地に納められる骨が焼かれるのはどんな処かと、好奇心でホームのある地域の死人が運ばれる火葬場を訪ねたことを書いているが、かつて墓前祭の時に自分の墓の朱文字が剥がれてしまっていたのを一緒にいた萩原葉子らと面白半分で口紅を塗りつけたという碑には墨色の「城 夏子」、代表作として「毬をつく女」の彫り文字があった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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